矢野アロウは、第11回ハヤカワSFコンテストに投じた『ホライズン・ゲート 事象の狩人』が大賞を射止めてデビュー(単行本は2023年12月に刊行)。本格SFの書き手として期待を集めている新鋭だ。

 本書は、それにつづく第二長篇。早川書房編集部が原稿の段階で、「『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』に比肩する面白さ」と猛プッシュ。2月初旬刊行の『SFが読みたい! 2026年版』で異例の先行レビュー(しかも冬木糸一、大森望、あわいゆきの三本立て)を掲載、3月にはプルーフが出版・書店関係者に撒かれるという鳴り物入りだった。

 その話題作がついにお目見えである。

 物語の発端は、月の南極近くのクレーター。2021年12月、中国の無人探査車が、高さと幅がおよそ3メートル、長さが25~30メートルの構造物を発見したのである。〈神秘小屋〉と名づけられたそのなかには数十人の遺体があり、すべての頭部がなくなっていた。人間に似ているが、その身体はあきらかに人間のものではない。体毛、へそ、乳首、性器がなく、四肢の先はヒレ状になっている。これらの遺体は〈ルナ・ボディ〉と呼ばれるようになった。

 中国は〈ルナ・ボディ〉の情報を占有しようとするが、もちろん、他国からは強い反発を浴びる。とくにアメリカは自前の新型探査機を月に送りこむ計画さえ立てた。

いっぽう、学術レベルでは〈神秘小屋〉と〈ルナ・ボディ〉の研究をおこなう研究プロジェクトが立ちあがる。

 中国とアメリカの緊張関係のなか、国連の調整委員に抜擢され、両国の研究機関を往き来できる立場となったのが、楊張敏(ヤン・ヂャンミン)。彼がこの作品におけるいちばんの主人公だ。国連の調整委員といっても、実際は不安定な身の上である。エンジニアとしてNASAに勤務しているが、裏の顔は中国共産党がアメリカに送りこんだスパイだ。ところが、中国側からはしっかりスパイ活動をしていないのではないかと疑われている。いっぽう、アメリカ側にはとうにスパイであることがバレており、あえて泳がされている。しかも、ヂャンミンが全幅の信頼をおいていた相手が、実はアメリカ政府が手配した監視であり、ずっと彼の行動をチェックしていたのだ。しかし、それがわかったあとも、ヂャンミンとその相手との微妙な関係は解消されることなく、ときに助けあってそれぞれの仕事をつづけていく。

 こうした人間関係の機微というか、絶妙のバランスがほかの登場人物たちのあいだにも成立していて、よくできた連続ドラマを観ているかのような面白さがある。

 ヂャンミン視点での〈ルナ・ボディ〉をめぐる物語に挟まるようにして、別な視点の三つのエピソードも進んでいく。

 ひとつは、「意識がどう生まれるか。

そして、消えるときどう感じるか、残るものは何なのか」を考えつづけている、タイ人の脳科学者ジャムのエピソード。彼女はいま京都の大学で研究をしており、担当教授からの紹介で、ALS患者の南井真一と知りあう。南井は凶悪犯罪によって死刑が確定したのち、ALSを発症した人物だ。

 もうひとつは、先天性の障害で車椅子を使っている、タイの少女ミントのエピソード。彼女は人気VTuber〈ベティちゃん〉に憧れ、自分でもVTuberをやってみたいと思っていた。推し活がらみで人に会いに行き、目的の住所の精肉店の冷凍庫に首なし死体を発見したことで、彼女の人生が大きく変わってしまう。

 そして、さらにもうひとつ、実業家アレクサンダー・コーツのエピソードがある。ジャムやミントのエピソードは、ヂャンミンのエピソードと時間的に並行しているが、コーツのそれは時間をさかのぼった1984年からはじまる。おしりもIT黎明期、SFではウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』が発表された年だ。コーツは人間の精神をアップロードする技術に関心を持っていた。ビジネスでシリコンバレーを訪ねたおり、取引先のテック企業の天才たちが注目しているという、生命凍結保存技術(クライオニクス)研究施設を見学する。そこでは将来的に永遠の生を得るため、人体まるごとではなく首だけを保存するというのだ。

 本書全体は三部構成で、ヂャンミン、ジャム、ミント、コーツのエピソードが交互に語られるのが第一部。ミントが友人のハルキを介してジャムとも縁があるなど部分的なつながりは示されるし、月で発見された〈ルナ・ボディ〉とタイの精肉店の首なし死体など、暗合というか反復というか、そういう伏線めいたところも多い。

 それらが本格的に結びついていくのが、第二部、第三部である。ギョッとする力業めいたアイデアも飛び出し、物語は予期せぬ彷徨へと発展していく。怒濤の展開は、たしかに『三体』を彷彿とさせるが、リーダビリティははるかに高いのでそんなに身構える必要はない。生命科学、物理学、情報理論、医学、死生学など、さまざまな知識がふんだんに盛りこまれているところは、小松左京ばりだ。

(牧眞司)

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