「6月18日に、私が会長を務めている日本訳詩家協会のミーティングで、来年2月のステージに美輪明宏さんに出演していただこうと提案したばかりでした。

最近、テレビなどで美輪さんをお見かけする機会が少なかったのでご体調を心配していましたが、ミーティングの2日後に亡くなったと知ったときは『あぁ……』と、言葉になりませんでした」

こう語るのは、歌手の加藤登紀子さん(82)だ。

美輪明宏さん(享年91)との最初の出会いは、いまから約60年前にさかのぼる。

「1964年、1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールに出場したこともあり、2年連続で美輪さんのリサイタルに行きました。私は1964年のコンクールでは優勝できず、美輪さんも歌っていたシャンソン喫茶『銀巴里』で、昼間だけ歌わせてもらえるような練習生でしたので、ごあいさつなんておこがましい。ところが1965年は優勝したことで、楽屋にごあいさつに。『聞いているわよ。あなたの声、いいじゃない』という美輪さんの言葉が忘れられません」

シャンソン界で独自の活躍を見せる美輪さんは、加藤さんの歌手としての指針にもなった。

「当時のシャンソンの日本語歌詞は“淡い桜色”で、“どぎつい赤”ではない。物足りなさを感じて、あえてフランス語で歌っていた時期もありました。でも、美輪さんの歌う日本語歌詞はメッセージ性が強くて、“こんなふうに歌いたい”と奮い立ちました。美輪さんは、私の歌手としてのベースを築いてくれた存在でもあるんです」

■“改名アルバム”で『紅の豚』に抜擢され

1987年ごろ、加藤さんが美輪さんにインタビューする機会があったときのことだ。

「霊的なお話もされていて、私には『あなたは大丈夫よ。後ろにヘンなものがついてないから』と言ってくださいました。

私が初めて会ったときは“丸山明宏”でしたが、すでに“美輪明宏”に改名され、もはや天上人のようなオーラをまとっていました(笑)」

インタビューでは改名が話題に。

「美輪さんが、同席していた西山という私のスタッフをまっすぐに見据え、『あなた、東山にしたほうが売れるわよ』とアドバイス。冗談だったのかもしれませんが、その場のノリもあって、西山さんは私の『MY STORY』というアルバムだけ、掲載するクレジットを“東山”に変更したんです」

ところがアルバムは加藤さんの期待に反して不発。しかし、それから5年後のことだった。

「スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーに聞くところ、このアルバムを、宮崎駿さんが擦り切れるほど聴いてくださったそうです。それがきっかけだったのでしょう。映画『紅の豚』(’92年)に声優として抜擢され、アルバム収録曲『時には昔の話を』がエンディングテーマに採用。思わぬ形で御利益をいただきました」

2017年には、加藤さんが毎日新聞で連載していた対談記事に美輪さんが登場してくれた。

「昔の話をたくさんしてくださいました。なかでも、煤で汚れた炭鉱労働者の前で、きらびやかな衣装で歌うことに葛藤を抱き、『ヨイトマケの唄』が誕生したという秘話が印象に残っています。美輪さんは弱きものに寄り添い、ご自身も長崎の被爆者であることから、反戦への思いも強かった」

加藤さんも反戦を訴える歌手だ。

「美輪さんは91歳で亡くなるまで、戦争の恐ろしさを伝えてきた人。

政治的な発言を控える歌手も多いですが、これからも反戦への強い思いを込めて、歌い続けていきたいですね」

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