ロッキード事件後、表舞台から姿を消した田中角栄。その「最後の1000日」に密着し、2万枚のフィルムを残したのが報道写真家・山本皓一さんだ。
角栄語録 愛と理』を書いたジャーナリストの欠端大林さんは「『撮りたい』という本能を捨て、気配すら消して捉えた素顔から、元宰相の生々しい実像が立ち現れてくる」という――。(第2回/全4回)
■「闇将軍」に3年密着した報道写真家
戦後最大の疑獄事件と呼ばれたロッキード事件。1976(昭和51)年に逮捕・起訴された田中角栄元首相はその後、政界の表舞台から身を隠し、政界に隠然たる影響力を及ぼす存在となった。
そんな「闇将軍」時代の角栄を、足かけ3年にわたり密着取材した報道写真家がいる。安倍晋三元首相の遺影(国会における追悼演説時)の撮影者としても知られる山本皓一氏(83)である。
「角さんが僕に教えてくれたことは、他者と向き合うときの心構えです」
山本氏は、当時を振り返って次のように証言する。
「被写体となる人物に接するとき、負の側面だけを切り取ろうとしてシャッターを切っても、それは本当の記録になりえない。人間とは善悪を同時に抱える矛盾に満ちた存在であり、一方向からのみ評価を下すことがあってはならない。人間のすべてを見るという人生の要諦を、僕は田中角栄から学びました」
■リスクを負った「決断」
1983年初頭、ロッキード事件の一審判決を控えていた角栄は、あらゆるメディアから「巨悪」と指弾される存在だった。
雑誌ジャーナリズムの金字塔と呼ばれた立花隆氏(故人)による金脈追及レポートをはじめ、「金権政治」の全貌に迫る報道が連日繰り広げられるなか、被告人となっていた角栄は貝のように口を閉ざしていた。
「田中を批判せざる者、ジャーナリストにあらず」
――そうした状況のなかで、山本氏が「角栄密着取材」のリスクを負う決断をしたのはなぜだったのか。
■「オヤジは写真が嫌いだ。
取材は難しいぞ」
「誰も、角栄本人を取材できていない。そう思っていました。確かに、大がかりな調査報道は角栄政治の本質に迫っていたかもしれない。しかし、本人への取材が一切ないのはどうしても疑問が残りました」
そう語る山本氏は、次のように続ける。
「僕はカメラマンで、ペンで勝負する記者のように周辺取材や後から聞いた話を成果にすることはできない。ジャーナリスト失格の烙印を押されようとも、角さんの懐(ふところ)に入り、本人を正面から撮影することのほうが大切だと考えたのです」
山本氏は角栄の秘書・早坂茂三氏に撮影取材を申し入れた。予想通り、早坂は渋い表情を作って見せた。
「オヤジは写真が嫌いだ。取材は難しいぞ」

「そこを何とかお願いします」
■秘書・早坂茂三氏の導き
早川氏は続ける。
「まずは目白に通うことだ。だがいきなり写真は撮るな。陳情客のクツを揃えたり、テーブルを並べたり、雑用の真似事をするんだ」

「やります」

「そうしたらオヤジはそのうち必ず聞いてくる。
“あいつは誰だ。何してるんだ”と」

「するとどうなりますか」

「……皆まで聞くな。オヤジは情が厚い。大丈夫だ」
■「いまは丁稚奉公の身分です」
新聞記者出身の早坂は、取材者の心情を熟知している人物だった。あるとき山本氏が目白の私邸で言われた通り雑用をこなしていたとき、いぶかしげな表情を浮かべた角栄が、早坂に小声で問いかけた。
「オイ、最近よくいるあいつは誰だ」
早坂がこともなげに答えた。
「ああ、彼は一介のカメラマンです。オヤジの写真がどうしても撮りたくて来ているんです。ただし、いまは丁稚奉公の身分です」

「カメラマンだと?」
角栄が初めて山本氏を認識した瞬間だった。
■カメラマンの「野心」を嫌悪
その後も目白に通い続けた山本氏に、あるとき待望の一声がかかった。
「オオイ、写真屋!」
角栄が山本氏を手招きした。その日は、地元の新潟からたくさんの支援者たちが集まっていた。

「ちょっと撮ってくれ」
ついに撮影できる――山本氏が喜び勇んだ次の瞬間、角栄はダミ声でまくし立てた。
「おまえのカメラで撮るんじゃない! さあ皆さん、お手持ちのカメラを彼に渡してください。記念写真を撮りましょう」
山本氏が回想する。
「支持者たちが持ってきた小型カメラを向けると、角さんは満面の笑みで撮影に応じるのです。僕はそのとき、田中角栄という人は決して写真嫌いなのではなく、カメラマンの野心を嫌悪しているということを理解したのです」

