【連載 私の30代 第6回】30代は「正解なき決断」の連続だ。丸紅の大本晶之社長(56)は36歳のときに外資コンサルのマッキンゼーに転職し、1年半で再び丸紅に戻ったという異色のキャリアを持つ。
当時の日本企業で「出戻り」は珍しかったが、あえてこの決断を下した背景には何があったのか。ライターの堀尾大悟さんが取材した――。
■丸紅・大本社長の「異色キャリア」
2026年2月、総合商社・丸紅の時価総額が10兆円を超えた。2025年4月時点での約4兆円から1年足らずで2.5倍に押し上げ、中期経営戦略で掲げた「2030年度までに10兆円超」という目標を4年以上も前倒しで達成した。現在では「時価総額で世界100位圏内」という次のゴールを掲げている。
同社の経営の指揮を執るのが、2025年4月に55歳で社長に就任した大本晶之氏だ。5大商社で最年少のトップは、異例の経歴の持ち主でもある。36歳で一度会社を辞めて戦略コンサルティングファームのマッキンゼー・アンド・カンパニーに転じ、わずか1年半で古巣に戻った。総合商社で“出戻り”の社長は例がない。
若き日の多くを過ごした電力事業や米国留学で培われた原点とは何か。なぜ、一度は丸紅を飛び出し、そして2年も経たずに戻ったのか――。大本社長の起伏にとんだ30代に迫る。


――大本社長は1992年の入社以来、重電機本部(現・電力・インフラサービス部門)で若き日のキャリアを歩んできました。30歳を迎えたときのことを振り返ってもらえますか。
30歳の頃は、トルコのイスタンブールにいました。1996年から5年間、日英トルコ合弁のガス火力発電のIPP(独立系発電事業)に携わっていました。
それまでの丸紅の電力ビジネスといえば、発電所の建設請負が中心でした。作り終え、お客様に引き渡した時点で仕事が完了する、いわば「モノ売り」です。
■30代のはじまりはトルコで迎えた
IPPはその先が本番で、自分たちが出資して発電所を保有し、長期にわたって電気を売り続けることで投資を回収していく。発電事業をまるごと経営するわけです。
いわば、「モノ売り」から「投資」へ舵を切った、その1号案件が、このトルコのIPPでした。27歳で駐在を始めて、30歳の頃はちょうど事業が動き出したあたりです。
日英トルコの3社合弁で、日本人は私一人。イギリス人の上司とトルコ人の社長にレポートしながら、建設をマネージし、ガスを買い、ファイナンスを立て、電力を売る……それらを全部任せてもらいました。
辞典のような分厚い契約書を読み込みながら、トルコ初のIPP売電決済システムの構築にも挑みました。
――この時期の駐在経験で得たものは何ですか。
ビジネスでいうと、IPPの前例がないトルコで先行者利益が取れたので、会社に大きな収益貢献を果たすことができたと自負しています。
加えて個人でいうと、この大型IPP事業という社内でも例のないプロジェクトの事業運営を、入社5年目から任せてもらえた経験が本当に大きかったですね。開発から建設、操業まで、一つの事業のライフサイクルを全部やり通すことができた。このIPPというドメイン(領域)に関しては「自分が丸紅の中でいちばん知っている」という自信が培われました。
■ハーバード留学で自信を失ったが…
――その後、32歳でハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に留学します。
留学に興味を持ったきっかけは、20代の頃に中国で一緒に仕事をしていた先輩です。MIT(マサチューセッツ工科大学)でMBA(経営学修士)を取ったものすごく優秀な方で、「どうしたらこの人を追い越せるんだろう」と仰ぎ見るような存在だった。
その先輩が「HBSだけは別格だ」と言うんです。「資本主義の陸軍士官学校」と呼ばれるほど厳しいプログラムを組んでいる、と。尊敬する先輩が言うのなら、そのいちばん厳しいところへ行ってみたいと興味がわきました。

