1945年春、敗色濃厚となった日本は、米英との和平を実現するためソ連の仲介に望みをつないだ。筑波大学名誉教授の波多野澄雄さんは「最高戦争指導会議は、その代償として領土や権益の大幅な譲歩を検討した。
しかしスターリンは、すでに米英首脳に対日参戦を確約していた。日本が働きかける前から、答えは出ていた」という――。
※本稿は、波多野澄雄『なぜ日本は米英中ソと戦ったのか』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■対日参戦を匂わせたスターリン演説
ソ連が日独をともに「侵略国」と位置づけたスターリン演説は、内外のメデイアにも大きく報道され、様々な憶測を生む。ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相は、同演説は「理論的見地より為したるもの」であり対日政策に変更をもたらすものではない、と釈明したことから、重光葵や佐藤尚武駐ソ大使は、この演説が直ちに対日参戦の決意を意味するとは考えなかったが、日本側の警戒心をあおった。
スウェーデンの岡本季正(すえまさ)公使は、1944年11月11日、スターリン演説は「原則として対独戦終結後、対日戦に参加すべしとの(米英ソ)テヘラン会談に於ける約束」の表明である、とする「諜報者」の見方を重光宛てに打電している。この情報が政府部内で重視された形跡はないが、44年秋には、対日参戦問題は連合国側で議論が進展している。
10月末のテヘラン会談では、スターリンは米英首脳に参戦の言質を与え、12月には、駐ソアメリカ大使ウィリアム・ハリマンを通じたローズヴェルト大統領の参戦要請に、スターリンは南樺太、千島列島を代償として要求するに至っていた。
一方、ソ連外務省は、すでに45年初頭には日ソ中立条約の廃棄に傾いていたが、ソロモン・ロゾフスキー外相代理は、ヤルタ会談以前の45年1月、条約の廃棄通告を延ばすことをモロトフに進言していた。
■日本が知り得なかったヤルタ密約
ロゾフスキーによれば、廃棄声明では、5年間延長について、45年秋に協議の用意ある旨を通告するものとし、そこで日本側が大きな譲歩を示すならば、延長可能との期待を抱かせるような形とすべきであった。しかし、スターリンは、日露戦争やシベリア出兵に報復するチャンスを逃したくなかった(ボリス・スラヴィンスキー『考証日ソ中立条約』)。
45年2月初旬のヤルタ会談では、スターリンは米英首脳に、南樺太の返還、大連・旅順の回復など日露戦争によって失った諸権利の回復措置のほか、千島列島の引き渡しといった代償と引き換えに、ドイツ降伏後、2、3カ月後の対日参戦を最終的に確約した。

日ソ中立条約の延長について思案を巡らしていた日本の外務省は、このヤルタ密約を知り得なかった。モスクワやスウェーデンの現地公館からは、会談に関する各国の論調分析から、中立条約の廃棄が合意された可能性があることを示唆する情報が本国に寄せられていたが、確実なものはなかった。
■回答を避け続けたソ連
2月22日、ヤルタから帰国したモロトフと会見した佐藤は、公表文書のほかに「極東の戦争の問題」について話し合いの有無を尋ねた。モロトフは「われわれは日ソ関係は日ソ両国の問題だと考えている」と述べるにとどまった。
佐藤は、ソ連外交の「自主性」の堅持と受け止めた。さらに佐藤は、中立条約は45年4月25日が廃棄通告の期日であるが、日本政府としては同条約の存続を希望しているとして、ソ連政府の態度を承知したいと迫った。
しかし、モロトフは「中立条約の存続に関しては多忙のため未だ研究し居らざるに付追って御話すべし」と述べるにとどめ、回答を避けた。その後、モロトフは不延長通告まで会談を避け続けた。
一方、佐藤は3月末、中立条約の単なる延長ではなく、それを一歩進めた「議定書案」を用意した。日露戦争後のポーツマス条約は革命後のロシアにとっても「露国史上の汚点」であり、これを確認している日ソ基本条約の存続も認めないであろうとみなし、中立条約存続と引き換えに、両条約の廃止を条件とするものであった。
しかし、佐藤大使の議定書案が政府部内で検討される直前の4月5日、ソ連は中立条約の不延長を通告した。日本側において、45年3月中旬の段階で、中立条約の破棄を「概ね確実」と判断していたのは参謀本部の戦争指導班であった。

