■風の軌跡をなぞる宇宙船のようなフォルム
ある土曜の午後、表参道の交差点に立っていた。
信号待ちの車列に、赤いフェラーリが2台、黄色いランボルギーニが1台。V8やV12の咆哮が、ケヤキ並木の間を重低音で揺らしている。歩道を歩く若いカップルが振り返り、スマートフォンを構える。東京の週末ではもはや見慣れた光景だ。
ところが、そのフェラーリの2台後ろに、空気を纏うように描かれたボディラインの車がいた。
周囲の喧騒を吸い込むかのように、地面に吸い付くように低く、ボディラインは空力そのものをデザインへ昇華した造形。色は深いアントラシートで、まったく自己主張していない。
横断歩道を渡りかけた男性が、足を止めた。フェラーリには見向きもしなかった彼が、その車の前で立ち止まり、しばらく動かなかった。
マクラーレンだった。
フェラーリでもランボルギーニでもなく、マクラーレンを選ぶ。この選択には、単なる「スーパーカー好き」という言葉では片付けられない、一部の車好きな富裕層だけが持つ特異な「消費哲学」が隠されている。
■カタログの数字比較には興味がない
スーパーカーの世界には、独特の「比較文化」がある。
自動車雑誌やYouTubeのレビュー動画を開けば、必ずと言っていいほど登場するのがスペック比較だ。
マクラーレン・アルトゥーラ(クーペ):
・ システム最高出力:700PS(※2025年マイナーチェンジ後のスペック。従来型は680PS)
・ 0-100km/h加速:3.0秒
・ 車両本体価格(税込):3440万円~
フェラーリ 296 GTB:
・ システム最高出力:830PS
・ 0-100km/h加速:2.9秒
・ 車両本体価格(税込):3939万円~
ランボルギーニ・テメラリオ:
・ システム最高出力:920PS
・ 0-100km/h加速:2.7秒
・ 車両本体価格(税込):約4207万円~
これら数字を並べて、「どちらが速いか」「どちらがコスパがいいか」を議論する。スーパーカーファンの定番の楽しみ方であり、私もかつてはそうした数字の虜になっていた時期がある。
スペックだけの比較だとマクラーレンが決して頭抜けているわけではない。
しかし、実際にマクラーレンのオーナーたちと接する機会が増えるにつれて、あることに気づいた。
彼らにスペックの話を振ると、決まって困ったように笑うのだ。
「馬力がいくつかって? すみません、正確に覚えてないんですよ」
これは謙遜ではない。本当に覚えていないのだ。
麻布や表参道でスーパーカーを見かけたとき、多くの人はまずメーカーのエンブレムを確認し、次に「誰が乗っているんだろう」と運転席を覗き込む。
フェラーリやランボルギーニの場合、そこに座っているのは「わかりやすい成功者」であることが多い。派手な時計、オーダーメイドのジャケットに身を包み、「見られること」を楽しんでいる。
しかし、マクラーレンのシートに座っているオーナーは、少し違う。
サングラスこそしているが、パタゴニアのフリースにジーンズ、スニーカー。拍子抜けするほどシンプルだ。
彼らは見られることに興味がない。正確に言えば、「見られること」と「理解されること」はまったく別の概念だと知っている。
では、彼らは何を基準に選んでいるのか。
■引き算の美学
McLaren Automotive Asiaのスタッフから、興味深い話を聞いた。
ブランドの圧倒的世界観、跳ね馬のエンブレムが持つ歴史、イタリアの情熱、美しいデザインを誇るフェラーリ。“感情の振幅”を求め、シザーズドアが開く瞬間の高揚、街で注目を集める快感に魅力を感じるランボルギーニ。
では、マクラーレンのお客さまは何を求めるか。
ひと言で申し上げるなら“精度”です。自分の身体の延長として、マシンが反応すること。ステアリングの1ミリ、アクセルの1ミリに、車がどう応えるか。そこに快感を見出すお客さまが多いんです。
象徴的なのは全ての車に「カーボンモノコック」が採用されている点だ。F1のレーシングカーで使われる超軽量素材で、服に例えると軽いジャケット(シャツジャケット=シャケット)を纏ってるような感覚だという。これは、「ひらひら」と自由自在に操作できるような感覚で、「スーパーカー(速い車)=乗り心地悪い」というイメージを一気に覆す。
また、視界良好でドライビングの蓄積疲労も少なく快適だ。
フェラーリやランボルギーニのように派手さも、ラグジュアリー感も、歴史もない。内装も一見飾りっ気がなくシンプルだ。
これは、「スーパーカーとしてのかっこよさ」ではなく、「ドライビングに集中するための最適解」を追及した結果だ。
まさにレスイズモア。引き算の美学である。
実際、多くのオーナーが口をそろえて語るのは、次のようなことだ。
