※本稿は、酒井邦嘉『AI脳クライシス』(集英社インターナショナル)の一部を抜粋・再編集したものです。
■脳に刻まれるのは「本の内容」だけではない
同じ読書でも紙の本と電子書籍では脳の働きがどのように違うのでしょうか。
表面的に見なせば、脳の働き自体はそれほど差がないと思われるでしょう。紙の本であれ電子書籍であれ、視覚野に入った情報が音声に変換され、言語野に送られるという過程は同じなのですから。
しかし、紙の本で読書をする場合、脳は単に書かれている内容だけを読み取っているわけではありません。
たとえば、本の厚みや手触り、紙質や装丁はどうか、本文のレイアウトはどうだったか、書体はどうか、この本のどこに書き込みをしたか、といった本の内容とは直接関係のないさまざまな情報を無意識のうちに記憶し処理しています。それらは、後で本の内容を思い出す時の手がかりとして、紙の本の方が電子書籍よりはるかに豊かな情報を脳に刻んでくれるのです。
記憶をたどりながらパラパラとページをめくって、「あの人物はこの場面で初めて登場した」とか、「その伏線となるエピソードはここにあった」と、必要な所がすぐ見つけられるのは、製本の成せる業です。
電子書籍でこれらの感覚が得られるかと言えば、きわめて難しいでしょう。
■キーワード検索は便利だが…
まず電子書籍では本の厚さのような量的な手がかりが希薄です。
たとえば長編小説を読む場合、紙の本では視覚的・触覚的に全体のどのあたりを読んでいるかを把握しながら読むことができますが、電子書籍はスクロールバーの相対的な位置やページ数の表示が唯一の手がかりですから、後で必要な所にたどり着くには相当な時間がかかります。
キーワード検索は確かに便利ですが、探したい語句が正確に思い出せない時には使えません。
ページごとの情報にしても、紙の本にある行間や書体の変化、周囲の余白などは電子化の際に落とされてしまいがちで、視覚的な印象はかなり変化します。ページをめくるという感覚自体も、まったく異質なものになっているのです。
また、紙の本であれば学術書、実用書、小説と明確に体裁が分かれるものが、電子書籍のテキストデータではどれも同じように画面に表示されます。これではそれをどのようなスタイルで読むべきものなのか判断がつきにくくなることでしょう。
■「電子機器」と「記憶力」との不都合な関係
脳が記憶した本の厚さや位置など、五感(中でも視覚、聴覚、嗅覚、触覚など)に訴えかけてくる情報が希薄になると、読んだ記憶があいまいになったり、読み飛ばしを起こしやすくなったりします。
パソコンの画面で文章を推敲した後、改めて印刷した原稿を読んでみて、それまで気づかなかった誤字や脱字が見つかるという経験をしたことはないでしょうか。
何度読んでもパソコンの画面では見つけられなかったものが、なぜ紙の原稿だとすぐに見つかるのでしょうか。
これは人間の脳が持つ「注意」のメカニズムに起因すると、私は考えています。
コンピュータの画面では文字と画面の位置関係が一定していません。長い文章になると、スクロールによって前のページは画面から消えてしまいます。ところが紙の原稿では、文字と紙の位置関係が一定であり、何ページの右から何行目といったように空間的な手がかりが得られるので、読み飛ばす可能性が減るのです。
こうした紙とデジタルに関する研究結果を一つ紹介しましょう。
NTTデータ経営研究所と日本能率協会マネジメントセンターと共同で私の研究室で実施し、二〇二一年三月に発表した調査研究では、「紙の手帳」を使用する効用が科学的に明らかになりました。
その調査には一八~二九歳の四八人が参加して、「紙の手帳」「スマホ」「タブレット」を使用する三群に分けました。それぞれのメディアで日常のスケジュールを記録してもらい、その時点では後で内容に関するテストがあることは伝えませんでした。
記録した内容について、一時間後に思い出す時の脳活動を調べたところ、言語処理に関係する言語野、空間情報を再現する視覚野、そして記憶の想起に関係する海馬に活動の上昇がみられ、スマホやタブレットよりも、紙の手帳を使って記銘した群の脳活動がより活発であることが分かったのです。
■「紙の教科書とノート」の教育を取り戻す
これは紙の本について説明したことと同じで、どこに書き込んだかという位置情報などの手がかりが、紙の手帳の方が豊富だったためと考えられます。
教育関係者や教育行政に携わる方々には、こうした科学的な知見を十分に考慮していただきたいと思います。
もちろん電子書籍は使い方によっては便利だと感じられるかもしれません。ペーパーレスは資源的な節約になりますし、手軽に持ち運べたり、すぐに語彙の検索ができたり、辞書などほかのソフトウェアと連動できたりする利点があるでしょう。
