「三種の神器」は画像公開すら行われていない皇室の秘宝である。元・東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「例外的に秘宝中の秘宝として守られているお宝が三種の神器だ。
歴史研究者として、できるだけタブーなしで《三種の神器》の秘密に切り込んでみたい」という――。
※本稿は、本郷和人『カラー版 皇室のお宝』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■正統な継承者だけが手にできる三種の神器
令和に入って、皇居三の丸尚蔵館が開館し、全国各地の県立美術館で同館所蔵の名宝展が巡回するなど、私たち日本人にとって皇室のお宝はずいぶん身近なものとなりました。しかし、例外的に秘宝中の秘宝として守られ、画像公開すら行われていない皇室のお宝があります。それが、神話の時代から皇室で脈々と受け継がれてきた《三種の神器》です。
皇位を継ぐ正統な継承者だけが手にすることができるとされるその三つの品々は、果たしてどのようなお宝なのでしょうか? そもそもこの世に実在するものなのでしょうか? 本稿では、歴史研究者として、できるだけタブーなしで《三種の神器》の秘密に切り込んでみたいと思います。
■なぜ3つかは「わからない」
《三種の神器》と聞くと、「それ自体が神々しくて、とにかく凄いものだ」と言われがちです。でも僕は、皇室を大切に思う一方で、「神器が凄いから天皇も偉大なのだ」という説明には乗りません。世界の王室にはだいたい王権の徴(しるし・レガリア)がある。日本の《三種の神器》もそのひとつですが、運用方法は実に日本的でもあります。
神器は鏡(かがみ)・勾玉(まがたま)・剣(つるぎ)。なぜ三つか? ここは正直、よくわかりません。
わからないものは「わからない」と言うのが学者です。ただ、実物を見ていないとはいえ、三つそれぞれの“キャラクター”は見えてきます。勾玉は日本的で、翡翠(ひすい)だと急にありがたみが増す。「侘び寂び」が感じられる素朴な宝物です。鏡は古墳からも出土しているし、神社の御神体でもある顔が映るでしょう。神様がそこに現れる感じがして、祭祀と相性がいい。剣は、アーサー王のエクスカリバーではないですが、どこの国でも王権の象徴になりやすい。
ただし皇室のレガリアは、昔から三種だけだったのではありません。平安時代、順徳(じゅんとく)上皇が書き残した史料によると、琵琶の名器「玄象(げんじょう)」が出てきたり、剣でも「大刀契(だいとけい)」というお宝が語られたりする。火事で焼けたり散逸したりもするので、「いつから“三種”へと収束したのか」は、本当はもっと検証が必要です。それでも中世には「天皇と三種の神器はセット」という感覚がはっきりありました。平家が安徳(あんとく)天皇を連れて都落ちするとき、三種の神器も一緒に持ち出したことはよく知られた逸話です。

