お父さん世代の「休日の服装」をめぐり、SNSの投稿が賛否を集めている。神戸学院大学の鈴木洋仁准教授は「ボディーバッグを揶揄する意見が散見されるが、気にせず堂々としていればいい。
『中年男性』が安全に攻撃できる対象として消費される社会は、健全とは言えない」という――。
■なぜ「休日イオンモールおじさん」が嫌われるのか
誰も、休日のイオンモールでの男性の服装になど興味を持っていないのではないか。というより、そんなテーマについて、誰も考えたことすらなかったのではないか。
それなのに、先日、X(旧ツイッター)で、生成AIで描かれた、縦型のボディーバッグを身につけた中年男性の画像が、「地方の田舎のイオンモールでよく見かけるこういう格好の人本当に嫌い」という文言とともに投稿され、話題を集めた。
その直後に、プレジデントオンラインでも〈「ボディーバッグ」より評判が悪い…休日のイオンで見かける一発で「だらしないお父さん」になるNGアイテム〉という記事が多くの読者に読まれたようだ。
他方で、この記事が掲載されたヤフーニュースのコメント欄には「誰にも迷惑をかけていないのに、なぜそんなことを言われなきゃいけないんだ」といった声が、少なからず寄せられていた。
暴力を振るったわけでも、不祥事を起こしたわけでもない。休みの日に、便利だと当人たちは愛用しているボディーバッグをかけて、家族とイオンに出かけているだけである。それなのに、なぜ「中年男性=カジュアルに叩いていい」という空気が、これほどまでに共有されているのだろうか。
■「中年男性=叩いていい」という空気
理由のひとつは、中年男性だから、だろう。ことば遊びをしているのではない。「中年男性」というカテゴリーが、安全に揶揄できる対象として消費されやすいからである。

若い男性なら「さわやかさ」とか「あどけなさ」といった、未熟さゆえの安心感を与えられる。あるいは高齢男性なら、時に頑迷さの象徴になりかねないものの、それでも、体力をはじめとして、もはや恐れの対象にはなりにくい。中年男性は、この両者の中間に位置するがゆえに、とかく警戒されやすく、そして、その警戒心の裏表として、攻撃の的になりやすいのではないか。
若いころほど流行に敏感ではなくなり、かといって、年寄りほどには開き直れない。そんな宙ぶらりんであるがゆえに、時として知ったかぶりをしがちになる。上に挙げた「休日のイオン」での身なりにしても、若者ほどのセンスもなければ、高齢者ほどの定番でもない。どっちつかずのだらしなさが、叩かれる要因になる。
すると、中年男性は叩いても仕返しをしてこない、安全なサンドバッグだと認定されやすいのではないか。女性をはじめとした、これまで社会のなかで少数派に置かれてきた人たちを叩けば、かえってさらなる批判を浴びかねない。しかし、中年男性は、いまも昔も多数派であり、叩かれてしかるべき、いや、叩かれなければならない権力者の側とみなされている。
中年男性は「権力者」と見なされる一方、個人としては弱い。そうしたいろいろな要素が重なり、「中年男性=カジュアルに叩いていい」とされているのではないか。

■氷河期世代が抱える「二重の不遇」
しかも、叩かれている中年男性=いまの日本における40代から50代前半の男性は、いわゆる「就職氷河期世代」にあたる。1700万人から2000万人にのぼるとされる就職氷河期世代は、世界経済フォーラムの記事にも言及されるほど、いまも非正規雇用や低賃金の仕事に就いている人が少なくない。
働き方が不安定だから、給料も上がらない。第一生命経済研究所(当時)首席エコノミストの熊野英生氏によれば、20代・30代の所定内給与が5年前に比べて1割以上上がっているのに対し、就職氷河期世代にあたる50~54歳の年齢層はマイナスになっているという。
いまの中高年は、若い頃にバブル世代のような恩恵にあずかれなかった。挙句の果てに中年になってみれば、若い世代の待遇は良くなっているのに、自分たちだけが置き去りにされたままである。
お金の面での不遇にとどまらない。上の記事にあるように、中年男性とあれば、たとえば、数年前に話題になったLINEの「おじさん構文」のように、いくら叩いても良いとでも言いたげな風潮に巻き込まれる。
労働や給料で割を食い続けただけではなく、世間からもバカにされる。これを二重の不遇と呼ばずして、何と呼べば良いのだろうか。
その反動のように、テレビ東京では「※女性は見ないでください」という、(中年に限らない)男性の本音をのぞき見るような番組が放送された。タイトルからして開き直りというか、愚痴を吐き出す場所を確保したいだけのようにも映るものの、「男のほうが賢い」といった出演者の発言が「炎上」したと報じられた