その一方で、これまで述べたように紙の本はデジタル化できない数多くの情報を有しているうえ、検索に頼ることなく足りない情報を想像力で補うことで記憶力を高め、脳を創るという大切な働きをします。
電子書籍などの文明の利器は、残念ながらその地道な脳のプロセスの代わりをしてくれるとは言えません。
タブレット端末は、悪影響が十分に検証されないまま教育現場に導入されてしまいました。
じっくり学習したり、熟読したりという場合は、紙の本とノートに限ります。手早く検索したり情報を収集したりする時には電子機器が便利ですが、得られた情報の吟味には十分な時間をかけて、批判的に取捨選択する力を養いたいものです。これからの時代には、知的作業がどんなに機械化されても揺るがないような、「人間力」が一層試されることでしょう。
■便利さと引き換えに退化していく脳
何事もインターネットで検索し、素早く答えを得ようとする風潮にも問題があります。
検索して得られた情報は、さまざまな書物や資料を調べ、自分自身の頭で考えて導きだした知識とは、質的に異なります。また、後になってウェブ上の同じ情報を確かめようと思っても、検索の条件が違えばなかなかたどり着けないこともあります。
インターネットの検索順位は広告や閲覧数などにも影響を受けるため、上位に現れる情報が役立つとは限らないわけです。
それに、少し検索しただけで内容をうのみにするのは危険です。ましてAIによる要約など、情報源が確認できないという怖さがあります。
その点を用心してインターネットを利用したとしても、だんだん自分の頭で物事を考えなくなっていくことでしょう。
「調べ学習」という体裁のいい呼び名のもとに、子どもの頃からインターネットで検索する習慣が身に付けば、「本を読んで自分でじっくり考えるよりも、ネットで検索した方が早いし楽だ」と思うのは当然です。デジタル端末によって「考える前に調べれば頭を使わなくて済む」という人が増えれば、逆効果どころか、教育はいずれ崩壊するでしょう。
■脳を創り、人を創るには
最近の大学では、講義に筆記用具やノートを持ってくることなく、板書やパワーポイントの写真をスマートフォンなどで撮る以外に、まったくメモを取ろうとしない学生が増えています。
レポートでも、自分の文章を推敲できていない状況が散見されます。電子機器の利用と共に、手書きで文字を書く習慣が急速に失われることで、時間をかけて自分の考えを的確にまとめ、相手に伝えるという力が衰えてきているのです。
ですから、安易にデジタル機器に頼るのではなく、まずは紙の教科書に書かれていることを何度も読み返し、要点をノートに手書きでまとめるという習慣を取り戻す必要があると考えます。そうした地道な学習の過程で、脳が鍛えられ、創られていくのです。
学習は、見聞きしたことについて考え、そして書き留めるというマルチタスクによって成り立っています。便利さや効率のために、それを安易に手放してしまうことは、きわめて危険な賭けでしょう。いずれにしても、文明の岐路にあって、何をどのように選択していくか、私たちの賢明な知恵が求められていることは確かです。
フランスの哲学者パスカルが「人間は考える葦である」と述べた真理は変わりません。
自らの脳を鍛え、日々その能力を更新することは、それほど難しいことではありません。紙の本の読書を続ければよいからです。じっくり時間をかけて本を読み、解釈を積み重ね続けることで、想像力が自然と育まれていきます。
また、そこで得られた知識をほかの形で表現できれば、創造力につながります。考える時間が脳を創り、人を創るのです。
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酒井 邦嘉(さかい・くによし)
東京大学大学院総合文化研究科教授、言語脳科学者
1964年、東京都生まれ。東京大学医学部助手、ハーバード大学リサーチフェロー、マサチューセッツ工科大学客員研究員、東京大学大学院総合文化研究科助教授・准教授を経て、2012年に同教授。02年、『言語の脳科学』(中公新書)で第56回毎日出版文化賞、05年、「脳機能マッピングによる言語処理機構の解明」で第19回塚原仲晃記念賞受賞。著書に、『脳を創る読書─なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』(実業之日本社)、『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)、『脳とAI』(編著、中公選書)などがある。
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(東京大学大学院総合文化研究科教授、言語脳科学者 酒井 邦嘉)

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