越前・北庄49万石を領した柴田勝家は、羽柴秀吉との戦いに敗れ、妻のお市とともに最期を迎えた。柴田家は滅亡したかに見えたが、その家名は途絶えていなかった。
東京・三鷹には柴田家の墓が今も残されている。子孫はいかにして生き延びたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、秀吉に敗れた柴田家のその後をたどる――。
■柴田勝家の一族は生き延びていた
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第33回「北庄城の別れ」では、ついに勝家(山口馬木也)は敗走し、市(宮﨑あおい)の待つ北庄城に籠城することに。
秀吉(池松壮亮)への降伏を進言する小一郎(仲野太賀)だが、一蹴される。こうして北庄城(現在の福井市)は炎上。柴田勝家は滅びた。
はい、ここで大河ドラマは終わる。滅亡、以上。……で終わってはいない。いや、柴田勝家個人は終わったが、柴田家そのものは終わっていないのだ。

伝承では、勝家が派手な切腹をして死んだとされているし、多くの者が殉死したとされているから「なるほど、一族郎党みんな滅びたんだな」と誤解しがちである。
でも、やっぱり生き延びている一族はいた。それも、ずっと隠れて息を潜めて暮らしていたのではない。家康に召し出された一族が、大名ばりの立派な墓を建立できるくらいには豊かな人生を送っていたのである。
勝家には、出自の怪しい庶子のほか、養子がやたら多かった。戦国武将、跡継ぎ問題は結局のところ数で殴るしかない、というのがよく分かる話である。
■秀吉に抵抗もせず、城を明け渡した「勝豊」
中でも一番名前が知られているのが、姉の子・勝豊だ。養子の中でもエース格だったらしく、清須会議後には勝家が手に入れたばかりの要衝・長浜城を、いきなり任されている。城持ちである。破格の待遇と言っていい。
ところが、である。
この恩義、まったく続かなかった。
勝家と秀吉の対立が表面化した1582年12月、秀吉に長浜城を囲まれると、勝豊はろくに抵抗もせず、あっさり城を明け渡した。その後は「病気療養中」を理由に京都に滞在。一方で秀吉軍には家臣を参戦させており、完全に勝家に弓をひいている。一時は、勝家の跡継ぎ候補だったにも関わらず、完全に裏切ったわけである。
裏切りの理由は諸説あるが、有力なのは「嫡子扱いだったのに、勝家に実子が生まれて急に扱いが軽くなった」というもの。ただし、これも確定した話ではない。
ただこれだけ聞くと仮病を使って逃げたように見えるが、実はそうではない。なんと勝豊は、1583年4月の賤ヶ岳の戦いを前に病死しているのである(死去は4月16日とされるから、21日の勝家敗走の数日前)。
跡継ぎとも見込まれたにも関わらず、いち早く裏切り。おまけに裏切りの報酬を得る前に病死とは、あまりにも悲惨だ。
■秀吉配下の武将に育てられた「勝重」
正直、ホントに庶子なのかも史料が曖昧だったり、パッとしない者が多い中で、江戸時代まで歴史に名を刻んでいるのが勝重である。
勝重は、勝家の養子の一人・勝政(実父は佐久間盛次)の子である。
父の勝政は賤ヶ岳の戦いで討ち死にするが、まだ幼かった勝重は城を脱出。母方の祖父・日根野高吉のもとに引き取られ、育てられた。
この高吉、なかなかの人物だ。秀吉配下の武将で武勇に優れ、武具にも詳しかったことから「日根野錣」の異名を持つ。後に小田原の役で手柄を立てて諏訪に入封し、名城として知られる高島城を築いている。もっとも、領民を挑発してまで七公三民という重税を課したことでも、あまり名誉とはいえない記録を残している人物である(植村佐『諏訪高島城』日本城郭協会、1970年)。
