■イーロン・マスクに敗北した「中国の宇宙開発」
6月12日(米国時間11日)、米国の宇宙企業であるスペースX(SpaceX)がナスダック(Nasdaq)に上場した。ロイターの記事によれば、同社は過去最大の新規株式公開(IPO)で750億ドルを調達し、公開価格ベースの企業価値は1兆7700億ドル、上場初日の取引中には2兆2500億ドル超に達した。1ドル160円台なら約360兆円級である。
一方で、中国は国家の総力を宇宙へ注ぎ、月・火星探査を積み上げてきた。2019年には「嫦娥4号」を世界で初めて月の裏側に着陸させ、2022年には中国独自の宇宙ステーション「天宮」を本格運用させている。
国旗を掲げ、世界に到達点を示す力では、間違いなく大国だった。ところが2025年、スペースXはファルコン9(Falcon 9)だけで165回の軌道打ち上げを行い、中国全体の年間打ち上げ回数を大きく上回った。再使用ロケットでは中国の本格試験が回収に失敗し、スターリンク(Starlink)は米証券取引委員会(SEC)資料で中国とロシアを市場推計から外している。
国家を挙げた宇宙開発が、なぜ一民間企業に経済安全保障の要衝を先取りされたのか。中国は国旗の届く先を間違いなく広げている。だが、スペースXは、船舶も航空機も軍も企業も災害現場も依存する通信・輸送の網を広げた。
■投資家が買ったのは「火星の夢」ではない
スペースXの上場と聞くと、つい株式市場の熱狂に目を奪われる。だが本当に注視すべきは、この上場が宇宙の勢力図をどう塗り替えるかだ。
台湾海峡、南シナ海、ウクライナ型の戦場、巨大災害が起きた瞬間、衛星通信は便利なサービスから戦略物資へ変わる。経済安全保障の焦点は、有事に誰の衛星、誰の通信、誰の打ち上げ能力に頼るかにある。
6月12日に配信されたロイターの記事は、スペースXの市場価値が上場初日に2兆ドルを超えたと伝えた。投資家が買った対象は、火星移住の物語を超えている。低軌道通信、再使用ロケット、軍事データ輸送、衛星製造を束ねる企業が、米国と同盟国の産業基盤に入り込むという期待である。
宇宙は、遠い空の研究所から地上を動かし続ける基盤へ変わった。海運、航空、資源開発、災害時の行政通信、軍事センサーのデータ伝送、遠隔地の企業活動を支える網になった。今回の上場は、株価のニュースというより、危機の際の依存先をめぐる安全保障上の出来事だった。
■月の裏側に着陸しても「勝者」にはなれない
中国の宇宙開発は、ここ数年まで世界トップレベルだったことは間違いない。
宇宙ステーションでも中国は独自の足場を築いた。2023年2月10日に配信されたAP通信の記事によれば、中国は2022年11月に3モジュール構成の天宮を完成させた。2022年6月29日に配信されたロイターの記事も、天問1号が2021年に火星へ到達し、探査車を地表に展開したと報じている。
中国は宇宙で確かな先行実績を持ち、一部では世界初を実現した。ただ、そうした到達点の意味は、国民統合、技術大国の演出、外交上の威信に効くものだ。経済安全保障の勝負は、国旗がどこに届いたかより、危機のときに誰の網が地上を支え続けるかで決まる。
■民間1社で「中国全体の1.8倍」も打ち上げた
2025年12月31日に公開された、宇宙関連情報サイトSpace.comの記事によれば、スペースXは2025年に165回のファルコン9軌道打ち上げを行い、そのうち123回がスターリンク関連だった。
一方、中国国家航天局の公式発表では、中国の2025年の打ち上げは過去最高の92回。スペースXは1社で中国全体の約1.8倍を打ち上げた計算になる。
この差は、大きな意味を持つ。
■「回収500回」と「失敗1回」の絶望的な差
スペースXと中国のもっとも大きな違いは、ロケットの再使用回数にある。2025年9月5日に公開されたSpace.comの記事によれば、同社は2025年中に、軌道級ロケットの回収と再使用をそれぞれ500回の節目に乗せた。
再使用の本質は、コスト削減を超えた運用革命にある。ロケットを一回限りの花火から、繰り返し使う輸送機械へ変える技術である。機体を回収すればデータが残る。データが残れば設計を変えられる。
中国も追い上げている。2025年12月3日に配信されたロイターの記事によれば、中国の民間企業ランドスペース(LandSpace)の朱雀3号は、再使用ロケットの初回試験で制御着陸に失敗し、回収成功は2026年半ばを目指す段階にある。中国は挑戦段階、スペースXは運用段階にいる。この差は非常に大きい。
■中国は最初から「客」に入っていない
経済安全保障で決定的なのは、スペースXがロケット会社の枠を越えた点だ。
ロケットで自社衛星を打ち上げ、衛星で通信サービスを売り、通信需要がさらに打ち上げを増やす。垂直統合が、宇宙を製造業からインフラ産業に変えた。中国がわかりやすい宇宙開発の偉業を達成してはいたが、スターリンクの強さは端末を置いた現場で体感される。
2026年6月3日に提出された米証券取引委員会(SEC)のに提出されたスペースXの資料によれば、同社は獲得可能な最大市場規模(TAM)の算定で、中国とロシアをグローバル推計から除外している。これは販売地域の細かな注記を超える。