――実際に入ってみて、いかがでしたか。
想像した以上に厳しかったですね。周りはアイビーリーグ出身の優秀な人たちばかり。彼らと毎日のように競争させられます。
入念に準備して「今日こそは絶対発言するぞ」と授業に臨むのですが、手を挙げてもぜんぜん当ててもらえない。“空振り”が続くと気持ちがものすごく萎えるんです。成績が下位の10%は自動的にキックアウト(退学)される仕組みになっているので、毎日がプレッシャーで……。一時期は完全に自信を失いました。
■「フットノート(脚注)・マサ」と呼ばれ
立て直すきっかけをくれたのは、別の商社から派遣されていた先輩から「ここはアメリカだ。今日の失敗はもう過去のこと、明日の準備だけに集中することだ」と伝授してもらったこと。その言葉で「終わったことは仕方ない」と前を向くことができました。そこからは次の授業の準備だけに集中して、毎朝7時から夜2時まで一日も休まずに机に向かっていました。

1回の授業で当てられるのは、90人ほどの教室で30人ほど。つまり3回に1回しか回ってきません。その頻度を増やすには「あいつは議論が行き詰まったときに当てればいつでもファクトを出してくれる」と教授に印象づけること。そのために、教材の資料は脚注まですべて読み込み、頭に入れました。仲間からは「フットノート(脚注)・マサ」とからかい半分の“称号”をもらいましたが、それは平凡な能力しかない私なりの戦い方でもあったんです。
その結果、ベーカー・スカラー(卒業クラスの成績上位5%に与えられる最高位の学業表彰)には届かなかったけど、卒業式ではディスティンクション(優等)の学位を学長から手渡してもらえた。平凡な日本人でも、正しい考え方と規律さえ揃えば米国のエリートと渡り合える。そんな自信と、「明日だけに投資する」というマインドセットを得られた2年間でしたね。
■3000億円の大型案件で眠れぬ夜が続いた
――HBSを卒業した後はUAE(アラブ首長国連邦)アブダビに渡り、IWPP(※)の開発折衝を担当します。
※IWPP(Independent Water and Power Producer):発電設備と海水淡水化設備(造水設備)を一体として建設・運営し、電力と水を組み合わせて供給・販売する独立系発電・造水事業
総事業費は約3000億円。丸紅が初の事業開発コンソーシアム(共同事業体)のリーダーとなる、その意味でも大型の案件でした。
当時の丸紅は経営が非常に苦しい状況で、新規案件の入札では失注が続いていました。
「この入札で負ければ、部ごと取り潰しだ」という覚悟で、背水の陣で臨みました。
「敗因」を分析するために過去の入札結果をすべて洗い出してみると、応札額が欧州の競合と当社との間に5%~10%の差がある。でも、なぜ彼らがその水準の価格を出せるのかまではどうしても解明できません。それでも、この差を超えなければ彼らに勝つことはできない。
そこで、入札時の表面価格は相手と同じ水準に置き、その代わりに付帯条件を付ける戦略をとりました。まずは交渉の権利を勝ち取ろう、というわけです。
それが幸い機能して一番札を取ったのですが、そこからは厳しい交渉の連続でした。交渉が進むにつれて、付帯条件として交渉余地を残しておいた価格や条件を個別に議論していく。ここにかなり神経をすり減らしました。約1年間、中東とロンドンを行き来して張り付いていましたが、眠れぬ夜が続きましたね。
■ギリギリの交渉でも「絶対に嘘をつかない」
――最終的にどう着地したのでしょうか。
幸運にも恵まれて、なんとか合意にこぎつけました。
その後に、印象的なことがありました。
ギリギリの交渉が続く中で、一貫して守り続けていたのは「絶対に嘘は言わない」というポリシーです。価格の調整過程も全部トランスペアレント(透明)にして、一つひとつ理由を説明していました。
契約の最終調整の局面でのことです。交渉の席上で相手が「丸紅は終始、正直な交渉をした。その誠実さに敬意を示してプレゼントしたい」と、相手方の取り分とされていた約1300万米ドル(当時のレートで約14億~15億円)の受け取りを放棄したんです。「あなたがたのがんばりと、正直さに心を打たれた。これからもがんばってくれ」と。
嬉しかったですね。苦しい中でも「正しいこと」を貫けば、そこへの信頼が合理性や利害を超えて評価される――そのことを心から実感した瞬間でした。
■外資コンサルで20代の若手から「指導」
――順調にキャリアを歩む中、36歳で丸紅を退社。マッキンゼーに転じます。これにはどのような心境の変化があったのですか。