「ドアを開けて、シートに身体を沈めた瞬間の“繭に包まれる感覚”」。「ステアリングを握ったとき、路面の凹凸が手のひらから脳に直結するような感覚」。「高速道路の合流で、右足にわずかに力を込めただけで、背中に伝わる暴力的な加速のGと、それを完全にコントロールしている自分への信頼感」。
判断基準は「自分の身体と、その車がどう対話するか」にある。
資産価値やリセールバリューを考えて持つのではなく、本当に車が好きな人が購入するので、「お宝としてガレージに保管する」「ハレの日だけ乗る」というよりは、日常使いでバンバン楽しむという人が多い傾向があるようだ。
■ポルシェ911からのステップアップ
もう一つ、前述のスタッフから聞いた、象徴的な話がある。
日本のマクラーレンオーナーの層の一グループ、40歳前後のIT起業家や金融プロフェッショナルで、ポルシェ911からのステップアップ組の存在だ。
ポルシェ911からマクラーレンへ。
911に乗る人間は、もともと「運転すること自体」に価値を見出す人間が多い。ブランドのステータスよりも、ドライビングの質を重視する。その延長線上でマクラーレンに辿り着くということは、「見せるための車」ではなく「乗るための車」を究極まで追求した結果だ。
スペックで語れる車は、スペックで代替できる車だ。マクラーレンを選ぶ人間は、そのことを直感的に理解しているのだ。
そして、彼らの消費哲学を知る上で欠かせない要素がもう一つある。「物語」だ。
■3億9000万円が発表前に“完売”した
マクラーレンというブランドの本質を理解するには、「3つの“1”」を知る必要がある。
最初の「1」は、1992年に登場したマクラーレンF1だ。
32歳の若さでこの世を去った、創業者ブルース・マクラーレンの遺志を継ぎ、F1の技術をすべて注ぎ込んで作られた初の市販車だ。
市販車として世界初のカーボンファイバー製モノコックを採用し、BMW製V12エンジンを搭載。
2つ目の「1」は、2013年のマクラーレンP1。
スーパーカーの世界にハイブリッドの概念を持ち込んだ先駆的なモデルで、3.8リッターV8ツインターボに電動モーターを組み合わせ、システム出力916PSを叩き出した。生産台数375台限定、販売価格は約9660万円。フェラーリ・ラフェラーリ、ポルシェ918スパイダーと並んで「ハイパーカー御三家」と呼ばれた1台だ。
そして3つ目の「1」が、2024年10月に発表されたマクラーレンW1である。
完全新設計の4リッターV8ツインターボ「MHP-8」にEモジュールを組み合わせたハイブリッドシステムは、エンジン単体で928PS、システム合計で1275PS、最大トルク1340N・mという途方もない数値を実現した。最高速度は350km/h。価格は英国で200万ポンド(税込)、日本円にして約3億9000万円。生産台数は399台だ。
驚くべきは、この約4億円のハイパーカーが、正式発表の時点ですでに全台売約済みだったということだ。
W1のオーナーたちは、実車に触れることなく、試乗することもなく、購入を決断したことになる。
なぜそんなことが可能なのか。
■“哲学”を知る人間だけの権利
その答えこそ、「物語の正統後継者になる」という文脈の力だ。
既存のオーナーの中でも、マクラーレンの哲学に深く共鳴してきた人間だけが、この「物語の続き」を受け取る権利を持つ。
さらに時事的な事実として、マクラーレンの現行の、純V8エンジン搭載モデル(750SとGTS)が、2026年6月末をもって日本市場向けの生産を終了する。
希少性が価値を高めるのは、世の常だ。しかし、彼らを突き動かすのは「レアだから欲しい」という投機的な欲望ではない。
「終わりがあるからこそ、物語は美しい」という、物語の完結に立ち会うことへの高揚だ。
フェラーリの限定モデルにおけるリセール市場の過熱ぶりは広く知られているし、近年はランボルギーニやポルシェの限定車でも「買った瞬間に利益が出る」といった投機的な語られ方がされることがある。
しかし、マクラーレンのオーナーに限って言えば、「いくらで売れるか」を購入動機として口にする人間が極端に少ない。彼らが語るのは、あくまで走りの質であり、車との対話であり、その先にある物語だ。
マクラーレンのシートに収まるとき、そこにはブルース・マクラーレンが32年の短い生涯をかけてゼロからレースの世界に挑んだ物語がある。アイルトン・セナが1988年に圧倒的な記録を刻み、ランド・ノリスが、2024年のアブダビで涙を流した歓喜がある。
わかりやすい見栄でもなく、スペックの優劣でもない。しかし確実に存在する「文脈の厚み」に自分の人生を接続すること。それこそが、本物の車好きがたどり着くブランド、マクラーレンの、静かな矜持なのだ。