面白いのは、ここで誰も勝重の出自を問題にしていないことだ。滅ぼされた敵将・勝家の孫を、秀吉配下の武将の家がそのまま引き取り、育てている。しかも咎められた形跡もない。「敵の血筋だから始末しろ」という発想が、少なくともこの場面には見当たらない。
「寛政重脩諸家譜」によれば、成長した勝重は、1599年に家康に召し出され上野国に2000石を与えられている。なかなかの待遇である。
ただ、この召し出された理由がはっきりとはしない。「寛政重脩諸家譜」でも簡潔に召し出されたことを、記しているだけだ。ただ、家康が武田旧臣なども取りこんで家臣を拡大していたことを考えると、柴田勝家の孫を手駒として加えるのは当然だったと考えるのが自然だろう。
しかし、勝重はただ拾われただけのその他大勢にはならなかった。関ヶ原の戦い、そして大坂夏の陣では、平野口で奮戦し負傷しながらも首を二つ取る武功を挙げて武蔵国の2郡500石が加増。「寛政重脩諸家譜」によれば、知行は併せて2520石あまりになったとしている。
■“並みの武士に任せられない土地”を与えられた
さて、このうち武蔵国の知行地となった仙川村で陣屋を構えたのが島屋敷と呼ばれる居館であった。この島屋敷は『新編武蔵風土記稿』では、後北条氏滅亡まで金子氏が居住していたとされている。金子氏は武蔵七党のひとつである村山氏の氏族にあたる。以降、柴田氏は「元禄の地方直し」で三河国に領地替えとなるまで当地を支配している。
ただし、この土地、知行として与えられれば満足という類の場所ではない。というのも島屋敷は、多摩川水系の仙川の水源部にあたり、古くから人が住み続けてきた土地だった。
これまでの発掘調査では3万年前の石器まで見つかっており、武蔵野台地でも屈指の古さを誇る居住地であることがわかっている。以降も近世に至るまで、ほぼ途切れることなく建物跡が確認され続けている(三鷹市遺跡調査会編『島屋敷遺跡第I次発掘調査概報(三鷹市埋蔵文化財調査報告 第17集)』三鷹市遺跡調査会、1995年)。
つまり、もともと武蔵七党という独立独歩の武士団が根を張り、後北条氏の配下に入ってもなお独自色を残していた土地なのだ。そこが後北条氏の滅亡でようやく空き地になり、「はい、どうぞ」と渡された先が勝重だった。並みの武士に任せられる場所ではない。
逆に言えば、それだけの土地を任されているということ自体が、勝重に対する幕府の信頼度の高さを示している、と見ていいだろう。
■村の暮らしに溶け込んだ「勝家の兜」
その支配の間、勝重は、当時「勝淵明神」と呼ばれていた村の鎮守である水神社に、勝家の兜を埋めたと伝えられている。
あくまで伝承の域を出ない話ではある。とはいえ『武蔵名勝図会』には、こうある。
柴田氏此地を領せしより、先祖勝家が霊を祀り、勝家が兜を埋めしといふ、一節には水神祭りしと云ふ(東京都神社庁『東京都神社史料 第3輯』東京都神社庁、1971年)

柴田氏がこの地を治めるようになって以来、先祖・勝家の霊を祀り、その兜を埋めたのだという。一説には水神を祀っているという意味である。真偽はともかく、江戸時代にはすでにこの話が広く知られていたことは分かる。

滅ぼされた祖父の兜を、新しい所領の鎮守に埋めて祀る。北ノ庄で失った祖父を、勝重は自分の代で、今度は土地の守り神のそばで静かに蘇らせたわけだ。
実際、この神社は水の神様、お産の神様として地域の人々の崇敬を集めていたようで、戦前までは神社の境内で雨乞いも行われていたという記録が残っている(井之口章次編『三鷹の民俗 10(新川)(文化財シリーズ;第19集)』三鷹市教育委員会、1987年)。
よそから来た旗本の殿様が持ち込んだ祖父の兜もまた、いつのまにか村の暮らしに欠かせない信仰の一部となったということだろうか。北ノ庄の炎からは、ずいぶん遠いところに流れ着いたものだ。
