NHK「豊臣兄弟!」では、ついに本能寺の変が描かれる。明智光秀はなぜ、主君・織田信長を討ったのか。
これまで「日本史最大の謎」とされ、秀吉、家康、朝廷、足利義昭などをめぐる“黒幕探し”が繰り返されてきた。しかし近年、一次史料の発見と研究の進展によって、信長の四国政策が光秀を追い詰めたとする「四国説」が有力視されている。ルポライターの昼間たかしさんが、最新研究から“本能寺”の核心に迫る――。
■「豊臣兄弟!」が描く四国説
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。いよいよ、大河ドラマの名物・本能寺の変に向かってドラマは盛り上がっている。今回は、明智光秀がどうして本能寺を燃やすのか? そして、どう燃えるのか? 「豊臣兄弟!」が名作となるのか、凡作となるのかも、燃え方次第である。
そんな第26回「信長を笑わせろ!」(7月5日放送)は、かなり衝撃的な内容だ。
冒頭、信長は三好勢の訴えを受け入れて長宗我部元親の四国切り取りを認める約束を反故に。さらに、信澄は元親と内通していたことが露見する。激怒した信長を諫めようとした光秀は蹴り飛ばされて面目を失うことに……。
わかるだろうか、今回の「豊臣兄弟!」は、本能寺の変の原因を、元親討伐を推進する信長に対して、取次だった光秀が追い詰められ反旗を翻したという、いわゆる四国説を中心に描こうとしている。
これまで無数の原因が語られ、いまも次々と生み出されている本能寺の変。
しかし、2026年の現在、四国説はもっとも有力な説と考えられるようになっているのだ。
いったい、四国説のなにがそんなに強力なのか?
■“本能寺の黒幕探し”とは、ひと味違う
実はこれまでの「本能寺の変・黒幕は誰だ」論争と、四国説はまったく毛色が違う。朝廷説、家康説、秀吉説、イエズス会説、足利義昭説……令和になっても新説が量産され続け、テレビの特番は毎年のように「日本史最大の謎」を看板に掲げる。だが、これらはすべて「誰が光秀を操ったのか」という黒幕探しの側面は強かった。
それに対して、四国説は光秀が主犯ともいえる説だ。
そのため、突飛な説の一つと思われていたことは否めない。この説は歴史研究者の藤田達生や桐野作人などによって唱えられてきた説である。例えば、この説を支持する土佐史研究家の朝倉慶景は「長宗我部氏の四国侵攻と本能寺の変」で、信長と元親の対立過程を検証。元親が戦争回避を検討しているのに対して「信長は、四国について全く無関与にもかかわらず、相手がとうてい承諾しえない条件を一方的に提示して、拒んでくるのをあたかも期待し、戦争を待っているかの態度である」としている。
ただ、この説は多くの支持を集めるものではなかった。というのも、対立を原因とすることを明確に論証する史料に欠けていたためだ。中脇聖「長宗我部氏から見た本能寺の変」(『歴史読本』2014年6月号)では、一次史料を検討した上で、つぎのように述べている。

これまでの諸研究で強調されてきた光秀の立場の後退は、四国政策の転換によってもたらされたというより、織田権力の長宗我部氏への処遇に不信感を抱いた元親による毛利氏接近によって引き起こされたこと。「本能寺の変」の原因が長宗我部氏の討伐を回避せんとする光秀・利三主従によるものとする具体的な史料的根拠が存在しないからなのである。

■史料なき四国説を変えた「石谷家文書」
ここで、中脇は四国問題を信長の対長宗我部政策だけでなく、毛利、三好、河野、西園寺、大友など周辺勢力の動向を加味して見直すことを提唱している。
その状況を一変させたのが、まさにこの中脇論文と同じ2014年に世に出た、ある文書群だった。それが石谷(いしがい)家文書である。
これがとんでもない代物だった。室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰の親子二代に関連する文書群、正直この名前を聞いてピンとくる人は歴史マニアでもそう多くない。だが中身を知れば「なんでこんな一級品が10年前まで眠っていたんだ」と誰もが思うはずだ。
この文書の存在が知られたのは、わずか10年ほど前のことである。林原美術館の浅利尚民が文書の存在を確認、岡山県立博物館の内池英樹らと共に調査を実施、以降林原美術館と岡山県立博物館の共同調査が進み、その成果は『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(吉川弘文館、2015年)としてまとめられた。
つまり、本能寺の変から実に430年以上を経て、ようやくこの一級史料に光が当たったことになる。長きにわたり、収蔵庫で眠り続けていたのだ。

