イランでは、いまも日本に対して好意的な感情を抱く人が少なくない。その源流の一つは、明治期の日本を訪れたイラン人の記録に見ることができる。
1903年末から1904年初頭にかけて来日したある人物は、長崎、京都、東京を巡るなかで、当時の日本人には当たり前だったある光景に強い衝撃を受けた。現代イスラム研究センター理事長の宮田律さんが、知られざる日本とイランのつながりを読み解く――。(第1回)
※本稿は、宮田律『イラン戦争 アメリカ・イスラエルの策略』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
■イラン人が最も好感をもつ国
カナダにあるイランを専門とする世論調査会社IranPollが2019年8月にイラン人1000人を対象に行った調査で、日本、中国、ロシア、ドイツ、国連、フランス、イギリス、アメリカについてその好感度を尋ねると、日本が最も好感をもてる国という調査結果が出た。
日本に好感をもつ人々は70%(「とても〔Very〕」「幾分〔Somewhat favorable〕」を合わせて)で、対照的にアメリカは「好感をもてない(Unfavorable)」人が86%(「とても〔Very〕」「幾分〔Somewhat favorable〕」を合わせて)にも上る。
トランプ政権のイラン政策に従い、イランに対する軍事的な有志連合に加わったイギリスも「好感がもてない」が73%となっている。イギリスの場合はイランに帝国主義的進出を行ったという歴史的背景もあるだろう。
世論調査の結果は52%のイラン人が欧米よりもアジアとの外交的、経済的関係を強化すべきと考え、49%の人々が、ヨーロッパよりアジアを好むと回答している。日本に続くのが中国の58%だが、中国に対しては「好感がもてない」も39%で、そのうちの25%が「Very unfavorable」だ。
イラン核合意から離脱し、制裁を強化するなどトランプ大統領が2017年に一期目の大統領職に就任してからイラン人の対米観が悪化したことは言うまでもない。また、ドイツやフランスというイラン核合意に留まるヨーロッパ諸国に対する好感度が下がっているのは、トランプ大統領の対イラン制裁強化を受けてこれらの国々の企業があっけなくイランから撤退したことも背景としてあるだろう。
■理由の一つは安倍首相の“41年ぶりの訪問”
IranPollは、日本に対する好感度が高いのは、安倍晋三元首相が2019年6月に日本の首相として41年ぶりにイランを訪問したことを理由の一つとして挙げているが、良好な対日感情は、ヨーロッパ諸国のように、イランが核合意を守らなければ、再び制裁を科すなどの政治的圧力をイランに対してかけていないことも理由としてあるに違いない。

