■秀吉の周りにいた「3人の秀勝」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。いよいよ本能寺の変に向かう第26回「信長を笑わせろ!」(7月5日放送)では、秀吉と小一郎が、秀吉の養子にしていた秀勝の初陣にあたり激励を賜りたいと、信長を長浜城に招くシーンが描かれる。
秀勝は、今回が初登場。視聴者の多くは「秀勝って誰?」と思うのではないだろうか。
そもそも、この秀勝という人物はややこしい。というのも秀吉の周りには「秀勝」が3人いる。ひとりが実子の秀勝、つづいて信長の四男(於次丸、五男説も有力)、甥(小吉、後に豊臣秀勝、文禄の役にて陣中で死去)。
同じ名前を3回使い回す男など、戦国大名の中でも秀吉くらいのものだ。
そのため、秀勝の事蹟はところどころでややこしい。例えば、長浜八幡宮の例大祭・長浜祭で行われる曳山の起源は、次のように伝えられている。
天正年間、秀吉が羽柴筑前守と名乗り、長浜城主であった時、秀吉は、側室丸之丸(京極高次の妹)との間に男子を得た、この喜びを城下の町民と共にしようと、ふるもうた若干の砂金を基金として、町民は八幡宮の祭礼に12輌の曳山を造り、城下町を曳廻ったのが、長浜曳山祭の始まりであるといわれている(長浜曳山祭文化財保護委員会『長浜曳山祭調査報告 第1(青海山)』長浜曳山祭文化財保護委員会、1959年)。
■大河に登場するのは信長の子「次秀勝」
これについて、森岡栄一「羽柴於次秀勝について」(『市立長浜城歴史博物館年報』第1号、1987年)では、次のように記している。
これらの「秀勝伝承」によって、長浜における於次秀勝の事蹟は、まったく等閑視されてしまったといっても過言ではない。本稿では、湖北に関係する於次秀勝文書を中心に、新出史料を交えて紹介し、於次秀勝と湖北・長浜の関係を再考する。
ここからは、今回登場する二人目の秀勝が何者であるか研究が進んだのは、ここ40年ばかりのことに過ぎないことがわかる。
その呼称についても、於次丸秀勝または於次秀勝と呼ばれて来たが、近年、黒田基樹は長浜八幡宮の奉加帳に「次秀勝」と署名していることに着目。呼称も次秀勝が適切なのではないかとしている。これは、『シリーズ・織豊大名の研究 13 羽柴秀吉一門』(2024年、戎光祥出版)に所収された黒田の「総論 羽柴秀吉一門の研究」で触れられている、まだ新しい説だ。そのため、今後は「次秀勝」の呼称が次第に定着していくのではないかと思われる。
■信長から養子を得る=一族の将来を盤石にする
さて、ここで気になるのは、なぜ秀吉が信長の子供を養子としてもらい受けたかという点だろう。これについては、史料からは推測の域をでない。宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号)では、おねが、実子のなかった家中の安泰を図るために信長に懇願した結果であるとしている。
確かに、一足飛びに出世した秀吉にとって、血族の少なさは不安でしかない。側室が産んだ石松丸が生まれた時には、上記のように砂金を振る舞うほどの喜びようだったにもかかわらず夭折してしまっている。長浜城主になったのは30代後半であり後継者の養成は急務だったといえる。
さらに、信長から養子を得ることは一族の将来を盤石にするものでもあった。日本史史料研究会の編んだ『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(洋泉社、2014年)に収録された、小川雄「信長は、秀吉をどのように重用したのか」は、次のように記している。
秀吉の権勢は、その才覚に加え、養子に迎えた秀勝の存在も作用していると考えられる。秀勝は信長の五男であり、羽柴氏は次代以降織田一門として遇される立場も確保されたのである。
■進んでいた秀勝への権力移譲
秀勝を養子としてもらい受けたのは1576年頃とされる。翌年の手取川の戦いでの無断撤退というピンチに遭遇した秀吉だが、それを乗り越えて西国攻略で権勢を拡大している頃である。そして、秀吉が播磨を攻略している間、1581年以降には、長浜領で秀勝単独の署名がある書状も発行されるようになっている。
これは、権力移譲が進められていたことを明らかにするものだろう。つまり、秀吉は信長の息子を後継者とすることで、織田一門の一角という地位を確立させようと図ったのだ。
さて、今回ドラマで描かれる秀勝の初陣は1582年の備前国児島への出兵であった。
三月十七日、御次公、御具足初めにて、羽柴筑前守秀吉御伴仕り、備前児島に御敵城一所相残り候、此の表へ相働き、手遣ひの由、注進これあり。
筆者訳:
三月十七日、御次公が、初めて鎧兜を着用する儀式として、羽柴筑前守秀吉がお供をして出陣された。備前国の児島に、敵の城が一つ残っており、この方面へ出撃して(秀勝公自ら)敵と交戦された(手遣い:自ら武器をとって戦う、または采配を振るうこと)との報告が届いた。(「信長公記」『戦国史料叢書 第2』人物往来社、1965年)
この「単独署名」や「初陣」は、次秀勝自身がどこまで実権を持っていたことを意味するのだろうか。
尾上成敏の研究によれば、秀勝は1581年以降に長浜領の統治代行者としての地位を確立、翌年の初陣以降は軍事指揮権を急速に拡大させていたことがわかる(尾上成敏「信長在世期の御次秀勝をめぐって」『シリーズ・織豊大名の研究 13 羽柴秀吉一門』戎光祥出版、2024年)。これによれば、秀勝が、織田宗家と羽柴家の一体化を実質的に進めるためにいかに重要であったかが、わかる。