■2500石の旗本にしては“立派すぎる墓”
そして、勝重本人が眠る場所も、この仙川からそう遠くない。
寛永9年(1632年)、54歳で没した(諸説あり)勝重が葬られたのは、自らが中興開基となった春清寺である。その墓は、宝篋印塔で実際に現地を訪れると、その大きさにまず驚かされる。
台座から相輪の先端まで、目算でおよそ3メートル級。住宅街の一角にある寺の墓地で、これだけの高さの塔がぬっと立っている光景は、ちょっとした異物感がある。専門的な様式判定は素人の手に余るが、それでも笠の四隅、隅飾突起の反りがかなり大きく開いているのは見て取れる。時代が下るほどこの反りが強くなる傾向があるとされ、江戸初期という時代設定とも矛盾しない見た目ではある
(このあたりは専門家による裏付けが本来欲しいところだが、勝重の墓を直接扱った学術的な調査報告は管見の限り見当たらなかった。この評価はあくまで現地で実見した筆者の印象にとどめておく……一応、大学時代は『東大和市史』の手伝いであっちこっちで宝篋印塔の実測と拓本をやっていたので間違ってはいないと思う)。
2500石余の旗本の墓としては、率直に言って立派すぎる。宝篋印塔自体、江戸期には大名や上級旗本が格式を誇示するために選ぶ墓塔形式になっていたというから、勝重、あるいはその子孫たちは、この塔を建てることで「自分たちはただの旗本ではない」という意思表示をしていたのかもしれない。
■“鬼柴田”が簡単に滅びるはずがない
墓域には、もう一つ見逃せないものがある。柴田家家碑だ。勝重から数えて10代目にあたる柴田勝房が、1796年、柴田家歴代の事跡を刻んで建てたものである。
おもしろいのは、この家碑と勝重の墓が、三鷹市指定文化財として別々に指定されている点だ。一つの墓域に、時代の異なる二つの史跡が並び立っている。勝重が死んだ時点で話が終わるのではなく、柴田家が家名を守り続けていたことの、いわば物証である。
勝家の最期のインパクトがあまりに強烈だったせいか、柴田氏はそこで滅びてしまったと勘違いされがちだ。しかし係累は、その後もずっと続いていた。2023年に営まれた勝家とお市の441回忌法要には、系譜は定かではないものの、子孫を名乗る人物が参列したと報じられている(「中日新聞」2023年4月25日付朝刊)。
勝家も養子だ何だと、あらゆる手段で一族を増やしていた戦国大名である。そう簡単に滅びるはずがなかったのだ。
■“公金を私的流用”と記録が残る、最後の当主
ところで、三河に移されて以降、柴田氏は幕末まで旗本として存続している。その最後の当主にあたる柴田勝誠は、明治の新政府に出仕し、北海道の開拓使に勤めていたことが資料からわかる。
ただ、今回資料を探っていたところ、妙な記録に行き当たった。『北海道所蔵簿書件名目録 第2部 その13』(北海道総務部行政資料課、1983年)に、「等外一等出仕柴田勝誠、官金私借ノ件」という一項がある。
内容を追うと、これがなかなか身も蓋もない。開拓使の役人だった勝誠が公金を私的に流用していたことが発覚し、弁償することで話がついた。しかし、その過程で電信局修技校(汐留にあった技術者養成所)から購入した筆・墨・紙といった、事務用品の代金を未払いにしていたということも発覚したというものだ。
北ノ庄の炎を生き延び、2500石の旗本となり、大名顔負けの宝篋印塔まで建てた一族の、武士として最後の当主の事蹟が、横領と筆代の踏み倒しとはどういうことか?
柴田氏、最後まで、スケールが小さいんだか大きいんだか、よくわからない一族であった。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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