■物語を求めるのは富裕層だけではない
2024年、マクラーレンの日本市場での販売台数は過去2番目を記録し、初めて英本国を上回った。2025年も安定的な販売台数を誇り、米国に次いで世界第2位のポジションをキープしている。2012年にスタートし、2013年に日本デビューを果たしてから、10年あまり。年間約350台を販売するまでに急成長を遂げた。
日本の富裕層の中で、マクラーレン的な「静かなる知性」を好む消費者が増えていることの証左だろう。
もっとも、この「見栄やスペックより、物語や体験を選ぶ」という変化は、数千万円のスーパーカーの世界だけの話ではない。
たとえば、トヨタ「GRヤリス」がそうだ。WRC(世界ラリー選手権)を勝つために生まれたこの車に、オーナーは“ラリーカーの匂い”と物語を見出している。GRヤリスのステアリングを握って血統を感じることと、マクラーレンに惹かれる感覚は、本質的に同じだ。
この「背景にある物語に接続したい」という欲求は、いまの40~50代以上のクルマ好きにとって、決して目新しいものではない。むしろ「走り屋文化」(1980~90年代)が勃興した日本では、長く存在していた価値観だ。
あの頃、深夜のF1中継に熱狂した若者たちは、自分たちに買えるスポーツカーを手に入れ、そこに夢を託した。
マツダ・サバンナRX-7のロータリーエンジン、日産R32 GT-Rの圧倒的なパワー、ハチロクの名で親しまれるトヨタAE86カローラ レビン/スプリンター トレノの軽さと素直さ。彼らはそれらのクルマに車高調を入れ、マフラーを替え、峠や湾岸へと向かった。
そこで求めていたのは「他人からどう見えるか(見栄)」ではない。「そのクルマが背負う文脈に、自分の人生をどう重ね合わせるか」という、“意味”への渇望だった。
■表参道の残像
彼らにとって車とは、速く走るための道具でも、富の象徴でもない。
自分の人生に、もうひとつの物語を重ねるための装置だ。
そしてその物語の「純度」において、マクラーレンに匹敵するブランドは、世界中を見渡しても極めて少ない。
ここに、一般的なスペック比較では絶対に見えてこない、「ホンモノを知る富裕層」の消費の本質がある。
彼らは「何を買うか」で自分を語らない。「なぜそれを選んだか」で自分を定義する。そしてその「なぜ」の答えが最も深い場所にある車が、マクラーレンなのだ。
表参道の交差点で、あのマクラーレンが信号と同時に滑るように走り去ったとき、運転席の男性はこちらに一瞥もくれなかった。爆音も、空ぶかしも、窓を開けて見せびらかす仕草もない。ただ静かに、異様に低い車体が東京の街に溶けていった。
あの「静けさ」こそが、本質を選ぶ人間の正体を、何よりも雄弁に物語っている。
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西田 理一郎(にしだ・りいちろう)
価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役
富裕層向けブランド体験の「物語」を紡ぐナラティブ・マーケティングをプロデュース。また、情報伝達を超えた行動を仕組化し、個の全盛時代において、ラグジュアリー市場での持続的成長を実現する知の「価値共創」戦略を構築する。プレミアムブランドの世界観を体現する戦略的プラットフォームの商品化を手がけ、ミシュラン・ガストロノミーから超高級ライフスタイルまで、文化的価値を経済価値に転換するマーケティング、ブランディングを専門とする。「to create a Real LIFE 敏腕マーケターが示唆するこれからの真の生き方とは」「Life is a Journey」「食と文化の交差点 ガストロノミーへの飽くなき情熱」などのメディア掲載・連載を通じて真のラグジュアリーとは「所有」ではなく「体験」であり、その体験に宿る物語こそがブランド価値の源泉である――という信念のもと、富裕層マーケティングの新境地を開拓し続けている。主要著書に『予測感性マーケティング』(幻冬舎)、『アフターコロナ時代のトラベルトランスフォーメーション』(ゴマブックス)、『GRAND MICHELIN ミシュラン調査員のことば[特別編集版]』(アンドエト)がある。個人サイト
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(価値共創プロデューサー、ディープルート 代表取締役 西田 理一郎)

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