■お飾りではない…兵を動かし、行政も回していた
ここで尾上は、1580年時点での秀勝の文書初見は秀吉との連署であったが、1581年2月以降になると秀勝が単独で高札等を発給するようになるとする。
一方で、それまで長浜領統治に関わっていた秀吉の文書は1581年4月以降、播磨からの発給はなくなる。これらの事実から尾上は、1581年2月から8月にかけて、秀勝が秀吉の代行者として長浜領を実質的に統治する体制が確立されたと位置づけている。
さらに軍事面においても、秀勝が直属の軍事力として伊藤介・合田兵介らからなる「なかはま衆」1500人を率いていたことを指摘。
秀勝が元服以降、羽柴の名字や国政を担う立場に就いていた――秀吉の後継者としての地位が確定していたことに加えて、秀吉の領国が長浜と播磨の二つに分かれたことで、長浜の統治を秀勝に委ねる必要性が生じたという実務的な要因もあった。いずれにしても、秀吉の権勢拡大が、秀勝を通じた織田家との一体化を促進していたというわけだろう。
つまり、単なる名目上の「お飾り養子」ではなかった。1500人の兵を実際に動かし、長浜領の行政も回していた。ここまでは、次秀勝はちゃんと実体のある地位を築いていたのである。
■「秀吉=信長の同胞」に仕立て上げた
そして、この「実体」を、秀吉自身が思いっきり政治利用している。秀吉の側近であった大村由己『惟任退治記』は、秀吉が光秀を打ち倒したことを正当化するための軍記物だが、そこには、こんな一文がある。
剰相公第五男御次丸為猶子被下所也、然者秀吉同胞合体之侍也
(塙保己一編『続群書類従 第20輯ノ下 合戦部』続群書類従完成会、1923年)
筆者訳:
あまつさえ、相公(織田信長公)の第五男である御次丸を猶子として下されたのである。そうであるならば、秀吉は(信長公と)同胞(きょうだい・一族)であり、一体となった存在である。
これこそが秀吉の真骨頂だ。秀勝という「信長の血」という実体を秀吉は最大限に膨らませ、「自分は信長の極めて近しい一族だ」という物語にまで仕立て上げてしまっているのだ。
この秀勝の利用が、本当に最高潮に達するのは、本能寺の変後である。信長死後の後継者を決める清須会議は、信忠の遺児である三法師(織田秀信)が家督を継ぎ、信孝が後見、安土城を再建した上で迎えるということで一旦の決着をみた。しかし、信孝は柴田勝家らと結んで秀吉と対立。対する秀吉は、丹羽長秀や池田恒興らと共に織田信雄を家督に擁立し、1583年の賤ヶ岳の戦いへと繋がっていくことになる。
■“織田家の簒奪者”ではなく“正統な後継者”に
この間、1582年10月には、京都で信長の葬儀が行われている。この葬儀は盛大ながらも、三法師や信孝、信雄は参列しないというものであった。それでも葬列は3000人あまりに及んでいた。これは、秀勝の存在により、秀吉が単なる簒奪者ではない、一定の正統性を保つことができていたことを示すものだ。
以降、秀吉は、秀勝を通じて信長の祭祀を執行することによって、簒奪者ではなく正統な後継者という立場を確立しようとしていた。
しかし、その秀勝の身に異変が生じる。1583年2月、丹波亀山城内で病に伏せるようになったのだ。もっとも3月には書状の発給が続いており、この時点ではまだ地位を保持していたことは確認できる(前出、森岡栄一「羽柴於次秀勝について」『市立長浜城歴史博物館年報』第1号)。
1585年7月には従三位左近衛少将に任ぜられ、まもなく正三位、さらに権中納言へと昇叙が続いている(渡辺世祐『豊太閤の私的生活』創元社、1939年)。地位は上がり続けたが、病状は快方に向かわなかった。そして同年12月、秀勝は丹波亀山城内で息を引き取った。18歳だった。
■秀勝がいたから“天下人になれた”
秀勝が世を去った頃、秀吉はすでに賤ヶ岳・小牧長久手という二つの大きな戦を終え、1585年7月には関白にまで就任していた。関白という位は、織田本家の誰ひとりとして手の届かなかった高みである。
1582年の葬儀の時点では、秀吉はまだ自前の権威を持っていなかった。だからこそ秀勝を喪主に立て、信長の血を借りて「自分は簒奪者ではない、織田家の庇護者だ」と演出する必要があった。
しかし秀勝が実際に死んだ時、秀吉はもうその演出を必要としていなかった。官位はとうに織田本家を追い越し、天下人としての地位は誰の目にも明らかになっていた。秀勝という駒は、盤上で一番役に立つ時期に使い切られ、もう用がなくなった頃にひっそりと退場したのである。
秀吉は織田家を乗っ取った。だが、それは一足飛びの簒奪劇ではなかった。信長の実子を養子に迎え、その血と地位を庇護者の証として使い倒す。
おそらく当初は、それによって織田一門の一角としての地位を盤石にすることを考えていたのだろう。だが本能寺の変が起きたことで、それは秀吉が「一門」では終わらない原動力へと転じた。官位で織田本家を追い越し、最後には天皇の臣下としての格そのもので織田家を超えていく……秀勝を通じた周到な権威の創出こそが、百姓の子・秀吉を天下人に押し上げたのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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