沢田蒼梧さんは、21歳のとき、若手ピアニストの登竜門として知られるショパン国際ピアノコンクールへ出場し、二次予選へと進出した。音楽家としての将来を嘱望された彼の現在の肩書はプロピアニスト、そして現役の小児科医だ。
なぜ二刀流の道を選んだのか。ノンフィクション作家の稲泉連さんが聞いた――。
■「二刀流」の原点にあった空港のピアノ
愛知県知多半島の総合病院に勤務する小児科医である沢田蒼梧さんは、医学部在籍中の2021年、ショパン国際ピアノコンクールに出場したピアニストとして知られる。
当時、医学生とピアニストの「二刀流」と注目を集めた彼には、自身とピアノの関係のあり方を決定的に変えた忘れられない出来事がある。それは高校1年生だった2014年、ドイツのエトリンゲンで開かれた国際ピアノコンクールからの帰途につく際、フランクフルト国際空港の出発ロビーに置かれていた1台のグランドピアノをめぐる思い出だ。
コンクール審査員からの評価は厳しいもので、「曲の選び方が間違っている」「君のような子供が弾く曲ではない」といった言葉が耳の奥には残っていた。
「それが直接的な理由ではなかったかもしれないのですが……」と、沢田さんは控えめな口調で振り返る。日本へのフライトを待つ間、「PLAY FREE」と貼紙のされているグランドピアノを、ふと弾いてみようという衝動に駆られたのだという。
「コンクールで弾いた曲の一つ、ドビュッシーの花火を弾いたんです」
「花火」は必ずしも耳馴染みのある曲ではなかったが、ロビーの雑踏の中でしばらく弾いていると、いつの間にか多くの人が立ち止まって自分の演奏を聴いていた。曲が終わると歓声と拍手が起き、「Bravo! Play more!」という声が聞こえた。
「私が人前でピアノを弾くことの楽しさを初めて心から感じたのは、そのときだったと今では思います。聴いている人たちとのコミュニケーション。
いま自分が感じている本番でピアノを弾く楽しさの原体験ですね」
■人前に出られなかった少年
沢田さんは1998年、愛知県半田市に生まれた。現在のリサイタルでは「トークを楽しみに来るお客さんがいる」と言われるほど舞台上での話しぶりに人気のある彼だが、幼い頃の性格は全く違っていたという。
沢田さんが音楽と触れ合うきっかけは2歳のとき。母親の勧めで地元のヤマハ音楽教室に通い始めたものの、親子で歌ったり踊ったりは楽しめても、先生から「前に出て披露して」と言われると、母親の陰に隠れて前に出ていけない子供だったそうだ。
「当時の記憶はありませんが、ピアノはずっと『習い事の一つ』に過ぎませんでしたね。別にそれ以上でも以下でもないし、熱中したという記憶もないんです。水泳や英語を練習するのと同じ感覚で、『習っているから弾いている』というだけでした」
ただ、ピアノが『他の習い事』と少し違ったのは、少しずつ難易度の上がる練習が全く苦にならなかったことだ。小学生になってピアノ個人レッスンのコースが始まると、新しい曲の譜面を読み解くことが、パズルを解くように楽しく感じられ、次から次へと瞬く間に新曲を弾けるようになった。
「新しいメロディや弾いたことのない音楽が弾けるようになると、やっぱり楽しい。知らない言語が喋れるようになる感じに近いかもしれないです」
■屋内で過ごす時間が育てた才能
そんな少年時代の沢田さんをさらにピアノに向かわせたのは、小学2年生の夏休み、家族で富士山に登ったときの出来事だった。
登山道に堆積した火山灰を大量に吸い込んだのがきっかけで、アレルギー性気管支喘息を発症してしまったのである。
それまで「メジャーリーガーになりたい」と夢を語っていた彼は、以後、体育の授業以外、屋外での運動を控えるようになり、砂埃の中で活動する少年野球チームへの入会も諦めざるを得なかった(一方、そのとき主治医となった小児科医に憧れを抱いたことが、後の彼を医師の道に進ませることにもなった)。

喘息のため屋内で過ごす時間が増えたその秋、たまたまグランドピアノを購入したのもきっかけとなり、自宅でピアノを弾く時間が格段に増えた。それまで自宅にあったアップライトピアノでは出せなかった音色の豊富さに魅了されたからだ。小学4年生になると、当時、レッスンを受けていた講師から勧められるがまま3つのコンクールに出場した。彼はその全てで全国大会に進出する結果を見せて周囲を驚かせた。
「他の習い事に比べると、ピアノだけは苦労せず、気づくとコンクールでも上位にいるんですね。弾けなくて困った、なかなか上達しない、弾けなくて立ち止まった、という記憶はありません。自然と弾けるようになっていくという感じで……」
そう語るときの彼に謙遜の様子はなく、「たまたま向いていたんだと思います」と飄々と続けるのだった。
■6年間首席だった少年の「普通」
沢田さんはこの頃からピアノだけでなく、学業においても「やればできてしまう」という傾向が同様にあった。沢田さんの通った地元・愛知の東海中学校・高等学校は、東海地方の進学校として知られる難関校だったが、彼はその6年間を通じて首席の成績を保ち続けた。
宿題は学校にいる時間のうちに全て終わらせてしまい、小テストも満点でないことの方が珍しかった。彼はこともなげに当時を振り返るが、その上で休日には10時間以上をピアノの練習に費やした。そのように学業とピアノの両立を当然のこととして続けた少年は、後に「二刀流の天才」として注目されることになった。