その一方、同班は対独戦の終結が確実な「本年中期頃」まで、対日和平をめぐって英米とソ連の確執が激化し、その場合には「帝国の対ソ交渉に一脈の光明を発見し得るもの」と見通す。こうした判断は、有利な和平仲介を可能とみなす有力な根拠にもなっていた。
■東郷茂徳が仕掛けた和平への布石
ソ連による中立条約の不延長通告から数日後、参謀本部は、九州または関東を主戦場とする「本土作戦計画」を発令した(4月8日)。本土決戦において最も懸念されたのはソ連の参戦であった。
4月22日、鈴木新内閣(4月7日発足)に入閣していた東郷茂徳外相を訪問した新任の河辺虎四郎参謀次長は、参戦防止を目的に対ソ外交を果敢に展開することを要望した。
そこで東郷は、こうした「軍部の希望」を利用し、国策を対米英和平に導くことを決意したが、その道筋は容易ではなかった。元来、陸軍が本土決戦を選択した重要な理由は、米英に「和平屈服」した場合、国体の破壊など過酷な無条件降伏を強要されると見通したからであり、本土決戦を控えて対米英和平を前提とした対ソ交渉はあり得なかった。
そこで東郷は、六巨頭(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)で構成される最高戦争指導会議の場において対ソ交渉の問題を取り上げ議論を尽くすことによって、政府・軍部の最高指導者の間に「和平機運の醸成」を図ろうとする。そのため、東郷は鈴木貫太郎首相の了解のもとに秘密保持の観点から六巨頭のみの会談を設定した。
■日本の戦争指導者が差し出そうとした“大幅な譲歩案”
最初の六巨頭会談(最高戦争指導会議構成員会議)が5月11日から14日まで開かれる。東郷の思惑通り、六巨頭は対ソ交渉に関して、(第一項)対日参戦の防止、(第二項)好意的中立の獲得、という従来の目標に、(第三項)戦争終結に関する有利な仲介、という目標を加えることに合意した。「無条件降伏以上の講和に導き得る外国ありとせば、ソ連なるべし」との考えで一致できたからである。

また、六巨頭会談はこれらの目標にソ連を誘導するために、ポーツマス条約と日ソ基本条約の廃棄を原則に、南樺太の返還、漁業権の解消、津軽海峡の開放、北満における諸鉄道の譲渡、場合によっては千島列島の北半の譲渡などの大幅な代償提供を確認する。要するに、ソ連の「欲求」はポーツマス条約の廃棄が「主眼」であるとみなし、これに応えようとするものであった。
さらに六巨頭は、朝鮮の「中立」と満洲国の「独立」の維持、さらに「日ソ支三国の共同体制」の樹立などを用意した。これらは米国の対抗勢力として想定されたソ連を、対日関係の強化に誘導しようとするものであった。
一方、米英側に提示すべき和平条件について議論が進展することはなかった。その前提である戦局観が、陸軍指導者と東郷とでは大きく乖離していたからである。
■はぐらかされた広田弘毅の対ソ交渉
たとえば、阿南惟幾陸相は、戦局が明らかに敗勢に向かっていることを認めず、「日本は未だ広大な敵の領土を占領しているのに反し、敵は未だ日本領土の一部に手をかけたにすぎない、英米との和平条件はこの現実を基礎として考慮しなければならない」と力説し、東郷と激しく対立した。
結局、第三項(ソ連の仲介による和平)の実行は当面見合わせ、元首相・広田弘毅をしてソ連の意向を打診することになった。
こうして45年6月初旬から6月末まで、箱根に疎開していたヤコフ・マリク駐日ソ連大使と広田の秘密会談が、断続的に開かれる。三度の会談で広田は、ソ連を和平仲介に誘導するため、最大限の譲歩条件や「日ソ支協力体制」案、不侵略条約案などを提案するものの、マリクは耳は傾けるものの、のらりくらりと態度を明確にしなかった。
日ソ関係史の研究者ボリス・スラヴィンスキー『考証日ソ中立条約』によれば、マリクは本国のモロトフ外相から、「話を聞くのは構わないが、日本側の協議に引き込まれ、会談を交渉だと思わせるような口実を与えてはならない」との指示を受けていた。それも当然であった。
ソ連がヤルタ会談で米英首脳に約束した対日参戦が間近に迫っていたのである。
日本が英米と直接交渉に入ることを警戒していたソ連は、広田とマリクの会談を日本政府の動きを探る窓口と捉えていたようである。
いずれにせよ、7月初旬のソ連は対日参戦を控え、宋子文をモスクワに招き、ヤルタ会談における合意に関して中国の了解を求めようとしていた。参戦は動かぬ行動シナリオとなっていた。

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波多野 澄雄(はたの・すみお)

筑波大学名誉教授

1947年、岐阜県生まれ。77年、慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)。防衛庁防衛研修所戦史部研究員、筑波大学教授、国立公文書館アジア歴史資料センター長、外務省『日本外交文書』編纂委員長などを歴任。著書に『太平洋戦争とアジア外交』(東京大学出版会)、『日本の歴史問題』『日本終戦史1944-1945』(いずれも中公新書)、『幕僚たちの真珠湾』『広田弘毅』(いずれも吉川弘文館)、『決定版 大東亜戦争(上・下)』(共著、新潮新書)など。

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(筑波大学名誉教授 波多野 澄雄)
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