「終わったよ、おばあちゃん。大変な人生だったけど、ぜんぶ終わったから、もう心配しなさんな」

4月29日午前、老衰のため都内の高齢者施設で亡くなった作家の佐藤愛子さん。

102歳だった。

亡くなる前夜、一人娘の杉山響子さん(66)は、波乱の中を筆一本で駆け抜けた母の人生を思い、布団の下でそっと手を握りしめた。

「あの強かった母ですが、以前から『私が死ぬときは手を握っていてちょうだいね』と言っていたので、意識もない状態でしたが、『ここにいるよ』との思いで手を握ったら、思いがけず強い力で握り返してきたんです。

昨年11月に102歳の誕生日を施設で祝ったときの母のイメージは、やせ衰えたシワシワのゾウがかろうじて立っている姿。4半ばにはとうとうガクリと膝をついて、月を越さずに29日、家族に見守られ眠るように旅立ちました」

まだ元気なころから、

「私が死んだら、『母親について書いてくれ』ってあっちこっちから言ってくるよ。そのつもりでな」

と言い残していたが、その状況はすぐには訪れなかった。

「実は母の亡くなった日の夜、私は寝込み、翌日に顔面麻痺の診断も下って緊急入院となりました。

1カ月前には18年飼っていた猫も亡くしていて、そこに母との別れが重なり、心労が一気に爆発してダーンと押し寄せた感じです。

ですから、母の死が公表された日も私は入院中で、マスコミ対応などもできなかったんです」

響子さん自身、今年1月に、母の認知症や介護生活などを綴った『憤怒の人』を出版し、同書はベストセラーとなっている。家族だけが知る「人間・佐藤愛子」の素顔と晩年について語ってもらった。

1923年(大正12年)11月5日、作家の佐藤紅緑と女優の三笠万里子の間に大阪で生まれた愛子さん。

戦時中に20歳で結婚した夫は、モルヒネ中毒の末、死去。

このころから創作活動を始め、同人雑誌で出会った作家の田畑麦彦と再婚。

1960年3月に響子さんが誕生する。

「両親はお金のことでしょっちゅう夫婦げんかしていて、母がアイロンで父のティーカップを叩き割ったシーンを覚えています」

44歳で、夫の借金を肩代わりしたのちに離婚。その顚末を綴った『戦いすんで日が暮れて』で1969年に直木賞を受賞し、売れっ子作家に。小気味よい毒を含んだエッセーも絶大な人気で、2016年の『九十歳。何がめでたい』はミリオンセラーとなり、映画化され話題に。

その後も100歳でエッセー集を出すなど執筆は続けていたが、

「まだ新聞連載を引き受けたりもしてましたが、その分イライラも募ったのか、私たちへの八つ当たりもひどくなって。あとは、坂を下るように物忘れや勘違いが増えたりで、2024年にはアルツハイマー型認知症の診断が下るんです」

要介護2となってからは、監禁されていると妄想したり、響子さんを亡くなった姉と間違えたり。

「小さなころの“アイちゃん”に戻っていたのだと思います。決定的だったのは、電動介護ベッドを入れてから。書斎の様子が一変して、『ここはどこか?』と戸惑う場面もあり、まさにあのときを境に急転直下で症状が進みました」

■内階段から階下の母にエネルギーを吸い取られ

書斎を含め愛子さんは1階で、2階に響子さん夫婦と、響子さんの娘で『佐藤愛子の孫は今日も振り回される』の著書もある桃子さん(34)が暮らす2世帯住宅。

「母が勝手に2世帯にしたいと言い出したのに、プランが動き出したら『建築費を半分出せ』と。

こっちはまだこれから幼い娘にお金がかかる時期でもあったので、思い出すと今でも腹が立ちます。

最も受け入れ難かったのが、家の真ん中で1階と2階を行き来できる階段。向こうは私を便利屋のように使うつもりなのが見え見えでしたから『やめてくれ』と抵抗しましたが、押し通されましたね」

この内階段には、さらに厄介な問題があった。

「家相や風水的に最悪だったんです。母に呼ばれるたび、2階から駆け下りる。私たちの生体エネルギーが、ゴボゴボーッて音を立て渦巻きながら階下に吸い取られていく感じで。だから、母のほうはあんなに元気だったんですよね」

ほぼ毎日、階下から聞こえてくる「キョーちゃん!」の声。

「デジタル嫌いでしたから、当初はネットとスマホの違いもわからずに『イントーネッタ』なんて言ってたこともありましたっけ。そこを何かとフォローしたり。

あとは、とにかく怒っているんです。多くは、仕事がうまくいってないときですね。自分で『私は怒ると活性化するんだよ』と言ってましたが、あれも荒ぶる佐藤家の血なんでしょう。

実は大学卒業後に母に言われ月10万円の薄給で秘書をやっていたんです。24時間365日勤務のうえ、わがまま放題の“パワハラ上司”でしたから、すぐに辞めましたけど」

老いの自覚とともに、愛子さんは終活ノートも用意していた。

「母はお金にはシビアでした。父の借金を自分の筆だけで返したころの苦労が染み込んでいたんですね。ノートを見ると、最初の結婚のときのお子さんへの財産分与まで、きちんと手は打っていました。

ただ、お金への執着はなく清貧に誇りを持っており、国境なき医師団への寄付も続けていました」

まさに「機関車のように」書き続ける姿を、響子さんはいちばんそばで見続けてきた。

「生きるために凄まじい形相で書いていた作品をあとで読めば、笑えるユーモア小説だったりして。

中学のころまで、私は一人で眠れなくて、母の机のそばに布団を敷いてもらい、座布団を枕にして寝てました。のちに母は『かわいそうなことをした』と言いましたが、私には二人だけの大好きな時間でした。どこより安心な“結界”の中でまどろんでいたんです」

互いにかけがえのない存在であったのですね、と問いかけると、

「うーん、正直、私がずっと依存されていたかな(笑)。まだ母が元気なころ、一緒に乗った飛行機が激しく揺れたとき、『あんたと一緒なら、このまま死んでもいいよ』って言うから、『イヤだよ、私は生きるよ』と返事してました。

今、改めて思うと、わがままを生涯通したあの母と、よくやったと思います、私。

あまりに理不尽な怒りを前に、母を本気で殴りたいと思ったことも。でも元気なときならコンチクショーの勢いでできても、最晩年には弱ってしまいましたからね。逆に切なくてできませんよね」

葬儀は、すでに近親者で済ませている。

「自宅で行いました。これも、母の『家でやりたい、葬祭場は絶対イヤ』という言葉があったから。

とにかく、この家への執着は強かったですね。3番抵当まで入っていたのを自分が守り通した砦との思いもあったんでしょう。最後まで『2階を人に貸して、あんたたち夫婦が1階に住めばいい。桃子が結婚したら2階に住まわせな。貸せば20万円は取れる』なんて言ってましたけど、そんなに取れるかいな、と思ってましたが」

自身も、母との別れと同時に10日間に及ぶ入院生活を送り、目や口の不自由を抱えながら、退院の日にも真摯に取材に応じてくれた。

「ずっと母の背中を見てきましたから。仕事は全力でやること、正直に答えること。

この二つは、私が母から学んだことです。何でもあからさまにしゃべると、あとになって後悔も出るかもしれません。でも、母も生涯を通じて貫いた生き方なので、そこは娘として同じでありたいと思うんです」

母として、作家として、まっすぐに人生を全うした佐藤愛子さん。残されたあまたの作品たちが、この先も私たちを元気づけてくれる。

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