年をとっても記憶力を保つにはどうすればいいか。明治大学教授の堀田秀吾さんは「アメリカのピッツバーグ大の高齢者研究では、『ゆるい運動習慣』によって記憶に関わる前方海馬の体積が1年で平均2%増加することがわかった」という――。

※本稿は堀田秀吾『疲れ切った人のための勉強法』(東洋経済新報社)の一部を再編集したものです。
■神経細胞の「肥料」を増やす
一日に頭をフル回転させたあと、少し歩いただけで気分が軽くなる気がしますが、実は、その「スッキリ感」は気分だけではありません。学習という面では、脳の中身にもかなりいい変化が起きています。
その中心にいるのが、記憶に深く関わる「海馬」と、神経細胞の成長を支えるタンパク質「BDNF(脳由来神経栄養因子)」です。
海馬は、脳の内側の奥にある小さな領域で、新しい出来事を覚えたり、道順をたどったりするときに活躍します。この海馬を元気に保つうえで重要だとされているのがBDNFです。BDNFは、神経細胞の「肥料」のような存在で、細胞の生存や成長、つながりの強化を助けます。運動によってBDNFが増えると、神経細胞同士の結び付きが育ちやすくなり、記憶や学習の土台が整っていきます。
運動とBDNFの関係を詳しく調べた研究もあります。コペンハーゲン大学のラスムッセンらは、健康な成人にローイングマシンで4時間の有酸素運動をしてもらい、その間に腕の動脈と首の静脈から同時に採血しました。
その結果、安静時と比べて、運動中は脳からのBDNFの放出が2~3倍に増えており、血液中のBDNFのうち70~80%は脳から来ているものであることが示されました。
さらにマウスにトレッドミル(走るための機械)走をさせると、海馬や大脳皮質でBDNFの遺伝子発現が3~5倍に増え、運動終了から2時間後にピークに達していたと報告されています。
つまり、筋肉を動かすことが、そのまま海馬や大脳皮質に「もっと育て」という合図を送っているわけです。
■前方海馬の体積が1年で2%増加
人間の脳の構造レベルでも、運動のメリットは確認されています。ピッツバーグ大学のエリクソンらは、55~80歳の高齢者120名を対象に、1年間の介入研究を行いました。
参加者を、週3回・1回約40分のウォーキングを行う有酸素運動グループと、同じ回数・時間でストレッチや筋力体操を行う対照グループに分け、前後で脳をMRI撮影し、記憶テストも実施しました。
その結果、有酸素運動グループでは、記憶に関わる前方海馬の体積が平均2%増加したのに対し、対照グループでは約1.4%減少していました。
高齢になると海馬は毎年少しずつ萎縮しがちなので、この減るはずの体積がむしろ増えたという変化はかなり大きな意味を持ちます。
同じ研究では、ウォーキングをしていた人ほど記憶テストの成績も向上しており、海馬の体積と記憶力の改善の間に関連があることも示されています。
さらにこの研究では、血液中のBDNFの変化と海馬の変化の間にも関係が見られました。BDNFがよく増えた人ほど海馬の体積の増え方も大きく、記憶の成績の改善もはっきりしていたのです。動物実験で見られていた「運動→BDNF増加→海馬の神経の成長」という流れが、人間でも少なくとも部分的には当てはまりそうだと考えられます。
■無理のない運動を長く続けるべし
エリクソンらのプログラムは、いわゆる激しい運動ではありません。多くの参加者にとって「少し息が弾むくらいの早歩き」を週に3回続ける程度の有酸素運動でした。

