連続テレビ小説「ひよっこ」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第18週「大丈夫、きっと」第106回 8月3日(木)放送より。 
脚本:岡田惠和 演出:田中 正
「ひよっこ」106話。視聴率着実に上昇、高度成長期を描くドラマの決定版になる
イラスト/小西りえこ

連続朝ドラレビュー 「ひよっこ」106話はこんな話


美代子(木村佳乃)は、世津子(菅野美穂)に、なぜ2年半も、実(沢村一樹)をそのままにしていたのか、厳しく問い詰める。

22.5%から23.5%へ、視聴率が着実にアップのわけ


105回は22.5%、106回は、23.5%と、視聴率はさらに上昇。前作「べっぴんさん」(16年)でやや下がっていた朝ドラへの関心を、取り戻しはじめたように見える。

実在する著名人の成功譚でなくとも、丁寧に人間の生活や個性を描いていけば、愛される。それが長いシリーズ朝ドラのいいところだと、改めて「ひよっこ」に教わった気がする。

拙著「みんなの朝ドラ」のインタビューで、脚本家の岡田惠和は、「ひよっこ」を書くに当たって、「朝ドラはごく普通の人間の生活という、地味な素材が長く(半年間)書ける。僕はそれがすごく好きで、向いていると自分では思っています」と語っている。
彼は「ひよっこ」でその得意な手法を存分に生かしたというわけだ。

クリシェをうまく使う岡田惠和


105回のレビューでも書いたが、人間の生活を地道にこつこつ書き連ねて来たからこそ、100回を過ぎたところで、主人公とその家族の心配の種だった、父の行方不明事件が、こんなにも盛り上がった。記憶喪失は、ややありきたりな設定ではあるが、人間の感情が重視されているので、気にならない。

岡田は、過去「ちゅらさん」(01年)で、主人公が終盤、重い病気になる、「おひさま」(11年)では、娘が不慮の事故に合う、ついでに書けば、「奇跡の人」(16年)では、主人公が最終回直前、交通事故に合うなど、いかにもドラマな出来事を、ケロッと盛り込んでくるのだが、それはあくまで、釣り餌であって、書きたいことが他にあることを感じさせてきた。

とにかく、「ひよっこ」は記憶喪失をうまく使っている。

出色だった106回を振り返る


記憶喪失とはいえ、2年半もの長い間、夫が一緒に住んでいた女・川本世津子の元を訪れる、妻・美代子。
瀟洒なマンション、有名女優、ふかふかのスリッパ・・・すべてが美代子を気後れさせる。
しかも、ようやく再会した実には、初めて会ったような顔で、「ごめんなさい」と言われてしまう。
7話で、都会に出稼ぎに行く夫に、都会にはきれいな女の人がいると心配していた美代子。おそれていたことがある意味、現実になってしまったのだ。

着物を着てくればよかったかな、と105回でつぶやいた美代子が、自信のもてない服に、ほころびを見つけて、いじっているところを、みね子に気づかれてしまう。
ここは、素知らぬ顔をして、顔は前を向きながら、手だけ、ほころびをぐにぐにいじってるほうが良かったかも。そういう経験って誰もがしたことがあると思う。

とはいえ、美代子も負けてない。
まず、世津子に「感謝」を述べて“正妻”の優位感を出し、そのまま「夫を引き取りに来た」と宣言する。
そこまでは冷静を装い、だが、その後は2年半分の想いが吹き出す。


「この2年半、家族がどんな思いで生きてきたかわかりませんか 考えもしませんでしたか」
「この人に家族はないだろうか、その家族がどんな思いでいるんだろかと、考えもしませんでしたか」
 
激昂する美代子に、実が「それは私が・・・」と言いかけると、世津子が「出ていってほしくなかったんです」
遮る。
世津子役の菅野美穂は、姿勢やカラダの向きから、正妻には勝てない二番手感を絶妙ににじませながら、二番手なりの言い分を語りだす。

「楽しかったです、一緒にいるのが」
「ここへ来たときからは 名前のない人でした」
「雨の日に出会ったので、雨男さんと呼んでいました」
「はじめて 早く家に帰りたいと思った。生きてきてはじめて そんな時間でした」

