いま、大注目の文芸編集者!篠原一朗さん。文藝春秋社時代に、本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』(宮下奈緒著)や 『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ著)、アーティストの作品など数々の話題作を担当。
■会社に残っているほうがリスクだった
まずは、大手出版社である文藝春秋社に籍を置いていた篠原さんが、2020年、水鈴社を設立したきっかけは何だったのか。
「大手出版社にいると1年間で10冊とか、とにかくたくさん本を作らなきゃいけない。で、1冊できたらすぐ次の本に取りかかるという状況があって、本を作ることに関しても本を届けることに関しても全力を出し切れなかったと思ってしまうことが度々あったんです。大手では分業制も進んでいるので、本を作ったら、あとはプロモーションの部署、営業の部署、ライツの部署によろしくお願いします、という感じなんですね。
それはシステムとしてはよくできていましたが、もっと作品に対して納得いくまで練り上げて、出来上がった作品の部数や定価を決めたり、販売施策を考えたり、映像化はどうするといった二次展開まで、最初から最後までその本のことを考えて関わっていきたいと思ったのが一番のきっかけです」
1冊の本のすべてに関わっていきたかった、ということか。
「というのと、自分のキャリアを考えた時に、ずっと文芸部にいて40歳に近くなっていた僕には、もうどこにも行く部署がないと思ってしまったんです。本来、文藝春秋はとても異動の多い会社なのですが、雑誌のほうへ異動になったとしても、他の人が下働きから始めてデスクになってと経験を積んでそのポジションについているのに、雑誌編集の経験が乏しい僕がいきなりデスクをやれと言われてもたぶんうまくはできないだろう、と。
文芸の世界で出世したとしても、管理職になってしまうと本作りはできない。それは嫌でした。
そんな悶々としていた頃、篠原さんが編集を担当した瀬尾まいこさんの本 『そして、バトンは渡された』が本屋大賞を受賞した。授賞式後、2人で打ち上げに行った帰りのタクシーで、瀬尾さんに出版社を設立しようと思っていることを告げたそうだ。
「出版社を作るのであれば瀬尾さんの本を一番最初に出したいなと思っていたので、『独立して出版社を作ろうと思うので最初の本を書いてください』とお願いしたんです。そしたら『わかりました、書きます』とあっさり言ってくださって」
それが水鈴社の最初の本『夜明けのすべて』が生まれたきっかけである。それにしても、なぜ編集者という職業を選んだのだろう。もともと本好きだったのか。
「小学1年から4年までの丸3年間、父の仕事の都合でスリランカに住んでいたんですけど、当時は内戦中だったのであまり家から出られなくて、友達も少なくて、ずっと家で本を読んでいました。椋鳩十全集、江戸川乱歩、星新一とか。漫画も読んでいましたね。釣りが好きだったので、釣りや魚の本を読むのも好きでした」
帰国後も、本が手放せなかった篠原さん。だから、漠然と将来は出版社に行けたらという希望はあったものの、「文学部に行っても潰しがきかない」という父親の助言に従い、大学は経済学部に入った。
「週に1回のアルバイトだったんですけど、大好きな椎名さんの事務所は楽しくて入り浸るようになってしまいました。仕事は本の整理とか買い出しといった雑用ですが、作家という人種はなぜかくも魅力的なのか、自分の好きな人のために働くということは素敵なことなんだなと実感できたんです。当時はただのアルバイトですけど、自分が媒介となって作品が生まれたらすごく嬉しいだろうなと思いました。その段階で強く出版社に行きたいと考えるようになりました」
■「生きるのが大変だ」と知ったゼネコン会社時代
大学卒業後、出版社の入社試験を受けるが、当時は出版業界の人気が高く、かなりの難関で断念、父親と同じゼネコンに入社した。
「出版社に入れなかったので、だったら、大きな安定した会社に入って就業時間内だけはきちんと仕事をして、あとは自分の時間で趣味や読書を楽しむという人生を送ればいいやと思っていたんです。ところが、入ったら思っていた以上に大変で、自分の時間などありはしなかった。当時はコンプライアンスという言葉もほとんど聞かなかったですし、会社として新入社員の学生気分を抜いてやろうと思う気持ちもあったんでしょうね。
現場監督研修があって、毎朝、朝礼してラジオ体操をした後ヘルメット姿で現場に出るわけですけど、先輩社員や職人さんたちには可愛がっていただきながらも散々怒鳴られました。つい最近まで学生だった小僧が現場監督をするのだから当然ですよね。早朝から深夜までコンクリートを打ったり仕事をこなして、土日も働くという生活でした。
そのタイミングで一人暮らしをやめ、実家に戻った。
「やっぱり出版社で働くことを諦めきれなくて、第二新卒とかをいろいろ探したんですが、どの会社も新卒しかとってくれない。新卒にしてもすごい倍率でしたから、もう1回受けたところで受かる見込みはないわけです。実際第二新卒の試験を受けたんですが、大きな出版社にはとてもじゃないけど入れなかった。で、いろいろ探していた中で幻冬舎が編集アルバイトを募集していることがわかったんです。幻冬舎は当時、ものすごく勢いのある会社だったので、アルバイトでもいいから入れていただきたいと思いました」
結果的に編集アルバイトとして幻冬舎で働くわけだが、アルバイトという立場に不安は感じなかったのだろうか。
「会社を辞めたくてしようがなかったので、受かった時は嬉しかったですね。実際、幻冬舎での仕事はすごく楽しかったんです。新卒でいきなりだったら大変だったのかもしれませんが、そのゼネコンはいい会社だったけれど僕には興味を持てる仕事ではなかったし、社会人として生きるのがこんなにも大変なんだと知った後だったので、どんな状況でも苦になりませんでした。
幻冬舎は体育会系でゼネコン時代より忙しかったけれど、アルバイトでもいろんな経験をさせていただけたんです。
その後、社員となり、数年後に発売された『新13歳のハローワーク』では篠原さんが村上龍氏の担当編集者となって敏腕を振るっていた。さらに、カルチャー雑誌の編集長にも就任、様々な本作りを経験した。にもかかわらず、11年間務めた幻冬舎を辞めたのは何故なのだろう。
「僕を編集者として育ててくれたのは幻冬舎なので、今も感謝あるばかりですし、僕の編集者としてのマインドは幻冬舎で培われたものだと思っています。だけど、人間関係だったり仕事のことだったり、いろんなことが重なって、その環境にいるのが辛くなっていました。そんなところに文藝春秋で懇意にしていた人から『中途採用を受けてみないか』というお話を何度かいただき、最後に『転職は年齢的にラストチャンスだよ』とも言われて。もちろん文藝春秋社は小説の世界では横綱なので、そこで働いてみたいという気持ちもありました。
ただ、今になってみれば、水鈴社でアルバイトから10年育てた若者がポッと辞めたら、僕は怒らない自信がありません。当時、30歳を過ぎても自分のことしか考えられない子供だったんですよね。世の中の道理や、義理や恩ということを全然わかっていなかった。でも、それが結果的に水鈴社の設立につながっているので、無知と無謀って強いなとは思います」
★インタビュー第2回につづく・・・
取材・構成:大西展子
篠原一朗
編集者/株式会社水鈴社 代表取締役
1978年東京生まれ。
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