ただ、当時を振り返るときに沢田さんが繰り返したのは、ピアノに対するその「才能」に対して、特別な感情を抱いたことはなかったということだ。
「コンクールで合格すれば嬉しい気持ちにはなりましたが、特別な気持ちを感じたわけではなかった」と彼は淡々と話す。母親からも「ピアノは趣味だからね」と言われており、小学生の彼にとってピアノとは、未だ「弾けるから弾く」というものに過ぎなかった。
■天才少年が初めてぶつかった壁
とはいえ、そんな「天才」ともいえる沢田さんにも、コンクールでぶつかった「壁」はあった。例えば、初めて全国大会に駒を進めた小学4年生の夏、東京の舞台に上がった彼は、経験したことのない緊張に飲み込まれた、と今でも振り返る。
「頭が真っ白になって、弾いている間のことは何にも覚えていないんです。気づいたら終わっていた感じでした」
舞台袖で待機する彼の口元は青紫色に変わり、過呼吸に近い状態に陥っていたそうだ。それはこれまで「緊張する」ことすら知らなかった沢田さんが、初めて自分にも限界があることに突き当たった瞬間だったと言える。
だから、と言っていいのだろう。中学生になり、多感な思春期がやってくると、日々の時間の多くをそのようなピアノの練習に充てることに、彼は納得のいかない気持ちを次第に抱くようになったと言う。
■辞めるつもりで出場したコンクール
「学校の友達と週末も全く遊べないですし、母からは『ピアノは趣味だからね』と言われていました。なので、趣味のはずなのにどうしてこんなに時間がとられるんだろう、と」
なぜ、自分はピアノをやっているのだろう――という疑問が頭をもたげてきた。
そして、中学2年生のとき、彼は「ピティナ・ピアノコンペティションJr.G級」への出場を最後に、ピアノを辞めると母に告げることになった。
ところが――。
「ピティナ・ピアノコンペティションJr.G級」は、高校1年生以下を対象とする日本最高峰のソロ部門。将来のピアニストを目指す若者たちの登竜門として知られるコンクールである。
出場者には憧れる同年代のピアニストも多く、そして、このコンクールの期間中に交わした彼ら、彼女たちとの交流が、沢田さんをピアノの世界に踏みとどまらせることとなったのである。
「コンクール全国大会2カ月前に1泊2日のマスターレッスン講習会があり、期間中に一緒にご飯を食べたり、話したりした時間が本当に楽しかったんです。全国大会の楽屋でもおしゃべりしたり。初めてピアノ仲間という存在を得られて、『こういうのを続けたいな。こういうのが楽しいな』と感じて、また皆と一緒のステージに立ちたいと思ったので、ピアノを続けることにしたんです」
そして、それから2年後、高校1年生となった彼は、前述のとおりフランクフルト国際空港でピアノを「誰かに聴いてもらう」という喜びに触れる。
ピアノを弾くことが「競争」ではなく、緊張感の先に「人との出会い」を生み出す表現であること――。沢田さんが「ピアニスト」となった経緯から浮かび上がる、彼にとってのピアノを弾く意味の一端ではないだろうか。
■ゼロから積み直したピアノ
では、ピアニストとしての沢田さんにとって、ピアノを弾くという「表現」とはどのような世界としてあるのだろうか。