スターリンクはすでに生活インフラ化している。2026年5月20日に提出された米証券取引委員会(SEC)のスペースXの資料によれば、2026年3月末時点で低軌道(LEO)に9600基超のスターリンク衛星を運用していた。2026年6月11日に公開されたSpace.comの記事も、スターリンク衛星の総数が1万600基を超えたと伝えている。
中国を外した市場で、西側の低軌道通信が拡大する。この変化は米企業の海外展開を超えた意味を持つ。海底ケーブルが切られ、地上基地局が停電し、国境を越えた通信が遮断される局面で、どの陣営の衛星網に依存するかという問題である。通信の冗長性は、サプライチェーンの冗長性と同じく、企業にも国家にも不可欠な経済安全保障の基本になった。
同盟国が同じ衛星通信を使えば、端末、暗号、運用手順、補給の規格もそろう。標準を握った側が、事実上のルールを握る。
■「国主導」と「民間主導」の決定的な違い
宇宙インフラの支配とは、相手を感心させる力より、相手の業務を自分の網の上で動かす力である。スターリンクは、その段階へ進んだ。
2026年6月12日に配信されたロイターの記事は、中国の宇宙企業が上場準備を進める一方、再使用ロケットと収益面ではスペースXとの格差が残ると報じた。同記事は、スペースXにはスターリンクが自社打ち上げ需要を生む垂直モデルがあるが、中国の民間宇宙企業は国家系コンステレーションの発注に依存しがちだと指摘している。
制度差はここに表れる。国家主導モデルは、月の裏側着陸や宇宙ステーションのような巨大目標に強い。資金、人材、政治的優先順位を集中できるからだ。ところが、毎週のように飛ばし、失敗を公開し、部品を変え、顧客の反応を見てサービスを改良する領域では、官製調達と政治的成果管理が速度を鈍らせる。
中国の弱点は、技術者の能力より制度の重心にある。宇宙を国家威信の展示場として動かす制度が、宇宙を日常の通信・補給・データ輸送として動かす制度に後れを取った。経済安全保障の勝負では、巨大な記念碑より、動き続ける補給線のほうが強い。制度設計そのものが、宇宙競争の勝敗を左右する。
■イーロン・マスクにインフラを預けるリスク
ただ、スペースXにも問題はある。2026年5月6日に配信されたロイターの記事によれば、同社の二重種類株式は、イーロン・マスク氏と一部インサイダーに強い議決権を集中させ、一般株主の権利を制限することになる。
宇宙通信という公共性の高いインフラを、一企業と一人の創業者に過度に依存するのは非常にリスクが高い。
スターリンクの権限集中にも懸念がある。2025年7月25日に配信されたロイター調査報道は、ウクライナ軍の反攻時にスターリンクの通信停止が前線に影響したと報じた。スペースX側は報道内容に問題があるという立場を示したが、具体的な反論内容は公表資料上、限定的だ。一企業の判断が戦場や国家の危機対応に影響し得るという論点は残る。
それでも、中国共産党の国家統制モデルが同じインフラを握る場合とは、統制の質が違う。スペースXは市場、裁判所、議会、契約相手、同盟国、報道にさらされる。圧力は不完全で、マスク氏個人の影響力も大きい。だが、権力の所在を確認し、契約を見直し、規制をかける経路が残っている。国家統制モデルでは、通信インフラと国家意思の距離が近すぎる。
■日本は「誰の衛星網」を信頼するのか
米国の安全保障需要も、宇宙インフラ化を加速させている。2026年5月27日に配信されたロイターの記事によれば、米宇宙軍(U.S. Space Force)はスペースXに22億9000万ドルの契約を与え、軍事センサーと兵器プラットフォームを結ぶ高速衛星通信網を構築させる。
2026年5月30日に配信されたロイターの記事も、航空脅威を追跡する衛星計画で41億6000万ドルの契約を同社に与えたと報じた。
宇宙覇権の意味は、月に旗を立てる力から、地上の通信、物流、軍事、情報流通を継続的に支える力へ移った。中国の宇宙開発は大きな成功だった。ただ、宇宙が国家の夢から経済安全保障の基盤へ姿を変えた瞬間、スペースXの民間インフラモデルが圧倒的に有利になった。
日本にとっても、この差は離島、海運、航空、資源調達、半導体工場、金融決済、災害時通信を支える現実的な問題である。通信が切れた瞬間、工場も船も金融も止まりうる。企業活動の継続性にも直結する。どの制度圏の通信網に、自国の産業と危機対応を預けるのか。監視可能性のある西側通信圏が標準化で先行した意味は大きい。
中国は表面的な偉業を作り、スペースXは実質的な基盤を作った。経済安全保障の勝敗は、その差で決まった。
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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)
戦略コンサルタント
DiploSight / NovaPillar Advisory LLC, Strategic Consultant.博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan–Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。
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(戦略コンサルタント 伊藤 隆太)

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