TBSが世間から厳しい批判にさらされたのが、TBSビデオ問題だ。当時、同局の報道番組『NEWS23』のニュースキャスターだった筑紫哲也さんは、TBSを厳しく批判した。
番組の編集長を務めた金平茂紀さんの著書『筑紫哲也「NEWS23」とその時代』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
■在京テレビはオウム事件一色に
1995年は大変な激動の年だった。戦後50年の節目の年にあたり、8月にはいわゆる「村山談話」が発表された。それに先立つ1月17日の早朝に阪神・淡路大震災が発生した。そして震災発生からまだ2カ月余りしかたっていなかった3月20日の朝、今度は、東京の都心で、地下鉄サリン事件が起きた。
その日の朝のことは、僕も『23』の担当デスクだったので、今でも生々しく記憶している。この戦後史に残る無差別テロ事件以降、教団本部への強制捜査、麻原彰晃(松本智津夫。2018年7月死刑執行)の逮捕、教団の事実上の壊滅作戦という急展開をみることになる。
前記の阪神・淡路大震災の報道総量をはるかに上回る量の情報が流された。そのことに対する批判の声も主に関西からあがった。それは確かに不幸な事態だった。東京中心のメディアは、以降すさまじい質量の報道合戦を展開することになる。

僕自身はそれらの動きの渦中にいて、「テレビが発情している」と表したことがあった(拙著『電視的』太田出版 1997年)。テレビではオウム事件関連の特番がいくつも組まれて、内容の質を問わず、それらの放送は高い視聴率を記録した。
■「ビデオ事件」が速報されたTBS社内は…
それは、1995年10月19日の日本テレビ昼ニュースでの放送が第一報だった。一連のオウム真理教事件のなかでも特筆されるべき残虐な事件のひとつ、坂本堤弁護士一家殺害事件の発生過程で、TBSに抗議に訪れたオウム真理教の幹部に、あろうことかTBSのワイドショー『3時にあいましょう』の番組担当者が、放映前の坂本堤弁護士へのインタビューVTRテープをみせていたことがわかったという情報をスクープとして放送したのである。
多くのTBS報道局員にとっては、それは全く寝耳に水の驚愕の出来事だった。その日テレのニュースが流れた時の報道局の大部屋の静まり返ったような瞬間を僕は記憶している。当時の報道局員の大多数の気持ちは、もしそれが真実であれば致命的な不祥事であるという衝撃への当惑に支配されており、その一方で、まさかそんなことを本当にしでかしていたのか、というかすかな疑念も同時にあったのではないか、と思う。
■社内調査委の報告書「見せていない」
当日夕方の『ニュースの森』では、杉尾秀哉キャスター(当時)が「事実無根」と否定してみせたが、否定の根拠は確固たるものではなかった。否定を主導した当時のTBS幹部の名は敢えてここでは記さない。
その後、社内に社員をメンバーとした「調査委員会」が設置されて内部調査が実施されたのだが、身内による調査の限界がもろに露呈した結果となった。翌1996年3月11日に、社内調査委員会の調査結果報告書が公表された。結論は「VTRをみせたことにつながる記憶や事実関係はどうしても出てこなかった」というものだった。

社内調査の結果は、社外からの批判や疑問に耐え得るような内容を含んでおらず、残念ながら説得力を欠いたものだったと言わざるを得ない。だが、これとて今だからそう言えるのであって、僕自身も含めて、社内調査発表後の『23』では、会社の発表内容をそれなりに時間を割いて放送していたのである。
ただ、筑紫さんはこの調査結果にかなりの留保を示す姿勢だった。
この番組を私が引き受けましてから、局の見解と私の意見が異なるということは、これが初めてではありません。しかし、坂本事件とTBSとの関わり、(中略)その後に起きたことの重大性からみて、端的に言いまして、私は、メディアとしてのTBSの道義責任、あるいは結果責任というのは免れないだろうと個人的には思います。(中略)これで調査打ち切りなどと言わず、こういうものをどう克服するかを、これを機会に、局として考えるべきだと思います。