彼の演奏者としての価値観の土台となっているのが、15歳のときから師事している関本昌平氏の教えだ。関本氏は2005年のショパン国際ピアノコンクールで4位に入賞したピアニストである。
「師匠のレッスンを受け始めたことで、全てが変わりました」と沢田さんは振り返る。
「弾き方、体の使い方、楽譜に対する意識、その全部をゼロから積み直しました。最も大きかったのは、体のいろんなところに入っていた余分な力が取れたことですね。演奏中に自分の体へ意識を張り巡らせるようになってから、あらゆることが変わっていきました」
具体的には、自らの動きを意識し、適度にリラックスして弾けるようになると、響かせられる音が大きくなったという。そして、「大きな音」が出せるようになったことで、その音に対する「小さな音」も綺麗に響くようになった。
「自分の手に持っているパレットの色が増えた、みたいな感覚でした」
そうして音の幅が広がれば広がるほど、ピアノを弾いている時間が「テクニックを磨くこと」から音楽そのものとの対話へと変化していった、と沢田さんは続ける。
■「正解」ではなく「感情」を動かす
「『コンサートに聴きに来た人が、論説文を読んでいる感情を抱いてはいけない』と師匠には言われてきました」
ピアノの技術や構成の巧みさではなく、聴く者の感情を動かす演奏をすること。「師匠」のその言葉は沢田さんの中で、ピアノを弾く上での大きな基準となった。
「『上手い』と言われて終わる演奏ではなく、正の感情であれ負の感情であれ、感情的な何かを動かすような、そういう演奏ができたらいいなと常に思っています」
また、そのために必要なのは、「お客さん自身にそれが自分事だと思わせるような力」だと沢田さんは考えている。
「もし演奏が作曲家の感情をなぞるだけの説明的なものなら、CDを聴けば済む話になってしまいます。
そういう演奏はしたくありません。前後の曲の流れや、その日の気分、あるいは数カ月ぶりに弾くことで得られる新たな発見。同じ曲でも、同じ演奏はありません。その瞬間のひらめきや、会場の響き、お客様が求めるものを想像しながら、そのとき、その場所でしか生まれない一回限りの演奏をしたいんですね」
正解を提示しようとするのではなく、聴き手とともに未知の感情を探り当てていく。その先に「聴く者の心を震わせる音楽」が立ち現れるという彼の音楽の理想だ。
■弾きたくない日は弾かない
現在の沢田さんは前述のとおり、愛知県知多半島の総合病院に勤める小児科医である。2年間の初期研修を終え、小児科医として2年目の忙しい日々を過ごしている。
勤務時間は基本的に8時から17時だが、時間通りに帰れることは滅多にない。朝7時から勤務することもあれば、夜22時過ぎまで帰宅できないこともある。当直が週に1~2度あり、さらに救急外来のある総合病院のため時間外の呼び出しも少なくない。インタビューを行った日も都内で新しい宣材写真の撮影があり、前夜に車を運転して東京に来た。しかし自宅を出ようとした矢先、病院からの呼び出しで再び処置をしに戻ったため、真夜中の東京入りとなったそうだ。
「明日も日曜ですが、朝から月曜昼過ぎまで病院の仕事がありますから、今日のうちに戻らないと」と言って沢田さんは控えめな笑顔を見せた。
医師として本格的に働くようになってから、ピアノへ向かう気持ちにも変化があった。「弾きたくない日は弾かない」と彼はあっさりと言う。
「本業は医師なので、医師としての勉強を怠ることはできません。逆にピアノは、純粋に好きだからこそ向き合えるものだと今は思っています。どうしても弾きたくないときや、疲れ果てて嫌になってしまうときは、そのまま食事も摂らずに寝てしまいますね。でも、そんな日があってもいい」
将来について訊ねると、「具体的にこうなりたい、とか、何がやりたいみたいなことはなくて――」と彼は続けた。
「医師としては、患者さんたちとの関係をしっかりと作れるようになりたいです。ピアニストとしては、演奏を求めてくれる人がいるうちは続けたい、と思っています。
ありがたいことにコンサート出演オファーはたくさんいただきますが、練習に割ける時間に限りがあるので、お引き受けする本番の数を絞っています。この後は地元である愛知東京・大阪でソロリサイタル公演予定です。
医師としてもピアニストとしても、今まで通り、与えられた目の前のこと一つひとつに誠実に向き合っていくだけです」
■異なる軸を持つ自由
その上で沢田さんが話したのは、2018年にジュネーブ国際音楽コンクールへ出場した際、審査員だった東京藝術大学の教授から、コンクール落選後にカフェに誘われ、次のような言葉をかけられたというエピソードだった。
「あなたのような人が出てきたということは、日本の文化が成熟した証です。あなたは『評価されたい』という次元とは別のところにいるから、あなたの音楽には自由がある。素晴らしいと思いました。今後もずっと、医学も音楽もどちらもやりなさい」
そのとき、「これでいいんだ」という思いを抱いたと沢田さんは言う。
「音楽を専門にやっているわけではないからこそ、縛られていないという自由がある。コンクールで評価されるかどうかではなく、別の軸を持ちながら音楽に真摯に向き合ってきたし、これからもそうでありたい」
「医師とピアニストという二つの仕事が、互いに影響し合っていることはあるか」と聞くと、沢田さんは「私にとって二つは全く別の世界のもので、特別なつながりは感じていません」と言った。
ただ、それでも意図せず二つの仕事に接点が生まれることはある。例えば、担当した患者とその家族がピアニストとしての沢田さんを知っており、コンサートに来てくれたこともあった。
「ピアノを弾いているからこそ、単純な医師と患者関係ではないところで関係性を築けている方もいる。それは自分にとって、やっぱり嬉しいことですね」
沢田さんはそう言うと、少し照れくさそうな笑顔を見せた。
(撮影協力:スタインウェイ&サンズ東京

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稲泉 連(いないずみ・れん)

ノンフィクション作家

1979年東京生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など。近刊に『サーカスの子』(講談社)がある。

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(ノンフィクション作家 稲泉 連)
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