「豊臣兄弟!」(NHK)ではついに本能寺の変が起こり、黒田官兵衛(倉悠貴)らを連れ、中国地方に遠征中の秀吉(池松壮亮)もその知らせを受ける。軍師の歴史について研究する呉座勇一さんは「小説やドラマではそのとき官兵衛が秀吉に天下を狙えとアドバイスしたように描かれるが、実際にそう言ったという同時代史料はない」という――。

※本稿は、呉座勇一『軍師の日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■官兵衛は信長の死を好機と捉えたか
備中高松城を攻囲中の羽柴秀吉のもとに、本能寺の変の報が届いた。傍らにいた黒田官兵衛が「天下を取る好機」と進言する。まさに「軍師官兵衛」を象徴する名場面である。
この逸話の原点は何か。比較的早い史料としては、元和7年(1621)から9年にかけて、秀吉に仕えた田中吉政の家臣川角三郎右衛門が著わしたとされる『川角太閤記』が挙げられる。同書によれば、官兵衛は「殿はお嘆きになっているようにお見受けいたしますが、御本心は違いましょう。めでたいことが起きましたから、博奕(ばくち)を打ちましょう。光秀と天下分け目の戦いをいたしましょう」と進言し、秀吉は「我が心と一つ」と笑ったという。
『黒田家譜』の記述はもう少し詳細である。おそらく『川角太閤記』など先行作品を参照しつつ肉付けしたのであろう。同書によれば、悲嘆にくれる秀吉に対して、官兵衛は「信長公のことは言葉もございません。
お悲しみはごもっともです。しかし今は殿が天下を取る好機と存じます。明智光秀は主君を殺した謀叛(むほん)人ですから、天罰を逃れることはできません。明智を討つことはたやすいでしょう。明智を滅ぼして後、信長公の二人のご子息を盛り立てていくことになるでしょう。しかしお二人には天下を治める器量はございませんから、再び天下は乱れましょう。この乱を鎮めれば、殿が天下を取ることができましょう」と献策し、秀吉も同意したという。
■「ご運がひらけましたぞ」の出典
さて、本能寺の変の知らせが届いた時、官兵衛が「ご運がひらけましたぞ」と発言したというくだりも、小説やドラマではしばしば見られる。この発言の出典は何だろうか。
歴史研究家の渡邊大門氏は、著書『黒田官兵衛』(講談社現代新書、2013年)にて「「信長死す」の一報が秀吉のもとに伝わると、官兵衛は「これで殿(秀吉)のご運が開けましたな」と耳元でささやいたという。この言葉に込めた、官兵衛の真意のほどはわからない。官兵衛の言葉を聞いた秀吉は、官兵衛の大胆不敵さにかえって遠ざけるようになったといわれている。
このエピソードは、近世初期に成立した江村専斎の『老人雑話』に載せる話である」と論じている。
ところが、私が確認した限り、『老人雑話』に該当のエピソードは見当たらない。
■江戸中期、幕末の本の描き方
江戸中期の逸話集『明良洪範』続篇巻5では、本能寺の変の報に接した官兵衛が秀吉の膝元に近づいて膝を叩き笑い、「天のご加護を得られましたな。もはやお心のままになりますぞ」と述べたという。
「ご運がひらけましたぞ」というセリフに最も近い表現が見える文献は、幕末維新期に岡谷繁実が編纂した『名将言行録』である。同書によれば、官兵衛が秀吉を「君の御運開かせ給ふべき始めぞ、能(よ)くせさせ給へ」と鼓舞したという。以後、秀吉が官兵衛に心を許さなかったとも記されている。『明良洪範』には秀吉が官兵衛を警戒したという一文はないが、『明良洪範』の記述を、岡谷が自分なりにアレンジした可能性が考えられる。
なお福本日南『黒田如水』(1911年)や金子堅太郎『黒田如水伝』(1916年)などの伝記類には、この逸話に関する記載はない。後世の創作と疑われたのだろう。
菊池寛の小説『日本武将譚』(1936年)所収の「黒田如水」では「家来がカミソリの様に切れるのはよいが、家来からあまり自分の図星を指されるのは、よい気持のものでない。本能寺兇変の飛報を手にして(君の御運開かせられる時ぞ。
よくせさせ給へ!)と膝を叩かれたんでは、如何(いか)なる秀吉でも(あんまり本当のことを言ふなよ)である」と叙述されている。菊池の典拠は『名将言行録』と見て間違いない。
■秀吉はかえって官兵衛を恐れた?
おそらくこの逸話が有名になったのは、海音寺潮五郎の小説「黒田如水」が発端だろう。海音寺が昭和34年1月から35年12月にかけて『オール讀物』誌上で連載した「武将列伝」の中の一編である。以下に該当箇所を引用しよう。
「老人雑話」ではこう説く。
官兵衛はするするといざりよって、秀吉の膝をほとほとたたき、にこりと笑って言った。

「ご運のひらけさせ給うべき時が来たのでござる。よくせさせ給え」

(中略)

