東京・亀戸の家賃1万5000円、風呂なし・共同トイレの4畳半。この部屋から19年間、山田洋さん(60)は東大を受け続けた。
38歳でようやく進学したのは九州大学だった。19浪の末に手に入れた学歴に、どんな意味があったのか。9浪の末に早稲田大学に合格した教育ジャーナリストの濱井正吾さんが聞いた――。(前編)
■19年間、一度も動かなかった4畳半
山田洋さんは1966年4月8日、鹿児島県に生まれました。現役の時に地元の大学を受験しますが、大学受験に失敗し、1浪目から東京に出ます。鹿児島にも予備校はありましたが、兄がすでに東京に住んでいたこともあり、代々木ゼミナールに通うことを決めます。
上京後に暮らし始めたのが、東京・JR亀戸駅から徒歩10分ほどの場所にある4畳半の木造アパートでした。家賃は1万5000円。水道とガスはついていましたが、風呂はなく、トイレも共同でした。
「兄が近くにいれば、何かと助けてもらえるかなと思ったんです。物件は駅からそれほど遠くなく、家賃も安く、兄の家からも近かったので助かりました。アパートは2階建てで、1階は大家さんの駐車場でした。
なので1階には部屋はなく、2階に4畳半の部屋が4部屋あり、私の部屋は窓を開けても隣の家の壁でまったく日が入らないため、そのうちの一番安い部屋でした。ゴキブリはもちろん、ネズミも出るようなボロいアパートでした。でも、大家さんがいい方で、苦学生だということをわかってくれていたからか、あまり家賃も上がりませんでしたね」
この部屋から、山田さんは19年間、一度も動きませんでした。1985年に入居し、出たのは2004年。家賃は最終的に3万6000円まで上がりましたが、それでも2万円ほどの値上げにとどまりました。
窓を開けても、目に入るのは隣家の壁だけ。日当たりが悪く、昼間でも薄暗い部屋でしたが、昼寝をすることも多かった山田さんにとっては、「昼間でもぐっすり眠れた」とかえって好都合でした。
「クーラーはついてなくて、夏は死ぬほど暑かったです。風呂もないため、近くの銭湯に通いました。だから銭湯に行けない日は悲惨でしたね(笑)。それでも、住めば都でした」
■母は中卒、兄姉は高卒、それでも東大
山田さんは、母・兄・姉という家族構成のなかで生まれた末っ子でした。姉は15歳、兄は13歳、それぞれ年が離れています。
兄と姉の父親と、山田さんの父親は別人で、母は兄と姉の父親とは離婚し、その後、山田さんの父親と再婚していました。
「母は気丈な性格で、僕に『帰ってきてほしい』と言うことはありませんでした。たまに鹿児島に帰ることもありましたが、東京で一人暮らしができていたこともあり、そこに甘えていましたね。母は私にあまり弱みを見せたくない部分があったのだと思います」
85歳になるまで働き続けた山田さんの母親。彼女の存在のおかげで、山田さんは浪人生活を続けられたと語ります。
山田さんの家庭では、学歴への強いこだわりがあったわけではありません。母は中学卒業、兄と姉は高校卒業。それでも山田さんだけが、東京大学を目指し続けました。
■「東大生と名乗りたかっただけ」
しかしなぜ、山田さんは東京大学を志望したのでしょうか。旧帝国大学を志望するのであれば、京都大学や大阪大学を志望する人も多いなかで、山田さんが目指したのは東大一択でした。
「東大を目指すようになったきっかけと呼べるようなものは特にありませんが、一番は名前です。『僕は東大生です』と、名乗りたかっただけですね。
鹿児島に生まれて、分かりやすくいい大学というと、まず九州大学が思い浮かびます。でも私は、そこまでこだわりがありませんでした。ミーハーだったんです。東大の肩書だけが欲しかったんです」
私立大学は学費が出せないという家庭の事情もあり、山田さんが受けられたのは国公立大学のみ。19年間、アルバイトで生計を立てながらの受験生活でした。
「家庭の事情があるなら少しでも早く稼がなければ、と普通は思うはずですが。浪人を続けられたのは、なんとしてもいい大学に行きたいというモチベーションがあったからでした。浪人してから学力もそんなに伸びていないにもかかわらず、浪人した以上はそこそこ名のある大学に行きたいという見栄がありました」
筆者にも、高校時代のいじめをきっかけに「学歴さえあればいじめた人間を見返せる」と信じ、9年間受験勉強に打ち込んだ経験があります。同じ多浪でも、私の動機は「見返したい」という感情、山田さんの動機は「名乗りたい」という憧れでした。私も、山田さんも、動機は合理的ではなかったのですが、だからこそ長い歳月を勉強に費やせるのかもしれません。
■アルバイトが本業、勉強は副業だった
浪人生活の19年間、山田さんはアルバイト漬けの生活を送っていました。
「東京はアルバイトの種類も豊富ですし、時給も高かったので、ありとあらゆる興味のあるアルバイトをしていました。
それがとにかく楽しくて楽しくて、好きなことばかりしていました。お金を稼ぐための労働というより、楽しいことをやってお金をもらえる、という感覚でした」
亀戸の居酒屋「魚民」で5年、その前はデニーズで5年。ほかにもカラオケボックス、水商売のボーイ、工事現場での日雇い労働まで経験しました。山田さんにとって、接客の仕事は何よりの楽しみであり、いつしかアルバイトが本業、勉強のほうが副業のようになっていきました。
もちろん、アルバイト先で浪人生だと公言していた山田さんは、周囲から「大丈夫か」と心配する声がかかることも少なくありませんでした。
「すごくよく(大丈夫かと)言われたんですが、私は人の目を気にしないタイプなんです。よく言われましたけど、いい大学に入りたいという見栄がありましたから。お風呂に入って寝たら、忘れました」
■兄の「何のために」と、翌日の「俺の人生」
その19年という歳月のなかで、山田さんに最も辛辣な言葉を投げかけたのは、近くで山田さんの面倒を見る兄でした。
「兄は、弟のていたらくをどうしても我慢できなかったんだと思います。『なんのためにお前は何年も浪人を続けてるんだ』とよく言われました。叱られた直後は落ち込むのですが、次の日になると、『俺の人生なんだし』と楽観的になるんです。アルバイトでそれなりに稼げていたこともあり、『早く就職しなくては』という焦りに追い立てられることはありませんでした」
19浪を経て、ようやく大学に受かったことを兄に報告したら、「やっとか」くらいの塩対応ではあったそうですが、内心は安心していたのではないでしょうか。

