真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は、どんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「第二次大戦中、彼は一貫して日米開戦を避ける方途を模索した。
そこには故郷の長岡藩の家老・河井継之助の銘でもある『常在戦場』という精神が流れていた」という――。
■山本五十六の原点にある「廃城」
上越新幹線の長岡駅前(新潟県長岡市)に「長岡城本丸跡」と彫られた石碑が立っている。だが、周囲を見渡しても、ここが本当に城跡だったとは、にわかには信じがたい。それほど城の痕跡はまったくない。もともとは三重の堀で囲まれた壮大な近世城郭があったのだが、戊辰戦争後に徹底的に破壊され、いまは地上になにも残っていない。
じつは、この痕跡をとどめない長岡城こそは、山本五十六(1884~1943)、すなわち長岡出身で連合艦隊司令長官を務めた海軍軍人の原点なのである。
それにしても長岡城にはなにもない。戊辰戦争の激戦のひとつ「北越戦争」、別名「長岡城の戦い」で、城の建物の大半は城下町とともに焼失し、かろうじて残った建物も取り壊され、堀は埋められていった。石垣は要所にしか積まれていない土づくりの城のため、壊しやすかったこともあるだろう。明治31年(1898)、旧本丸に鉄道の停車場ができると、周囲はどんどん市街化していった。
北越戦争の主役は、越後(新潟県)長岡藩の家老で藩の軍事総督に就任した河井継之助だった。そして山本五十六は、継之助の影響を受けており、受ける立場にもあった。
そのことに触れる前に、北越戦争と長岡について述べておきたい。
■長岡藩がとった意外な道
天皇の厚い信頼のもと京都の治安維持に尽くした会津藩主の松平容保が、明治新政府によって朝敵とされると、さすがに同情が集まって奥羽越列藩同盟が結成された。長岡藩も同盟に加わったことで、北越戦争を戦うことになった。
ただ、継之助は土佐藩出身の新政府軍監、岩村精一郎と会談し、中立を維持するので長岡藩領に入らないように求めている。つまり、内戦で国土を疲弊させるよりも諸藩が団結してあたらしい国づくりをめざすべきだ、と主張し、会津をはじめ旧幕府軍に和睦を結ぶように説得するから、猶予がほしいと願い出た。しかし、岩村は継之助の訴えを拒んで、嘆願書に目を通しさえしなかった。こうして戦わずに済ます道が閉ざされてしまったのである。
慶応4年(1868)5月10日、新政府軍は長岡藩領に侵攻し、重要拠点の榎峠を占領したので、継之助はまずこの峠を奪還。南東の朝日山まで占領するが、今度は新政府軍の奇襲に遭って、長岡城を奪われてしまう。以後、継之助は長岡城奪還をめざすことになった。
6月2日には、山本帯刀率いる長岡藩きっての精鋭隊が、新政府軍の軍需が集中する今町を攻撃した。敵が応戦する隙に継之助率いる主力が今町を占領し、7月24日にはついに長岡城奪還に成功する。