■『太平記』を読み込んだ結果…
では、現代はどうかというと、宮内庁の公式説明によれば、まず鏡の本物は伊勢神宮にあり、皇居内にそのレプリカが保管されている。勾玉は皇室内にあり、剣は熱田神宮に収められている。平常時はバラバラの場所にあり、代替わりの際には、まず宮中で剣と勾玉が新しい天皇に受け継がれる。そのうえで、のちに伊勢神宮へ赴いて鏡に即位を奉告するわけです。
けれども、剣の本体は熱田神宮にあるはずでしょう。そう考えると、どうにも話の座りが悪い。さらに、本物の剣は壇ノ浦の戦いの際に海中深く沈んでしまっている。では熱田神宮にあるとされる剣は……? いろいろと検証していくと、疑問が尽きません。したがって、このあたりの公式見解は、明治維新で国家神道が再編された際、“そういうことにした”のでしょう。
さらに南北朝時代に遡ると、話はいっそうややこしくなります。『太平記』を丹念に読みこむと、どうも《三種の神器》は少なくとも3セットはあったように解釈できるのです。まず一つは、後醍醐天皇が皇太子だった恒良(つねよし)親王に託し(皇位を譲った、という形をとった)、新田義貞らとともに北陸へ持たせたもの。
次の一つは、京都へ戻った後醍醐天皇が、北朝の光明(こうみょう)天皇に渡したもの。そしてもう一つは、その後に吉野へ逃れた後醍醐天皇が、「自分の持つ神器こそが本物だ」と言って立てたものです。
これでは、どれが本物なのか、もう簡単には決められません。少なくとも中世の現場では、神器は私たちが思うほど一枚岩の、動かしようのない“唯一無二のセット”ではなかった可能性が高いのです。
■政治のなかで“本物”にされていく
ここで起きるのは、実に身も蓋もない逆転です。普通に考えれば、「本物の三種の神器を持っている者が正統の天皇だ」となりそうですが、史料を丁寧に追っていくと、むしろ逆で、「正統と認められた天皇が持っているから、その神器が本物になる」と考えたほうがしっくりくる。要するに、神器それ自体が絶対的な権威を持っているというより、政治のなかで“本物”にされていくわけです。
しかも後醍醐天皇には、出雲方面の由緒ある神社に「剣を一本よこせ」と求めた文書まである。そこまでいくと、《三種の神器》というのは、そのつど政治的必要に応じて整えられ、補われ、再編されるものでもあったのではないか、という見方が浮上します。
■明治になると曖昧さを放置できなくなった
ところが明治になると、この曖昧さは放置できなくなります。というのも、明治維新を担った元勲(げんくん)たちが重視した思想的支柱のひとつが水戸学であり、水戸学は南朝正統論を強く打ち出していたからです。南朝が正統だという議論を受け入れるなら、吉野の南朝は正しい。
しかし、現在の天皇家の系譜は、歴史的にたどれば北朝の流れに連なっている。
すると、「いまの天皇はどういう理屈で正統なのか」という、なかなか厄介な問題が持ち上がるわけです。これは単なる学問上の言葉遊びではなく、近代国家の正統性に関わる大問題でした。大正期には、この矛盾をどう処理するかを真面目に議論する動きまで出てきます。
そこで持ち出されたのが、北畠親房(きたばたけちかふさ)が歴代の天皇について著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』で展開したロジックでした。この書が成立した南北朝時代は、後嵯峨(ごさが)天皇の実子による兄弟間の争いに端を発する二つの皇統が正統を争って並び立つ時代でした。
兄・御深草(ごふかくさ)天皇系の持明院統(じみょういんとう)=北朝と弟・亀山(かめやま)天皇系の大覚寺統(だいかくじとう)=南朝が畿内で睨み合うなか、父祖の頃から大覚寺統に仕える親房は、「南朝方の大覚寺統こそが正嫡である」と説明しなければなりません。そこで彼が持ち出したのが、「三種の神器を持つ天皇こそが正統な天皇だ」という論理です。
■近代国家として「欲しかった説明」
明治・大正期の歴史家や政治の側は、この『神皇正統記』の論理をきわめて都合よく使いました。つまり、後醍醐天皇は“本物”の神器を持っていた。その神器は南朝の天皇――後村上(ごむらかみ)、長慶(ちょうけい)、後亀山(ごかめやま)――へと受け継がれた。最後に後亀山天皇が京都へ赴き、北朝の後小松(ごこまつ)天皇に神器を引き渡した。

であるならば、後小松天皇は本来は北朝の系統(正統ではない)に属していても、その時点で本物の神器に守られる正統の天皇になった。以後の皇統はその後小松天皇につながっているのだから、明治天皇も大正天皇も、そして現在の天皇に至るまで、正統性に何の揺らぎもない――こういう筋書きです。これは近代国家としては、どうしても欲しかった説明でしょう。南朝正統論を捨てずに、しかも現実の皇統の正統性も守れるからです。
■「きわめて政治的な品物」だった
しかし、先も見たように、史料上は《三種の神器》は少なくとも3セットあったように読める。そうなると、「後醍醐から後亀山まで南朝がずっと唯一の本物を持ち続け、それが最後に後小松へ受け渡された」という話そのものが、かなり苦しくなります。
ここまでの議論でわかるように、《三種の神器》は、皇統の正統性を語るために、時代ごとに意味づけされ、守られ、ときに作り直されてきた、きわめて政治的な品物だったのです。僕は皇室に敬意を抱く立場の歴史研究者ですが、史料を追えば追うほど、「三種の神器とは何か」という問いは、「聖なる宝物とは何か」という問いである以上に、「国家は何をもって正統性を語るのか」という問いに近づいていきます。イワシの頭も信心から、とはよく言ったものです。
結局、お宝の価値は、それを持つ側がどう信じ、どう語り、どう扱うかで決まってくるのです。

----------

本郷 和人(ほんごう・かずと)

歴史学者

1960年、東京都生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。東京大学史料編纂所教授などを歴任し、藤田医科大学リベラルアーツセンター長。専門は日本中世政治史。とくに院政期から南北朝期にかけての政治構造や、貴族・武士の権力関係の変遷を中心に研究を重ねる。膨大な史料に基づいた実証と、現代的な視点を交えたわかりやすい通説批判に定評がある。近年はテレビや書籍などでも積極的に日本史の魅力を伝えており、多くの著書がある。主な著書に『変わる日本史の通説と教科書』(宝島社)、『日本史のツボ』『日本史を疑え』(ともに文藝春秋)などがある。

----------

(歴史学者 本郷 和人)
編集部おすすめ