経済面での恵まれなさと、文化における評価は、必ずしも一致しない。それでも、不遇をかこっているのだから、せめて愚痴のひとつでも言いたい。そんなささやかな願いすら叩かれるありさまである。
■世間が求める「清潔感」の正体
私事で恐縮だが、私は3年前まで勤めていた前任校では、しばしば学生に間違えられていた。若作りしているわけでも、若々しいのでもなく、単に貫禄がないだけである。そんな私が大学でいつも念じているのは、「無害な存在に見えていればいい」という一心である。
空港の手荷物検査を思い浮かべよう。ポケットを空にし、両手を広げ、ブザーが鳴らなければ「通過」できる。46歳の私のような中年男性にとって、日々の服装やアイテム選びは、ファッションというより、パッと見て「無害認定」してもらえるかどうかの、ちょっとした関門にほかならない。先に挙げた「安全なサンドバッグ」だと見過ごしてもらえさえすれば良いのである。
「無頓着な、安全パイのおじさん」に見られたい時のキーワードが、「清潔感」だろう。では、その「清潔感」とは何か。
自戒を込めて言えば、見誤ってはいけないのは、世間がおじさんに求める「清潔感」が、決して好意のサイン(モテたい、かっこいい)ではなく、「マイナスがない=警戒しなくていい」という、ただの安全確認に過ぎないという点である。
■「白髪の鼻毛」に怯える私たち
ではなぜ、私たちはここまで「無害」であろうと汲々(きゅうきゅう)とするのか。それは、おじさんという生き物が、放っておけば下心といやらしさに満ちた存在として見られている、と過剰に意識しているからではないか。
思い起こせば30年ほど前、世間は、渡辺淳一の小説『失楽園』で盛り上がっていた。日本経済新聞の朝刊に連載されていたのが信じられないほど、性描写がふんだんに盛り込まれ、不倫を描いた作品だった。1997年にはドラマ化、映画化され、世間には、その主人公の中年男性への嫉妬と羨望と侮蔑の入り混じった論評があふれた。
『失楽園』に加えて、当時、女子高校生を相手にした「援助交際」が社会問題として取り沙汰されていたのとあいまって、中年男性は不倫をするもの、若い女性を性的なまなざしで見つめる輩だとされてきた。
もちろん、「エロおやじ」は古今東西どこにでもいる。同じころ、高校生だった私が読んだ、漫画家・南Q太氏の作品を、いまだに忘れられない。年上の既婚男性とセックスをしていた若い女性が、ふと相手の顔を見て、心の中で「あ、鼻毛出てる、しかも白髪」とつぶやく場面が忘れられない。どれほど親しい関係であっても、若い女性からの視線はそこまで冷めている。
にもかかわらず、私たち中年男性は、あるかもしれないし、ないかもしれない「白髪の鼻毛」に怯えている。
下心や身勝手さが一瞬で見抜かれ、不審者としてブザーを鳴らされる、そんな事態を恐れているのである。「おじさん構文」がネタにされるたび、私たちはビクビクするほかない。
しかし、ここで一度、落ち着いて考えてみたい。私たちは、本当にそこまで見られているのだろうか。
■若者は「おじさん」を敵視していない
いまの中年男性は、少し気にしすぎなのではないか。
「おじさん構文」ひとつをとっても、かつては、はっきりとした嫌悪や憎悪の対象だった。それが、いまや若者に「スルー」されたり、笑いのネタとして消費されたりする対象へと変わってきているのではないか。本気で相手にされていない、と寂しく受け止められもしよう。けれども、裏を返せば、それは、いちいち本気で敵視しない、という、いまどきのやさしさでもあるのだろう。
女性は、さまざまな(嫌な)社会的経験を通じて往々にして、男性からの性的な視線やノイズをやり過ごす術に長けている。長けているから問題ない、わけでは、まったくない。絶えることのない痴漢をはじめ、ストーカー、性犯罪と、女性が男性に警戒心を強めるのは、相応の理由と、社会環境と、これまでの歴史がある。

だからこそ女性は、どの(中年)男性が危険で、反対に「無害」なのかを瞬時に認定する能力を鍛えられているのではないか。それは、たしかに褒められるべき傾向ではない。男性が女性に危害を及ぼしている証拠だからであり、及ぼしかねない予備軍もまた多い証左だからである。
■胸を張って、ボディーバッグを使えばいい
ただ、このコラムの冒頭で話題にした「休日のイオンにボディーバッグ」は、そういった犯罪とは、直接のかかわりはない。そんな格好をしているだけならば、なるほど「だらしない」のかもしれないけれども、「有害」ではない。少なくとも、その格好だけを理由に「有害」認定はできない。ただの「無害さ」そのものではないか。「無害」でありさえすれば、その認定基準はそう厳しくないのではないか。
なるほど、さきほど挙げた「清潔感」には注意しなければならない。必要以上にゴテゴテした身なりをすべきではないし、いつまでも若者のつもりでは恥ずかしい。
逆に言えば、(白髪の)鼻毛が出ていないか、とか、服がヨレヨレすぎないか、といった最低限の配慮は持っておきさえすれば、気にしすぎる必要はない。これまで気にしすぎてきた振る舞い自体は、実はまっとうな大人らしさのあらわれだったのではないか。
「無害」であろうとして、過剰なまでに気を遣う社会は、犯罪の防止の点では、理にかなっている。けれども、その理屈が、無関係な中年男性まで過剰に縮こまらせているのなら、それもまた社会が抱える別のコストと言わざるを得ない。
正確に言えば、中年男性だけが気を遣い過ぎているのではない。そうではなく、「無害」の証明を求められる、そんな規範が過剰なまでに働いているのではないか。
氷河期を生き延び、中年になっても割を食い続けている私たちが、休日のイオンモールでまで、誰かの視線を恐れる必要はない。今週末も、胸を張って、いつものボディーバッグを斜めがけして、雑踏へ出かければいい。その無頓着な平穏のなかにこそ、私たちなりの「大丈夫」があるのではないか。

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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)

神戸学院大学現代社会学部 准教授

1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。

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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)
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