■「20浪も30浪も変わらない」と笑える危うさ
19年間、山田さんの成績は少しずつ伸びていきました。模試では東京大学がC判定まで到達し、最後の年がキャリアハイだったといいます。
「受験勉強に根を詰めてはいませんでした。むしろ1年死ぬ気でやったら、伸びしろがなくなってしまうのではないかと思います。毎年少しずつやっていたから、逆に伸びしろが残っていたのかもしれません」
2浪目以降は東京大学以外を受けることはほとんどなく、「東大対策をしていれば、他の大学はクリアしているだろう」という甘い考えもあったといいます。
最後の年に一度だけ、九州大学の後期日程を受けましたが、そのための対策は一切していなかったそうです。
そんな山田さんに「もし九州大学に合格していなかったら浪人を続けましたか」と聞くと「体が元気だったら、続けていたかもしれない」と答えました。
「19浪している時点で、19浪も20浪も大きくは変わらないと思います。もっといえば、20浪も30浪も変わらないはずです」
そう笑って話す山田さんの言葉には、ある種の危うさも透けて見えますが、山田さん自身が持つ、人間としての強さが宿っていると感じました。
筆者自身は、受験勉強を9年続けましたが、伸びしろを翌年に残すという発想自体がなく、切羽詰まっていました。仕事で受験費用を稼いだ最後の2年半は、1日12~15時間の勉強を自分に課していたので、精神的にも常にギリギリの状態でした。
ですが山田さんの19年は、伸びしろを毎年少しずつ使い切らずに残していく、いわば“長期戦”の戦い方でした。
19年間「来年がある」と思い続けられる心の強さは、私にはなかったものだと感じます。
■20回目の受験は、東大ではなかった
最終的に、山田さんは東京大学ではなく、九州大学に後期日程で合格しました。合格した時点でも「絶対に東大に行こう」という気持ちは変わっていなかったといいます。しかし、当時80歳になっていた母(1924年生まれ)が病気がちになっていたこと、東京からでは簡単に帰省できないことが、山田さんの背中を押しました。
「九州大学なら、母の面倒も見られるし、大学にも通える。それでいいかと思ったんです」
待ちに待った合格の瞬間は、喜びはほとんどなく、呆気ないものだったそうです。
「やっと一区切りついたかなという感じでした。自分が望む旧帝大で、名前のある大学には入れたなという感覚です」
■浪人は、続けるより終わらせるほうが難しい
19年間、山田さんを縛り続けてきたのは、東京大学という名前そのものでした。だが最後にその足を止めたのは、母親の存在であり、九州大学でした。
19浪という長い時間のなかで山田さんが証明したのは、合格する力ではなく、やめる決断ができる力だったのかもしれません。浪人は、続けることよりも終わらせることのほうが難しいのです。
2004年、山田さんは38歳で大学1年生になりました。周囲はほとんどが未成年の中、九州大学の男子寮に入り、1年生から4年生まで過ごしました。
38歳の新入生が入ることは、寮内ですでに噂になっていたといいます。
「最上級生から挨拶をされたりして、すごく気を遣っていただきました。自分より年下の人に気を遣わせてしまうのが申し訳なかったですけど、よくしてくださったので、居心地はすごく良かったです」
入学前には不安もありましたが、「予想していたほどではなかった」と振り返ります。
■本当は「東大生です」と言いたかった
こうして山田さんは、38歳にして「九大生」と名乗れる身分を手に入れました。では、19年間追い求めた「東大生」と名乗りたい気持ちには、区切りがついたのでしょうか。