秀吉はうなずいたが、こちらの心中の機微を苦もなく見ぬいた官兵衛の鋭さと、こんな時に早くも感傷をふり捨てて開運の好機到来と見る根性のたくましさにおどろき、油断のならぬ人物と見るようになったと伝える。

海音寺の叙述もまた、『名将言行録』の表現を踏まえていると思われるが、典拠は『老人雑話』としている。これが勘違いであることは前述の通りだ。
『川角太閤記』や『黒田家譜』では、黒田官兵衛は緊急時に主君に対して適切な助言を行う名補佐役として描かれている。
しかし『名将言行録』では、主君が恐れるほどの底知れぬ智謀を持った油断ならない奸雄(かんゆう)として造形されており、脚色が一層進んだ印象を受ける。このイメージを広く流布したのが、海音寺の小説と位置付けられる。野心に満ちた食えない策士という現代の官兵衛イメージの源流はここに求められよう。
■「中国大返し」での官兵衛の諫言
周知のように羽柴秀吉は毛利氏とただちに和議を結び、いわゆる「中国大返し」を敢行する。その折、秀吉や家臣たちは居城の姫路城で一泊しようとしたが、官兵衛は諫(いさ)めた。「姫路へ立ち寄れば、兵卒たちは自宅に帰り、妻子のことが気にかかり、勇気を奮い立たせることができません。その上、ちょっとした旅でも、家を出発するのは遅くなるものです。まして長い在陣をようやく終えた今、一度家に戻った後で敵陣に向かっていけるでしょうか。明智に味方する者が増える前に、一刻も早く京に戻り、明智と戦うべきです」というのだ。
秀吉は官兵衛の諫言(かんげん)を容(い)れて、姫路の城下を通過した。官兵衛は使者を姫路に先行させ、粥(かゆ)を用意させておき、秀吉軍が城下を通過する際に食事ができるようにした(「黒田家譜』巻2)。なお、姫路通過の逸話は『常山紀談』など以後の逸話集にも継承され、人口に膾炙(かいしゃ)した。
しかし一次史料によれば、秀吉は中国大返しの際、姫路城に滞在しており、姫路通過の逸話は創作である。
■「秀吉が激賞した偽装工作」
中国大返しにおける官兵衛の策は、右に留まらない。小早川隆景から旗20本、宇喜多秀家から旗10本を借りて、毛利・宇喜多勢が秀吉軍に加わっているように偽装した。『黒田家譜』によれば、「弓矢は謀(はかりごと)にて勝ものなり…(中略)…官兵衛の今の謀は、凡人の及ぶ所にあらず」と秀吉は激賞したという。
そして明智光秀との決戦である山崎(やまざき)の戦いにおいて、官兵衛は秀吉の側に控えていたという。すなわち、『川角太閤記』巻1には「御旗本は御小性(著者註:姓)衆・御馬廻り・蜂須賀彦右衛門・黒田官兵衛、さて其外の衆中なり」とある。同書に見える官兵衛は、まさしく帷幄(いあく)(編集部註:作戦本部)に侍る「軍師」の姿であろう。しかし一次史料によれば、黒田官兵衛は羽柴秀長の部隊に属しており、秀吉の傍らにいた形跡は確認できない。
■子孫が軍師イメージを強調した
山崎の戦いに勝利した秀吉軍は、明智方の勝竜寺(しょうりゅうじ)城を包囲した。だが、命を捨てる覚悟の明智勢を相手に力攻めをすれば、味方の犠牲は避けられない。そこで官兵衛は「今夜一方の攻口をあけ候はば、士卒大半落失申すべし」と献策した。完全包囲すると敵が死に物狂いで抗戦するので、あえて逃げ道を作っておけというのである。
策は当たり、明智方の城兵は逃亡した(『黒田家譜』)。わざと包囲網の一角に穴を開けておくという戦術は、中国の兵法書に見られる典型的なそれであり、作り話と見るべきであろう。
そもそも、上の逸話は使い回しである。5年前の天正5年10月、秀吉が上月(こうづき)城の赤松政範を討つべく姫路城に入った。11月、官兵衛は上月城の出城の一つ、佐用(さよ)城(福原城)を攻めた。『黒田家譜』は「孝高の謀にて夜中に三方を囲み、後一方をあけて攻給ふ。是孫子が所謂「囲師必闕(いしひっけつ)」と云ふ軍法なり」と記す。官兵衛が孫子の兵法を活用して、わざと城兵の逃げ道を作ったというパターンが繰り返されている。官兵衛の「軍師」イメージを強調するための『黒田家譜』の作為と言わざるを得ない。

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呉座 勇一(ござ・ゆういち)

国際日本文化研究センター研究部准教授

1980年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)(東京大学)。著書『応仁の乱戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーとなる。『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』で角川財団学芸賞を受賞。主な著書に『一揆の原理日本中世の一揆から現代のSNSまで』『頼朝と義時武家政権の誕生』『動乱の日本戦国史桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』『日本史敗者の条件』などがある。

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(国際日本文化研究センター研究部准教授 呉座 勇一)
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