先にことわっておくと、会社に不満があったわけではありません。きっかけは、留学したHBSにありました。
クラスには舌を巻くような優秀な人たちがゴロゴロいました。自分では到底思いつかないアプローチで問題の整理をして、議論を一定の方向へ持っていく。その彼らの多くがマッキンゼー出身だったんです。私には「世界の最高峰」のような組織に見えた。人生、一度はその高みを目指してやってみようという思いが強かったんです。
ところが入ってみると、ここも想像以上に厳しかった。マッキンゼーでは問題解決のプロセスやフレームワークが標準化されていて、新卒で入社した若い社員は当たり前のように使いこなしている。中途で入った30代の自分には到底かないません。
当時、ペアを組んでいた20代半ばの同僚に「大本さん、これはこうするんですよ」と、意味合いの出し方から分析の出し方まで指導をされていました。
■1年半で「出戻り」した本当の理由
――そういう局面で、謙虚に学ぶ姿勢があるかどうかは、人によって分かれると思います。大本社長はなぜそれができたのでしょうか。
自分で手を挙げて移った以上、謙虚に「自分の能力を上げに行こう」と決めていたんです。世の中には知らないことがたくさんあって、自分の人生の経験で知っている範囲なんてたかが知れている。その認識が、自分の根底にはずっとありました。だから、自分の過去の成功体験もプライドも一回捨てて、純粋に新しい環境に向き合い、適応しようとしていました。
――ところが一転、1年半後には38歳で再び丸紅に戻ります。当時の日本の大企業で“出戻り”は珍しかったと思いますが、この決断の背景には何があったのですか。
あるとき、クライアントである日系の素材メーカーの社長と中東を視察で回っていました。その道中で、同行していた若手幹部クラスの社員が「こんな中東なんかに当社が出る必要があるんですか?」と社長に“反論”しているのをたまたま耳にしました。マーケットの不確実性が高いとか、そもそも需要がないのではないか、とか。一見もっともらしい理由を並べています。
すると、その社長がこう切り返したんです。
「お前は何もわかっとらん。事業っちゅうのはな、多少の浮き沈みはあるけど、中長期的に見て辛抱していけば成功するもんなんや」
その言葉が、なぜか自分の胸に刺さったんです。
■結局は「辛抱なく」外に出たのではないか
――ご自身に向けられた言葉ではありませんよね。それがなぜ……。
自分でもうまく言葉にできないんです。でも、その「事業は辛抱や」という一言が、自分に言われているように感じてドキッとした。
丸紅には海外留学もさせてもらったし、若いうちにトルコやUAEの大型案件も任せてもらった。会社にそれだけの成長機会を与えてもらいながら、結局は「辛抱なく」外に出たのではないか、と。そう言われている気がしたんです。その瞬間に「丸紅に戻ろう」と思いました。
そこには、もう一つの理由があります。一度外に出たことで、丸紅という会社の魅力や強さに気づくことができた。
マッキンゼーの問題解決の思考法の一つに「分析とは比較だ」というものがあります。世界中のベストプラクティス(最善の方法)とクライアントの事業を比較し、その差分から意味合いを見出す。でも、よく考えると丸紅がこれまで成功してきたビジネスも、実は同じ発想のもとに築き上げていたんです。その価値創出のプロセスは、「世界一のコンサルファーム」となんら変わらない。
しいて違いを挙げるなら、丸紅は自分で「実践」するところです。コンサルの価値創出の思考法はすばらしいけど、その後の交渉やオペレーションまでは踏み込まない。でも、丸紅はそこまでやりきる。その「一線を超える」力は、マッキンゼーにはない強みだと再確認できました。
■「周りにどう見られるか」は関係ない
――1年半という短期間での復帰には、否定的な声もあったのではないですか。
「1年半で戻ったのは、通用しなかったからだろう」と思われた方はたくさんいると思います。でも、「周りにどう見られているか」は、自分の成長には何の関係もありません。
大事なのは、自分が最も成長できる場所はどこか。そして、最もインパクトを与えられる場所はどこか。その2つの判断軸で考え、導き出した答えが、丸紅だった、ということです。
世界中を見て、いちばんいいものを持ってくるという丸紅の感覚は、マッキンゼーの戦い方と重なります。だからこそ、古巣に戻ることで、マッキンゼーで学んできたことが活かせて、自分の成長にもつながる、と思ったんです。
