この秋公開に向けて再建工事が進む首里城正殿前の大龍柱が、「相対向き」で設置されることになった。 正殿復元事業を担う沖縄総合事務局が「平成の復元を踏襲し、令和の復元でも向かい合わせで設置する」と説明した。
2021年に示された、国の技術検討委員会の相対向きとする暫定案にのっとった形だ。
 正殿の正面階段の左右に立つ大龍柱は首里城の象徴の一つ。その龍柱が互いに向き合う「相対向き」か、ともに御(う)庭(なー)側を向く「正面向き」かで激論が続いている。
 前回1992年の平成の復元では、正殿の設計図に当たる王府記録「寸法記」(1768年)や「御普請絵図帳」(1846年)などの尚家文書で、大龍柱が相対向きに描かれていることを重視した。
 ただ今回、令和の復元過程で、1877年にフランスの軍人が撮影した正殿写真が研究者によって発掘された。正面を向く大龍柱が写る新史料だ。
 それなのになぜ。
 結論的に言えば、古写真より、公式記録である寸法記や尚家文書の方に信頼を置いた判断ということなのだろう。
 一方で技術検討委も、絵図帳の時代から古写真までの約30年の間に向きが変わったことは認めている。しかし、その理由については謎のままとする。
 そもそも絵図は正確なのか。絵図より写真の方が有効な証拠ではないか。

 疑問は尽きない。
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 首里城は建てられてから何度か姿を変えており、大龍柱も数回造り替えられてきた。
 時代によって正面を向いたり、向き合ったりしているが、向きには、それぞれ意味が込められているはずだ。
 大龍柱が正面を向く古写真が撮られたのは、琉球王国の歴史が閉じられ沖縄県となる「廃琉置県」の2年前。
 その後、正殿は1933年に「沖縄神社」の拝殿として修理され大龍柱は向かい合わせとなった。
 正面向きで復元を訴える市民らは、「相対向きは神社のこま犬のようで国家神道の名残」「国家意思が働き相対向きになった」など疑問を呈する。
 この間、市民らはシンポジウムを開くなど議論を重ねてきた。
 大龍柱の向きは琉球王国の思想にもつながる。どちらでもいいということにはならない。
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 7年前、首里城は激しい炎に包まれ、県民の目の前で崩れ落ちた。がれきと化した正殿跡に、一対の大龍柱だけが猛火に耐え立ち続けていたことを思い出す。「奇跡の龍柱」は再建のシンボルにもなった。

 大龍柱を巡る議論が熱くなるのは、琉球王朝に代表される独自の文化を背景に「私たちの首里城」をよみがえらせたいという県民の思いの表れでもある。
 これまで判明したこと、不明な点をきちんと整理した上で、30年の空白を埋める努力が求められる。見切り発車は禍根を残す。
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