■“当事者”の手紙がまるごと保存されていた
なぜこの家の文書が特別なのか。石谷家は美濃国方県郡石谷を本領とする武士で、室町幕府の奉公衆だったが、後に浪人。光政は空然と名を変え、娘が嫁いでいた長宗我部元親のもとへ身を寄せる。そして養嗣子の頼辰は、実の弟である光秀の重臣・斎藤利三と行動を共にしていた(内池英樹「林原美術館所蔵石谷家文書の調査・研究について――石谷親子宛近衛前久書状の若干の考察を添えて――」『織豊期研究』第24号)。
つまりこの一族、片や長宗我部側の内部、片や光秀陣営の中枢という、事件の両サイドにピンポイントで足がかかっている。現代で言えば、対立する二つの企業の役員室に、それぞれ自分の親族が座っているようなものだ。
しかもその家に残っていたのが、単なる私信の束ではない。文書全体は47通の書状類が3巻にまとめられたもので、中でも近衛前久の書状は、安土城での信長と前久をめぐる周辺事情を生々しく記しており、両者がかなり近しい関係にあったことを窺わせる。
黒幕探しに使い古された「状況証拠」ではない。事件の当事者一族の手元に、当事者自身が書いた手紙が、まるごと保存されていたのである。
■「妥協を模索する元親」と「殴り続ける信長」
こうした文書の登場も踏まえて、桐野作人は「光秀への期待だった⁉ 最新研究に見る「四国問題」」(『歴史街道』2021年2月号)で改めて四国問題を整理している。
これによれば、切り取り次第の約束を反故にした信長の戦略は、処遇が懸案事項だった一門衆・信孝を三好康長の養子とし、讃岐と阿波を与えるというものだった。
これを実現するには、四国への出兵は必然だった。なにしろ阿波では三好勢と元親の勢力が拮抗しており、容易に決着がつきそうもなかったからである。
では元親は徹底抗戦を決意していたのか。桐野はこれを否定する。元親の阿波平定はそもそも進展していなかった。しかも三好勢の側には、本願寺の降伏に納得できない雑賀衆や牢人たちまで流れ込み、状況は混迷を極めていた。追い詰められていたのはむしろ元親の方であり、彼は国境沿いの海部城・大西城の確保で手を打つ、という妥協案へと軟化していたのである。
つまり、これは「野心に燃える四国の梟雄が信長に噛みついた」という話ではない。むしろ逆だ。妥協点を探して降りようとしていた元親と、それを蹴ってでも四国出兵を止めない信長……交渉は、決裂させたい側の意志によって決裂させられていたことになる。
この「妥協を模索する元親」と「それでも殴りにいく信長」というギャップこそが、取次だった光秀・利三主従を追い詰めていった構図だ。交渉の窓口として動いていた人間からすれば、これほど梯子を外されるやり方はない。

■伊予で後退…追い込まれていた元親
また、元親が妥協に転じないといけない理由は、ほかにもあった。
東近伸「本能寺ノ変直前の四国の軍事情勢と岡本合戦の意義――土佐側から見た『清良記』・岡本合戦天正九年説の再検討――」(『西南四国文化論争』第20号)は、伊予国宇和郡の岡本城(愛媛県宇和島市)をめぐる岡本合戦について、従来唱えられてきた1579年ではなく1581年の出来事だったと再検討している。この戦いで、一度は城を奪った元親は、西園寺・土居氏の逆襲を受けてあっさり負けている。
つまり本能寺の変のわずか前年、元親は伊予方面で足踏みどころか、後退していた。四国統一の総仕上げなんて夢のまた夢である。「切り取り次第の約束を反故にされて激怒!」なんて熱い展開をやってる余裕は、元親のどこにもなかった。
むしろ現場は真逆だ。統一なんか一旦棚上げしてでも、なんとか信長の機嫌を直して本領だけは安堵してもらう……そんな「もう攻めないんで許してください」モードに、元親は追い込まれていたのである。
野心ギラギラの四国の梟雄が、天下人に噛みついた。そんな威勢のいい話ではまったくない。実態は、頭を下げようとしている元親と、それでも殴る手を止めない信長のあいだで、板挟みになって潰れた交渉担当者の話である。
■空白だった「悪様に信長へ申し成す者」
2020年、熊田千尋「本能寺の変の再検証」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号)は、この構図に最後のピースをはめ込んだ。