■祖父も実父も北越戦争に従軍していた
ところが、長岡城は新政府軍の猛攻に遭い、その間、継之助の左ひざに銃弾が命中し、これを機に藩兵の士気が一気に下がってしまう。7月29日、長岡城はふたたび陥落。新政府軍は苦戦が続く戦線に大量の兵士を送り込んだので、長岡藩兵は会津への退却を余儀なくされた。また、戦場となった長岡城と城下町は、前述のようにほとんど廃墟と化し、とくに城は消滅への道をたどった。
一方、重傷を負った継之助は1人で歩けないので、戸板に載せられて会津をめざしたが、途中で破傷風が悪化。8月12日に命を落としている。享年41。
さて、山本五十六である。長岡に生をうけた明治17年(1884)は、北越戦争の16年後だったが、父や祖父は北越戦争に従軍していた。祖父の高野貞通は長岡城下で戦死し、実父の高野貞吉は退却した会津若松で負傷している。この高野家は長岡藩内では120石の中堅武士で、実父の貞吉が56歳のときに生まれたから、「五十六」という名がつけられた。
では、高野家に生まれた五十六がなぜ山本姓なのか。
それは廃家になっていた山本家を五十六が継いだからである。さきほど北越戦争について説明するなかで「山本帯刀率いる長岡藩きっての精鋭隊」と書いたが、五十六が継いだのはこの山本帯刀(諱は義路だが、帯刀として知られた)の山本家だった。
■苗字が高野→山本になったワケ
この山本家は知行が1300石で、長岡藩牧野家のもとで代々上席家老を務めてきた家柄だった。だが、河井継之助が牧野家の絶大な信頼のもとに台頭したため、藩内の立場が逆転するが、山本帯刀は継之助とは友好的で、継之助の藩政改革にも協力し、北越戦争をともに戦った。
だが、こうした経緯がゆえに、山本家は河井家とともに反乱の首謀者として、新政府によって家名断絶となっていた。そこで旧藩主の牧野家は、先祖代々深いつながりがあった山本家の家名再興のために尽力していた。
ちょうどそのころ、高野五十六は海軍大学校の乙種を卒業し、エリートコースである甲種に在籍中で、海軍で佐官(大佐、中佐、少佐の3つの階級の総称)以上の地位がほぼ約束されていた。そこで、長岡藩牧野家15代に相当する牧野忠篤が大正4年(1915)、五十六に断絶した山本家を相続させ、家名を再興させたのである。
実際、五十六は長岡藩を代表する名家だった山本家を継ぐにふさわしかった。長岡藩の気風といえば「常在戦場」で、いつでも戦場にいる心構えで、気を抜かずに暮らすように、という教えだった。
具体的には、飯は夕食時に炊くというのも「常在戦場」の考え方に拠っていた。というのは、夕食時に炊いていれば、その残りで夜間の非常時に備えることができ、朝にはそれを雑炊にして食べることで、日ごろから粗食の構えが身につく、というものだった。
有用な学問はなんでも取り入れる、というのも「常在戦場」の考え方だった。
■河井継之助の精神を受け継ぐ「常在戦場」
この「常在戦場」はむろん、河井継之助が銘にしていた。だが、戦場になることを常に意識する、というのは、自分の居場所を戦場にするということではない。むしろ逆で、いつ戦場になってもいいように準備はしながら、ぎりぎりまで開戦の回避に努める、という精神を意味した。河井継之助は武装しながらも中立を志し、最後まで戦いを避けようとした。
しかし、新政府軍が無理やり侵攻してきたなら仕方ない。事実、長岡は戦場となってしまったが、その苦難があればこそ、「常在戦場」の精神はなおさら根づいたようだ。
そして山本五十六も、だれかから揮毫(きごう)を頼まれると、好んで「常在戦場」と書いたことで知られる。五十六は実父や祖父の精神はもちろん、継之助のそれも受け継いでいた。その意味で、長岡藩の門閥であった山本家を継ぐにふさわしかった。
実際、山本姓になった時点で、すでにアメリカの駐在武官も経験していた。それは「有用な学問はなんでも取り入れる」という「常在戦場」の開明精神につながる経験で、その後も大正8年(1919)からアメリカに駐在し、ハーバード大学に留学した。
昭和3年(1928)に帰国してからも『ナショナルジオグラフィック』誌を毎月購読していたという。
■一貫して日米開戦を避けた
五十六がこうして2度のアメリカ駐在を経験したのも、「常在戦場」の開明精神につながる。それだけに、昭和15年(1940)9月に結ばれた日独伊三国同盟には、最後まで反対した。最大の理由は、英米との関係悪化への懸念だった。その前年に連合艦隊司令長官に就任したのも、海軍大臣だった米内光政が、三国同盟賛成派や右翼の手で五十六が暗殺されるのを危惧して、一時的に海軍の中央から避難させるための措置だったという。
アメリカの力を知る五十六は、以後も一貫して、日米開戦を避ける方途を模索した。しかし、アメリカと戦争の無謀さを知り尽くしながらも、連合艦隊司令長官としてアメリカを仮想敵とした戦略を考案し、ハワイでの奇襲作戦を考えていたのも五十六だった。
昭和15年9月、近衛文麿首相から日米開戦の見通しに関して質問を受けたときは、「それは是非やれと言われれば、初めの半年や1年の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。しかしながら2年3年となれば全く確信はもてぬ」と、いま読めば至極真っ当に状況を読んで、開戦回避を求めている。
五十六は真珠湾の奇襲もミッドウェー海戦も、敵の艦隊を撃滅し、戦意を失わせ、講和に持ち込むためのものとして考案した。土台にある考え方は、新政府軍との戦闘を避けようとした河井継之助と重なる。だが、五十六の考え方を理解する人は少なかったようだ。

五十六が自分の考え方を、もっと周囲に言葉で説いていれば、あるいは日本が少しは変わっただろうか。

----------

香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
編集部おすすめ