「名前のない」と聞くと、「名前をなくした女神」(11年 フジテレビ)という、今思えば、朝ドラヒロイン(杏、倉科カナ、尾野真千子)が集結した(しかも脚本は「べっぴんさん」の渡辺千穂)に木村佳乃も出ていたなあ、などと余計な情報を、こんなにシリアスな会話の中で、盛り込みながら(意図してないかもしれないが)、あくまで、シリアスに、世津子の、正妻を立てる潔さや上品さを持ちながら、でも、この2年半の自分たちの状況も隠さない意地が描かれる。
少ない言葉の中で、どろっどろの胸のうちを感じさせる、このへんは、向田邦子的といえるかもしれない。

傍観者に徹する主人公


こうなると、男(実)は蚊帳の外みたいになって、女のメンツ争いの、賞品扱い(そこが朝ドラ、女のドラマ)。
妻に「帰りましょう」と言われて、ちょっときょとんとして(なにしろ記憶を失っているのだ)「(世津子と)少し話を」と言うところが、なんだか、振り回されてる感じで、可哀そうになってくる。
だが、当の世津子は「その必要はありません」とさっさと部屋を出て、彼の荷物を持ってきて、手渡す。

「さようなら、もう2度とお会いすることはないと思います、谷田部さん」

ここで、もうひとり、蚊帳の外というか、涙を流しながら、ここでは傍観者になっている人物・主人公のみね子の頭の中に想いを馳せてみる。
けんもほろろな応対をする世津子の気持ちが、おそらく、みね子にはわかったはずだ。
島谷(竹内涼真)との別れで、同じ経験をしているから。みね子も、家とみね子との間で揺れる島谷の心を察して、きつい言葉を言って身を引いている(97話)。
ここで、105話の、みね子を妹のように気にかけている愛子(和久井映見)の助言「今日のあなたはお母さんだけ見てなさい」が効いてくるという寸法だ。

世津子の気持ちがわかるから、母と世津子の間で、みね子が苦しむことを、愛子が予期していたのだろう。

メゾネットのマンションが示すもの


こうして、実は、螺旋階段を上がって、世津子の元を去って行く。
世津子のマンションがメゾネットであるという構造が、ドラマをいっそう深める。
玄関のある階から下に螺旋階段で下りる地下感、黄泉の国感。人が匿われている感じ、ちょっと後ろめたい感じがするではないか。だが、いわゆる地下世界ではなく、そこには光が差し込み、植物がたくさんあるという、
むしろ天国のような場所である。
長らくそこにいた雨男と呼ばれていた実は、階段を上がって、地上(本当の世界)へと戻っていく。

105話では岡田惠和に拍手を贈ったが、今日は美術スタッフに拍手したい。
「ひよっこ」106話。視聴率着実に上昇、高度成長期を描くドラマの決定版になる

谷田部実は、高度成長期そのものである


でも、やっぱり、岡田惠和にも引き続き拍手。彼の書くものに、視聴者がたくさんの想像を託すことができる懐の広さを感じるのが、記憶喪失についてだ。

菓子浩プロデューサーがスポニチの記事で、戦後は、戦争のトラウマによって記憶喪失の症例が多かったらしいと、根拠を語っていて、ベトナム戦争のトラウマを描いた「タクシードライバー」(76年)みたいだと思ったが、それだけでないものも想像してしまう。
前述した「みんなの朝ドラ」で岡田は、「(前略)どうしても高度成長期や戦後復興時代をやると、ノスタルジックに、あの頃はよかった、人が温かかった、みたいな世界が好まれるけれど、僕は昭和をそういうふうにはまったく思っていないんです(笑)」
「あの頃はみんな温かくて、みんなが前を向いていて、みたいなことは幻想でしかない。本当はいまよりひどかったことがいっぱいあるんです。それこそいまでいう格差も、いまとは違う形でもっとすごかったと思うし、だから、そういうことを省いて、ただノスタルジックに描くつもりはないです」(247〜248ページ)
と語っている。
とすると、岡田は、谷田部実に、高度成長期がもっている、忘れてしまいたい負の部分を託したのではないか。
高度成長期、東京オリンピックのために出稼ぎしていたところ、事件に巻き込まれ、記憶を失くし、しばし女優との豊かな生活に身を委ねていた実。
彼が、負もある現実が戻って来ることで、高度成長期の、良い部分とあまり良くなかった部分を、きちんと認識でき、かつ、そのどちらを選ぶかは観る者に委ねるという、理想的な描き方になるのではないか。実は、高度成長期そのものに思えてくる。

あの頃は良かった的なものが受けていた高度成長期を描いたドラマの、新たな方向性が、「ひよっこ」によって見つかるのではないか、と「みんなの朝ドラ」でも希望をこめて書いたが、そうなる可能性が確かになってきた。
(木俣冬)