「本当は『東大生です』と言いたかったんです。その気持ちはやっぱりありました。ただ、周りの人は私を九大生として見てくれます。『九大なんだ、すごいですね』と言われることもあって、それは自分の虚栄心を少し満たしてくれたかなと思います」
大学の名前が持つ力を、山田さんは思わぬ場面で実感したこともあります。地元・鹿児島でのことです。
「近所に、私のことを変なおじさんだと思って見ていた方がいたんです。その方が、私が過去にインタビューを受けた記事をたまたま読んで、九大を出ていると知った途端、急に態度が変わりました。田舎では特に、そういうところが評価の基準になりやすいのかもしれません」
回覧板を持ってくる近所の人の目の色さえ変えてしまう。19年かけて手に入れた学歴は、山田さんが自分から名乗らずとも、確かに効力を持っていました。
■19浪の末に手に入れたもの
もっとも、山田さん自身は、学歴を人生の物差しにしているわけではありません。大学の同級生たちは、山田さんより19歳ほど年下。卒業後は名の知れた企業へ次々と就職していきましたが、それを羨んだことは一度もないといいます。
「行き当たりばったりの人生で、フーテンの寅さんみたいな生き方だと人に言われることもあります。事実、51歳のときには勤めていた塾を辞め、1年間のカナダ留学に出ています。行き当たりばったりは、還暦を迎えたいまも変わりません。若いうちに大学へ行って、結婚して、子どももいる友人はたくさんいますが、羨ましいと思ったことは一切ないんです。私はいま幸せですし、何をもって幸せの基準にするかは、人それぞれですから」
東大の名前への強いこだわりと、学歴が幸せを決めるわけではないという感覚。一見矛盾する二つが、山田さんの中には同居しています。その点を尋ねると、山田さんはあっさりと認めました。
「私自身も、そこは矛盾しているなと思います。ただ、東大は私自身のこだわりだったんです」
「東大生」と名乗りたいという憧れは憧れとして持ち続け、幸せはそれとは別の物差しで測る。多くの人がひとつに混ぜてしまうこの二つを、山田さんは19年のあいだに切り分けていました。
ミーハーな憧れから始まった浪人生活の果てに残ったのは、他人の物差しに揺らがない、自分だけの基準でした。東大という名前は、いまも山田さんの中で憧れのまま生きています。ただ、その名前で自分の人生を採点することを、山田さんはとうにやめていたのです。

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濱井 正吾(はまい・しょうご)

教育ジャーナリスト

兵庫県出身、1990年11月11日生まれ。「9浪はまい」のニックネームでTwitterやYouTube、テレビ出演などを行っている。大阪産業大学経済学部経済学科に入学後、龍谷大学経済学部現代経済学科に編入学し、卒業。高校時代にいじめを受けたことから、いじめっ子を社会的に偉くなって見返したいと思い、在学中から仮面浪人として受験勉強を4年間続ける。大学卒業後、証券会社に契約社員として就職したが10日で自主退職、同月中に配置薬会社に再就職。昼は会社、夜は予備校という生活に。同社退職後は受験勉強に専念し、9浪で早稲田大学に一般受験で合格し、2018年に教育学部国語国文学科入学、2022年卒業。現在はカルペ・ディエム所属。

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(教育ジャーナリスト 濱井 正吾)
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