――1996年3月12日の「多事争論」

■筑紫哲也が望んだ「継続審議」は実現せず
筑紫さんの著書『ニュースキャスター』(集英社新書 2002年)によれば、この調査結果が出る前に、筑紫さんは藤原亙(わたる)報道局長(当時。2018年4月死去)に「3項目メモ」なるものを手渡していたという。
僕自身はそのメモの存在を知らなかった。「継続審議」「第三者調査委員会」「責任の明確化」の3本からなるメモだったというが、社内調査の結果発表翌日のTBSの記者会見では「調査はこれで打ち切る」との発言が出た。結果的に筑紫メモの趣旨は退けられることになった。
この間の経緯や自分なりの省察については、2001年5月に発刊された、ひとりのジャーナリスト=故・斎藤茂男氏への追悼論文集『斎藤茂男 ジャーナリズムの可能性』(共同通信社)所収「オウム・坂本弁護士ビデオ事件で僕らが失ったもの」という文章に記したことがあるのでそちらを参照されたい。
そこに記した覚悟は今に至るまで変わっていないことだけを確認しておく。本論に進む。
■オウム側の証拠で「見せていた」へ変更
TBSの社内調査で「見せていない」とされていた調査結果はその後の調査で覆った。1996年3月25日のことである。捜査当局に押収されていたオウム真理教幹部のいわゆる「早川メモ」を入手したことで、事態は急転し、TBSは「みせていない」から「みせていた」へと局の見解を変えたのである。
当日の『23』の進行表によれば、トップ項目で「坂本ビデオ問題 TBSが見解を変更、謝罪」とある。リード30秒。社長会見1分。TBS新見解1分。根拠となった早川メモのポイント1分。これまでの経緯1分。処分内容と今後の対応40秒。
坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所の反応と郵政省事情聴取1分20秒。視聴者へのおことわり30秒。このあとに普段よりもかなり長い「多事争論」で筑紫さんは次のように述べた。
■「TBSは今夜、今日、死んだに等しい」
報道機関というのは、形のあるものを作ったり売ったりする機関ではありません。そういう機関が存立できる最大のいわばベースとは何かと言えば信頼性です。特に視聴者との関係においての信頼感です。その意味で、TBSは今夜、今日、私は、死んだに等しいと思います。これまでも申し上げてきましたけれども、過ちを犯したこともさることながら、その過ちに対して、どこまで真正面から対応できるか、つまりその後の処理の仕方がほとんど死活に関わると申し上げてきましたが、その点でもTBSは過ちを犯したと思います。そして、今日の結果の発表も、まだ事は緒に就いたばかりで、これからやるべきことはいっぱい残っているだろうと思います。その中で自分たちがどういうことを考え、何をやっているのかをもう少し公開することもひとつの務めであろうと思います。実は、こういうことを申し上げるべきではないのかもしれませんが、今日の午後まで私はこの番組を今日限りで辞める決心でおりました。というのは視聴者との関係で言えば、私はTBSの社員でもありませんし、直接、今回の事件のことを知っているわけでもありませんけれども、信頼性と、視聴者との関係で言えば、いわばTBSのひとつの顔の役割を果たしてきただろうと思います。
その責任もあるのではないかと考えまして、そのあと番組が始まるまで、スタッフたち、局内の人たちとずいぶん長い議論を致しました。ある意味では、私はみっともないことだと思いますけれども、しかしこの局で仕事をしていて、ここまで落ちて、いったん死んだに等しい局ですけれども、これから信頼回復のために、あるいは蘇るために努力しようとしている人たちもいます。その人たちと一緒に、とにかくしばらくのあいだは、そのための努力をしたいと思います。これまでも局内で、あるいは番組でもいろんな自分の意見を申し述べてきましたが、これからも一層その努力をして、テレビのあり方も含めて、大いにこれを機会にしてきちんとすることが、せめてもの坂本ご一家に対する償いではないかと思っております。