事実、マッキンゼーで鍛えられた構造化・概念化のスキルは、丸紅に戻ってから明確に武器となりました。商社というものは事業の数が膨大ですから、「全体で見てどうなのか」を語らなければいけない場面が絶えずある。全体を構造化し、一段抽象度を上げて人に伝えるスキルはものすごく重宝しました。その意味で、自分をパワーアップさせてから戻ってくることができた、と思っています。
■一流に勝つための「たった1つの方法」
――お話を伺っていると、「自分が最も成長できる場所」を選ぶというキャリアの軸が一貫していると感じます。それはどこで培われたのでしょうか。
原点は大学(早稲田大学)の軟式テニス部ですね。当時はインターハイ優勝級のプレーヤーが推薦で入ってきて、一般入試の自分とはまるでレベルが違う。ところが3年、4年とまじめに努力していると、だんだん差が詰まってきて、最後はレギュラーを勝ち取ることができた。そんな経験をさせてもらいました。平凡な人間でも一流と戦えるようになるんだ、と。
だから、HBSでもマッキンゼーでも、その後のものの考え方はすべて一緒です。上を見れば、自分とのギャップが見える。それを「埋められるギャップ」だと思えるか。自分にそのポテンシャルがあると信じられるか。その違いだけなんですね。
――「自分のポテンシャルを信じろ」と言われても、難しいと感じる人は多いのではないでしょうか。
そういうときに、周りが信じてあげて、チャンスを与える。そして、結果を出させ、自信をつけさせる。そういう経験が必要だと思います。
若い頃の私が、まさにそうでした。社運を左右すると言ってもいいトルコのIPPの事業運営を、入社5年目の私に任せるかどうか、という話になった。そのとき、私の直属の課長は部長に対して「大本にはまだ無理です」と言いました。私をよくわかっているからこそ、そう進言したんです。それを聞いている私も、心の中では「たしかに自分には無理だろうな」と思っていた。
■「大本に任せてみよう」その一言が人生を変えた
ところが、それを聞いた部長がこう言ったんです。
「どうして? 今までの働きぶりを見たら、十分にポテンシャルあるじゃん。だから任せてみようよ」
涙が出るほど嬉しかったですね。この人は自分を信じてくれたんだ、と。あの瞬間が、私の人生を変えたといっても過言ではありません。
部長が自分のポテンシャルに賭けてくれたのだから、それをなんとしても証明しなければいけない――もう気合いが入りまくりで、毎日、朝の4時まで仕事に没頭していました。
――最後に、今の若手にメッセージを伝えるとしたら。
私自身、20代から30代前半を過ごしたトルコでは、本当にすばらしい経験をさせてもらいました。でも、もしその成功の延長線上で「自分が次に行けるレベルはこのあたりだろう」と考えていたら、30代でHBSに行くことも、アブダビの案件も、マッキンゼーへの転職も選んでいなかったと思います。
しんどくても、少し背伸びをしなければ届かないところをずっと目指してきた。だから、20代の自分に見えていた延長線よりは、ちょっとだけ高いところまで来られた。そんな感覚があります。もちろん、失敗もたくさんしていますけどね。
ですから、過去がどうであろうと自分のポテンシャルを信じて、過去の延長線上ではなく一段高いところを目指してほしい。その心の持ちようで人生は変わると思います。
まぁ、こんなことを言うと「熱すぎる」「昭和だ」と思われるので、注意はするようにしているんですけどね。

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大本 晶之(おおもと・まさゆき)

丸紅社長

1969年生まれ。愛媛県出身。1992年早稲田大学商学部卒業後、丸紅入社。2004年米ハーバード大学経営大学院で経営学修士(MBA)取得。06年マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。07年丸紅再入社。24年常務執行役員。25年4月から現職。

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堀尾 大悟(ほりお・だいご)

ライター

慶應義塾大学卒。埼玉県庁、民間企業を経て2020年より会社員兼業ライターとして活動を開始。2023年に独立し、ビジネスメディアを中心に執筆。ブックライターとしてもこれまで30冊以上の書籍を担当している。

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(丸紅社長 大本 晶之、ライター 堀尾 大悟)
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