それでも1年かけて海馬の体積を数パーセント押し戻し、記憶力まで改善していたことを考えると、「きつい運動を短期間だけ頑張る」より「無理のない運動を長く続ける」ほうが、脳にとっても現実的な戦略だと分かります。
仕事終わりに近所を20~30分歩く、オンライン会議のすきま時間に部屋の中をぐるぐる歩く、休日にひと駅分だけ歩いてみる。
こうした小さな動きが積み重なると、海馬にはBDNFという栄養が少しずつ送り込まれ、記憶と学習の土台がじわじわと強くなっていきます。心身ともにヘトヘトの日は、がっつり勉強するより、軽く歩いて脳にご褒美をあげるつもりで動いてみる。
そんな「ゆるい運動習慣」が、実はかなり本格的な「脳トレ」になってくれるのです。
■運動してから勉強すると記憶が残る
運動や散歩が好きな方。朗報です。記憶の研究では、ちょっとした運動がその日の学習をあと押ししてくれる可能性が示されています。
アメリカのミシシッピ大学のロプリンジらは、若い成人を対象に、運動と記憶の関係を細かく調べました。ある実験では、参加者は15個の名詞リストを覚える課題に取り組みました。一つの条件では、記憶課題の前に、トレッドミルで20分のややきつめのランニングと5分のクールダウンを行いました。別の条件では、そのあいだ静かに座って過ごし、そのまま単語学習に入りました。

そのあとすぐと、24時間後に、どれだけ単語を思い出せるかをテストしました。その結果、運動をしてから勉強した場合には、座っていただけの場合よりも多く思い出すことができました。ロプリンジらは、運動前後の心拍や気分も測定し、運動によって覚醒度や注意が高まり、その状態でインプットした情報が長く残りやすくなっていると考えています。
■統計的に確認されたプラス効果
もちろん、実験で使われたのはランニングマシンでの運動で、日常生活のゆっくりした散歩とは少し違います。それでも、急性運動と呼ばれる「1回きりの有酸素運動」が、その後の長期記憶を押し上げるという結果は、別の研究でも一貫して見られています。
ノースカロライナ大学グリーンズボロ校のラバンとエトニアは、記憶課題の前あるいは後に30分間(そのうち20分間は中強度)の運動を行ったグループと、座っていたグループを比べました。数十分たってから行う再生テストでは、運動を事前に行ったグループのほうが有意に多くの内容を思い出せました。
さらに、こうした個々の実験をまとめたメタ分析も行われています。先述のロプリンジらが行った系統的レビューでは、有酸素運動と記憶を扱った複数の研究を統合し、運動後の長期記憶成績が、座っていた条件に比べて向上していることが示されました。「劇的な差」ではないものの、統計的にははっきりしたプラス効果があり、特に言葉やエピソードの記憶と相性がいいという結論です。
■学習の前に10分だけ早歩き
こうした研究は、必ずしも「散歩そのもの」を検証しているわけではありませんが、共通しているのは、勉強の前に短時間、心拍数が少し上がる有酸素運動をすると、その直後に学んだ内容の定着がよくなるという点です。
現実の生活に落とし込むなら、通勤電車に乗る前にひと駅分だけ歩く、図書館に入る前にキャンパスをぐるっと回る、自宅学習の前に家の周りを早歩きでひと回りする、といった形が近いでしょう。

息が切れるほど走る必要はありませんが、ほんの少し汗ばむ程度に体を動かすことで、脳に「これから仕事だ」というスイッチが入ります。
疲れている日に、いきなり問題集を開いて撃沈するくらいなら、「まずは10分だけ歩いてから始める」と決めてしまったほうが、気分もリフレッシュされ、ハードルが下がることもあります。
机に向かう前の短い散歩は、時間を削る行為ではなく、そのあとの勉強時間の質を底上げする投資だと考えてみてください。

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堀田 秀吾(ほった・しゅうご)

明治大学教授

シカゴ大学大学院言語学部博士課程修了、オズグッドホール・ロースクール修士課程修了・博士課程単位取得退学。心理言語学、法言語学、コミュニケーション論を専門とし、学術的な知見を「今日から使える知恵」に翻訳することをライフワークとし、著書は70冊を超える。56万部を突破した『科学的に証明された「すごい習慣」大百科』(SBクリエイティブ)のほか、『科学的に元気になる方法集めました』『最先端研究で導きだされた「考えすぎない」人の考え方』など、科学の力で日常を変えるシリーズは累計137万部を突破。NHKラジオ「ラジオ深夜便」レギュラー・パーソナリティをはじめ、ラジオ・テレビ・新聞・雑誌・WEBなど多彩なメディアで、専門家としての視点を発信中。

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(明治大学教授 堀田 秀吾)
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