――1996年3月25日の「多事争論」

■当時の局内は「人心荒廃の地獄」
これが後日、局内外で「TBSは死んだ」発言として論議を呼ぶことになった発言の全文だ。途中、筑紫さんは何回か言いよどんでいた。ここで明かされている通り、筑紫さんはこの日をもって『23』降板をいったん決意した。房子夫人が明かす。
「もうTBSの報道はやれなくなるんじゃないかという気持ちがあったので、パパも今日で辞めるしかないと思った」
この当時、局内はほとんど極限と言っていいほどの混乱状態にあった。筑紫さんも一言だけ前記の本に書いている。「修羅場に遭遇して起きる人心荒廃の地獄も見てしまった」。
当時つけていた自分の日記を見返すと、そのような地獄の実例がいくつか列記されていた。
僕がTBSの見解が覆ったと知ったのは、3月23日のことだった。当時は社内で、密告や中傷、職場内の衝突が頻発していて、筑紫さんは心因性の咽喉障害で一時声が出なくなってしまった。
■『NEWS23』の最も長い一日
3月25日の日記。僕は朝5時に起床して、午前6時半には局にいた。『23』の最も長い一日の始まりだった。筑紫さんと連絡をとると、午後に部会を招集してスタッフと話がしたいという。筑紫さんが局に着いたのは午後4時。日記の記載では〈僕が辞めた場合のプラスマイナスを判断して欲しいと(筑紫さんが)言う〉とあった。
〈部員は全員が慰留に動いたが、自分たちにどれだけ引き止める資格があるというのか。(中略)もう自分たちには失うものは何もない。ここから信頼回復の道を探らずにどうするというのか。ある意味で辞めたりするのは卑怯な道だ……〉(日記より)
会議は13階の筑紫さんの仕事部屋で行われた。僕自身は会議での発言を詳細にはもう覚えていないのだ。当時のプロデューサーやデスク、ディレクターら十数人が参加して意見を述べ合っていたはずだ。
冒頭、筑紫さんから今日で辞めたいとの発言があったことだけは何となく記憶しているのだが、それに対して「それでは逃げたことになる」「責任をとるとは本当は辞めることではない」などの発言があったのではないか。
■信頼回復にむけて何を発信するか
当日そこにいた米田浩一郎(当時の『23』ディレクター)の記憶では、「すでに筑紫さんとデスク、プロデューサーらとの話し合いで辞めないという方向は会議の前から決まっていたような気がするんですけどね。記憶違いかな。僕自身は筑紫さんが辞めなきゃいけないという道理がわからなかった。だって僕らはあの当時、ぎりぎりの現場まで足を運んでオウム事件を最も深く取材していましたしね」。
同じく会議の場にいた佐々木卓(当時『23』デスク)の記憶では、「辞めるのをやめると会議で筑紫さんが表明したあとは、これまで散々発言してきたこととの整合性をどうつけるかの話し合いに及んだ気がする。この失った信頼を回復するにはあと10年はかかるだろうという認識でしたよね。そのためには何を発信しなければならないかを考えようという議論の中で、僕は『TBSは今日、死んだに等しいわけですから、余計な言い訳をせずに信頼回復に努めていきましょう』と」。
筑紫さんは前記の本で、この佐々木発言から「TBSは死んだに等しい」を借用したのだと明かしていた。
僕自身は、前記の筑紫さんの「多事争論」で、TBSは首の皮一枚でつながったのだと思っている人間のひとりだが、後日随分と時間がたってから、局内外には全く異なった考えを持っている人々が数多く存在していたことをイヤというほど思い知ることになった。

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金平 茂紀(かねひら・しげのり)

ジャーナリスト

早稲田大学大学院客員教授。沖縄国際大学非常勤講師。1953年北海道旭川市生まれ。1977年TBS入社。以降同局でモスクワ支局長、ワシントン支局長「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長などを歴任。2010年より「報道特集」キャスター。2022年9月でレギュラー退任。以降、同番組の「特任キャスター」に。2004年度ボーン上田記念国際記者賞受賞。2022年度外国特派員協会「報道の自由賞」受賞。著書に『沖縄ワジワジー通信』『筑紫哲也「NEWS23」とその時代』など多数。翻訳書に『じじつは じじつ ほんとうのことだよ』など。

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(ジャーナリスト 金平 茂紀)
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