「それ以降、僕は“撮りたい”という気持ちを封印し、空気になろうと思いました。角さんに一切の警戒心を持たれない空気のような存在になったとき、初めて田中角栄の写真が撮れるようになる。そう悟ったのです」
■「くれぐれも邪魔にならないように気をつけろ」
山本氏はその後も地道に目白に通い、雑用をこなし、時には記念写真係も買って出た。
3カ月が経過したある日、いつものように山本氏が朝からやってくる陳情客の交通整理をしていたとき、遠くからその姿をじっと見つめる角栄の姿があった。
そこへ背後から早坂が忍び寄った。
「オヤジ、もう三月(みつき)になりますよ」
角栄が返した。
「……まあ、いいだろう。ただし、くれぐれも言っとけよ。
邪魔にならないように気をつけろと」
目白の私邸は、角栄や家族が暮らす母屋と、仕事をこなす事務所、陳情客や取材記者、派閥議員が集まる大広間の「ビジネスエリア」に分かれていた。
山本氏はこの日から母屋を除く部分での撮影が「解禁」となり、角栄にレンズを向けることが許されるようになった。
■「空気のような存在」から「山ちゃん」に
「すべては早坂さんのおかげです。僕が組織に所属しないフリーのカメラマンだったことも幸いした。特定のメディアに所属するカメラマンだったら、ロッキード事件の報道でマスコミ不信を強めていた角さんがOKすることはなかったでしょう」(山本氏)
目白では、あえてプロ用の大きなカメラを持たず、コンパクトカメラを使用した。喫煙中の角栄は、山本氏が近づくと後ろを向き、タバコを隠した。それ以来、山本氏は角栄のリラックスする時間を奪わないように心がけた。
「撮りたい」というカメラマンの本能をあえて封印し、空気のような存在になる――その徹底した抑制が、角栄の心を開かせた。
当初、角栄から「写真屋」「ピカッと光るやつ」と呼ばれていた山本氏はいつしか「山本君」と呼ばれるようになり、ついに「山ちゃん」まで格上げされた。
半年後には「都心の秘境」と呼ばれた母屋でも撮影が許されるようになり、足かけ3年にわたる密着取材が本格的にスタートしたのである。
■1枚の写真で人間を理解することはできない…
1983(昭和58)年10月12日、一審判決の日。角栄に言い渡されたのは「懲役4年、追徴金5億円」という実刑判決だった。

このとき山本氏は多くのメディアから角栄の近影を提供するよう求められたが、写真は一切出さなかった。
「たった1枚の写真で田中角栄という人間を理解することはできない。出すときには全部を見てもらいたい、そういう思いでした」
1985(昭和60)年1月、山本氏は3年間の取材を1冊の写真集にまとめ出版した。2万点に及んだ写真のなかから厳選した『田中角栄全記録』(集英社)である。そこにはどんなジャーナリストも見たことのない、心の扉を開いた角栄の素顔があふれていた。
残酷な運命に直面するのはその直後である。
「写真集が完成した当時、僕はシベリアを取材していました。帰国後、本人のもとに直接持参しようと考えていた矢先、角さんは脳梗塞に倒れてしまいました。そして、その後は一切、会うこともできなくなってしまったのです」
■心外だった「ある質問」
角栄本人にかわり、山本氏を目白の私邸に呼び出したのは娘婿の田中直紀・衆議院議員だった。直紀氏は山本氏にこう質問した。
「山本さん、今回のオヤジの写真集で、早坂にはいくら支払ったんですか」
早坂は、角栄の治療方針をめぐり田中家と対立し、事務所から解雇を言い渡されていた。山本氏は答えた。

「早坂さんにはずっとお世話になり感謝しています。ただし、お金は1円たりとも払っていませんよ。僕も角さんからお金は受け取っていません」
当時のやりとりを山本氏が回想する。
「当時の眞紀子さんは、ある種の人間不信に陥っていたと思います。父に近づく人間は、秘書を含めて、すべてお金目当て、何らかの利益目当てなのではないかと……そういう人間がいたかもしれませんが、長年仕えた早坂さんをそのような目で見るのは間違っていると思いました」
■セスナ機から撮ったスクープ写真
角栄が倒れて数カ月が過ぎたころ。山本氏は「上空から国会議事堂を撮影する」という雑誌の企画でセスナ機に乗り、空撮の仕事に挑んだ。
そのとき、山本氏とは懇意にしていたパイロットがこんなことを言った。
「目白はすぐそこだ。寄り道していくかい?」
セスナで移動すれば、永田町から目白はわずか3分だ。通い慣れた「目白御殿」を上空から眺めたところ、偶然にも小さな車イスが母屋の前で動いているのが確認できた。山本氏が反射的にシャッターを切ると、現像したフィルムには角栄の姿がはっきりととらえられていた。
当時、角栄の病状を探ろうとする報道合戦が繰り広げられており、角栄の近影ともなれば大スクープである。
「セスナのパイロットから話を聞きつけた大手出版社の写真週刊誌から、“車イスの角栄”の写真を300万円で買いたいと持ち掛けられました。フリーのカメラマンにとっては大きな金額で、心が揺らぎそうになりましたが、その話には断りを入れました」
■人生にはお金や名誉より大事なことがある
このとき、山本氏が上空からの撮影に成功したらしいという噂は瞬く間に業界に伝わった。1986(昭和61)年、毎日新聞がやはり上空から狙った「車イスの角栄」写真の撮影に成功。この写真は新聞協会賞を受賞している。
角栄の死後、初めて「上空からの写真」を公開した山本氏が語る。
「人生にはお金や名声よりも大事なことがある。田中角栄が多くの人に慕われ、いまなお日本人に愛されているのは、カネを配ったからではなく、人間愛に満ちた人だったからです。これから田中角栄を論じる人には、さまざまな視点から角さんという人間を見てもらいたい。僕の写真がその手助けになれば幸いです」
結果的に、ロッキード事件以降の角栄をきちんと撮影し記録に残したのは山本氏だけだった。「人間・田中角栄」の実像を伝える2万点のフィルムは、光り輝く価値をいまも保ち続けている。

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欠端 大林(かけはた・ひろき)

ジャーナリスト

1971年千葉県生まれ。筑波大学卒業後、1998年に宝島社入社。『宝島』『別冊宝島』編集部で広くノンフィクションを担当。2021年に独立し、戦後史をテーマに取材を続ける。山本皓一氏との出会いを機に、田中角栄の豪快な生き方と人間的魅力に着目。85万部のベストセラーとなった『田中角栄100の言葉』をはじめ、田中角栄関連の書籍を多数企画・編集し、現代における「角栄再評価」のムーブメントを牽引している。

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(ジャーナリスト 欠端 大林)
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