これまでの研究は、いわば「誰かが元親を悪く言って、信長がそれを信じた」というところまでは掴んでいた。だが、その「誰か」の名前だけは、ずっと空白のままだった。史料には「或る人」「佞人」としか出てこない。犯人はわかっているのに名前だけ伏せられている、推理小説でいえば犯人当ての一歩手前で毎回ページが破れているようなものである。
熊田はこの空白を、近衛前久が本能寺の変の翌年、元親のもとにいた石谷父子に宛てて出した書状――から埋めていく。前久はこの手紙の中で、1581年の冬、安土で元親の処遇をめぐって「悪様に信長へ申し成す者」がいたこと、自分がそれに反論して元親を庇ったこと、その結果として自分自身が後々光秀との共謀を疑われる羽目になったことを、恨み節混じりに書き綴っている。
読み解けば、この「悪様に申す者」こそが、四国政策を土佐一国切り取りにまで追い込んだ張本人ということになる。
■光秀の天敵は、信長の堺代官・松井友閑
では、誰なのか。
ここで熊田が持ち出すのが、前久自身が別に残していた回想録である。そこには、こう書かれている。
のふなか(信長)のこ(子)三七(織田信孝)へ、ゆうかん(友閑)さゝへ申し、われわれにめいわく(迷惑)させ候ハんとて、せはめられ候(近衛前久回想録)

信長の子・信孝に讒言し、自分たちを追い詰めたのは友閑だったのだ。友閑とは、信長の堺代官・松井友閑のこと。信長の茶会段取りを仕切り、正月には光秀と並んで安土城「御幸之間」を最優先で拝観するほどの側近中の側近だ。
つまり、光秀の外交上の天敵は、朝廷でも謀反人予備軍でもなく同格ライバルだったわけだ。
熊田は、この論証を、最後にこうまとめている。
その結果、信長の四国政策の変更過程で元親の取次ぎ役である明智光秀が、外交面で松井友閑に敗北し、さらに最後の説得交渉も信長から無視され、立場を否定されるといった織田政権内での格下げに繋がる状況に追い込まれて、謀叛実行に向かっていく流れがより明確になったのではないかと思う。

■本能寺は“ミステリー”から“歴史研究の対象”へ
ただし、ここで一つ釘を刺しておきたい。「二度梯子を外された」ところまでは、石谷家文書という一次史料が裏付けている、動かない事実だ。
だが「それで光秀が織田家中で詰んでいた」かどうかは、実は熊田論文自身も「一次史料の裏付けはない」と正直に認めている部分である。
実のところ、四国説の弱さはこれである。そもそも、光秀を差し置いて対四国の政策を変更するということがあるだろうか。なにより光秀であれば、既に元親の四国統一は現実味がなく妥協するであろうことは見通していそうだ。
つまり、格下げ確実→暴発のようなことは想像し難い。確かに歴史上は、叱責されて左遷を予感した側近に暗殺された韓国大統領朴正熙のような事例もあるが……。
今回のドラマで四国説に義昭の暗躍を合体させたのは、四国説にはまだまだ弱点があることを示すものかも知れない。
ただ、四国説は新史料の発見で、どこまでが史料で確定していて、どこからが推測なのかを一つ一つ切り分けられるところまで進歩している点で、評価に値する。
長らく本能寺の変は、バラエティ番組の煽り文句と、小説家・脚本家の妄想力だけが跋扈する無法地帯だった。誰でも「黒幕は○○だ」と言えば、それなりに一本の物語ができてしまう。だが2014年の石谷家文書公表以降、この事件は「誰でも自由に犯人を指名できるミステリー」から、「一次史料を積み上げて検証しなければならない歴史研究の対象」へと、静かに書き換えられている。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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