日本は欧米諸国とは異なってイラン内政に口を出すことはなかった。また、日本が歴史的にイランに対してネガティブな関与を行うことなく信頼関係を構築できたこと、映画、ドラマ、文学、漫画、アニメなど日本のソフトパワーが良好な対日感情を築くことに貢献してきたことがある。
日本は、1992年に発生したイラン南東部(バム)大地震の際、血液を空輸しイランを援助している。また2011年の東日本大震災の際には、イランの赤新月社が宮城県にイラン製の缶詰を提供するなど相互に災害支援を行っている。
しかし、イラン人の良好な対日感情は、決して油断できるものではない。対米感情は、第二次世界大戦後にいっきに曇ってしまった。イランに関してアメリカに軍事的に協力することなどは絶対に控えるべきだろう。
■今日に生きる田中角栄の決断
1970年代に入ってアメリカのベトナムへの派兵圧力が強まると、田中角栄首相は「どんな要請があっても、日本は一兵卒たりとも戦場には派遣しない」と語っていた。田中角栄は、72年6月に出した「国民への提言」(私の十大基本政策)の中で、その2番目として、「憲法九条を対外政策の根幹にし、中華人民共和国との国交回復をすみやかに実現し、アジアと世界の平和に貢献する」と書いている。
角栄政権時代の自民党は、「改憲」を建前としながらも安全保障はほどほどに、経済重視の政策を推進した。多くのことにおいてアメリカに追従し、アメリカの軍事力によって近隣諸国の「脅威」に対処するという小泉純一郎政権以降の日本政府の発想とは正反対に思える。
2019年9月16日の「朝日新聞」の「声」欄に元外航タンカー船長・柿山朗さん(愛知県・70)の「ホルムズ海峡 警護で増す危険」という投書が掲載されている。
柿山さんは「イラン・イラク戦争では、日本人船員2人が死亡した。日本船は日の丸を船体に大書して中立を示したが、同盟国である米国が介入した時期から、日本船が次々に攻撃された。私のタンカーもイラン革命防衛隊のガンボートが接近し、銃口を向けられた。商船でも、警護されると敵国の軍事目標とされ、逆に危険度が増すのである」と書いている。
■明治の日本を見たイラン人が驚いた光景
メフディ・ゴリー・ヘダーヤト(1863~1955年)はパフラヴィー(パーレビ)朝(1925~79年)時代の1927年から33年まで首相であった人物で、政治回想録やイランの音楽、教育などに関する著作を残している。その紀行文の『メッカへの旅』の中で、1903年末から04年初頭にかけて来日した際の印象を書き記している。
彼は、ガージャール朝時代の宰相であったミールザー・アリー・アスガル・ハーン(アターバクとも呼ばれる)が失脚すると、そのロシア、中国、日本への旅行に同行した。長崎に到着し、それから京都、東京を訪問した。
彼の印象に残ったのは、日本人の質素な生活ぶりだった。
それは京都の御所や東京の皇居も例外ではなく、イランの宮殿の豪華絢爛ぶりとは対照的で、木材や白壁で造営された日本の質実な建造物は彼の心を強くとらえた。金箔などを施した絢爛豪華な宮殿を見慣れているヘダーヤトには皇族といえども簡素な建築物に居住することは新鮮にも思えた。
■チップは上司の許可なしに貰わない
また、日本人たちが金銭に欲のないことも、その清廉潔白な国民性としてヘダーヤトの心をとらえたようだ。
日本政府がつけた通訳にチップを払おうとすると、上司の許可がないからと受け付けない。アターバクが後で上司の許可を得るからと言ってチップを渡すと、後日、ホテルに上司の許可が出たので有難く頂戴したという礼状が届いていた。
リンゴ売りの老女の籠に50銭を施しのつもりで入れると、老女は一行の後を追いかけてきて、「こういうものは受け取れない」と言うので、彼女から50銭分のリンゴを買ったというエピソードも紹介されている。日本のホテルの清潔ぶり、神戸の税関長の事務所の整理整頓ぶりなど几帳面な日本人にも感銘を受けたようだ。
東京では女学校を見学し、生徒たちの真摯な勉学ぶりに感銘し、また日本の学校の多さや日本人の教育熱心なところも驚きだった。ヘダーヤトの一行は、伊藤博文首相とも面談し、日本の発展は何から始めたのかと尋ねると、伊藤は人材養成からだと答えた。
日本の街中に国産品があふれていることを目の当たりにして、日本の産業化の背景には教育の充実があったことを知る。彼は、旅行記に「日本はアジアの国であるが、我々のように眠っていない」と書いた(岡崎正孝編『中東世界――国際関係と民族問題(SEKAISHISO SEMINAR)』より)。
■ロシアの南下に苦しんだイラン
ロシアは18世紀初頭より国力を充実させ、拡張政策を追求したが、その南方進出の対象となったのがイランだった。ロシアは、1801年にグルジア(現・ジョージア)の一部がロシア帝国の領土であると宣言し、04年にトランス・コーカサスに軍事的に進出した。
1812年にフランスのナポレオンが再びロシアに進軍すると、イギリスは、ロシアに接近し、イランとロシアの和平を強く望むようになった。その結果締結されたのが、13年に成立したゴレスターン条約だった。
このゴレスターン条約で、イランは、グルジアとカラー・バーグなどコーカサスの8つの州をロシアに割譲した。
また、ロシアは、イランにおける資産の所有権、ロシア総領事のイラン駐在、また国境貿易における5%の関税の設置などを獲得した。このゴレスターン条約は、イランとヨーロッパ諸国の不平等条約の端緒であった。他のヨーロッパ諸国も競ってこれと同等の権利の獲得を目指すようになる。
■日露戦争がイランに与えた衝撃
イランでは、ロシアなどの進出を受け、弱体ぶりを露呈したガージャール朝の下で次第に革新的な運動が台頭する。こうした運動が台頭したのは、日本が日露戦争(1904~05年)でロシアに勝利を収めたことに関連するものだった。
アジアの小国の日本が、日露戦争によって、ロシアに勝利を収めたという事実は、多くのイラン人に変革への強い欲求をもたらすことになる。また、日本の勝因についてイラン人が考えをめぐらした結果、日本とロシアは同じ帝政でありながら、立憲国家=日本の、非立憲国家=ロシアに対する勝利は、憲法こそが日本の「勝利の秘訣」であったという結論にイラン人は至ることになった。
また、1905年の帝政ロシアにおける革命も、イランの憲法制定への動きを加速した。憲法が必要だと考えるイラン人たちは、「ガーヌーン(憲法)、ガーヌーン」と叫び、憲法を要求し、立憲革命(1905~11年)の運動に広がっていった。
■「日本が我らの先駆者となった」
ロシアの帝国主義に苦しめられたペルシア(イラン)にとって日本が強国ロシアに勝利したことは驚嘆、畏敬の念をもって受け止められた。
詩人のホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーもまた日露戦争の直後につくった『ミカド・ナーメ(天皇の書)』の中で、立憲体制下の日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を称賛した。
彼は次のように日本を賛美する作品の中でイランが憲法をもつことの重要性を訴えた。
東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。

眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。

文明の夜明けが日本から拡がったとき、

この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。

無知の夜は我々から裾をからげて立ち去り、

叡智の光によって新しき日は始まったのだ。

日本が我らの先駆者となった以上、

我らにも知恵と文化の恩恵がやってこよう。

どんな事柄であれ我らが日本の足跡を辿るなら、

この地上から悲しみの汚点を消し去ることができるだろう。

(杉田英明『日本人の中東発見』東京大学出版会、215頁)
『ミカド・ナーメ』の末尾では次のように憲法制定の必要性を訴えている。
憲法が王権の礎となるとき、

それは王権の資源をますます豊かにしてくれる。

立憲制によってこそ日本は偉大になった。

その結果かくも強き敵に打ち勝つことができたのだ。(同216頁)
現代の日本とイランの外交関係が確立されたのは1926年で、パフラヴィー朝時代のことであった。


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宮田 律(みやた・おさむ)

現代イスラム研究センター理事長

1955年山梨県生まれ。83年慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修了。米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程(歴史学)修了。専攻はイスラム地域研究、国際政治。著書に『イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか』(新潮新書)、『50のストーリーでつながりがわかる イスラムの世界史』(中央公論新社)、『黒い同盟 米国、サウジアラビア、イスラエル』『アメリカのイスラーム観』『ガザ紛争の正体』(以上、平凡社新書)、『武器ではなく命の水をおくりたい 中村哲医師の生き方』(平凡社)など。

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(現代イスラム研究センター理事長 宮田 律)
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