1945年8月15日、玉音放送が流れても、日本兵たちの戦争は終わらなかった。BC級戦犯として裁かれた日本人は5700人に上り、984人が死刑判決を受けた。
終戦から約8年後、フィリピンに収容されていた105人は帰国を果たす。獄中で生まれた歌が大統領の心を動かし、恩赦を実現したと語り継がれてきたが、それは事実なのか。ルポライターの昼間たかしさんが検証する――。
■「終戦」から始まった、戦犯としての地獄
1945年8月15日は、多くの人にとって戦争の終わりを意味しなかった。あの日を境に戦争が終わったというのは、戦後から遡って眺めた者の視点にすぎない。
玉音放送が流れたその日、東南アジアの各地では日本兵たちがまだジャングルの中にいた。武装解除され、捕虜となり、やがて「戦犯」として裁かれる側に回った者たちにとって、終戦とは新たな地獄の始まりに過ぎなかった。
法務省大臣官房司法法制調査部がまとめた「戦争犯罪裁判概史要〔[簿冊]『戦争犯罪裁判概史要(司法法制調査部昭和48年8月刊行)』(平11法務06334100)、国立公文書館デジタルアーカイブ、(参照 2026-09-01)〕」によれば、BC級戦犯のうち有罪となったのは5700人。うち984人が死刑判決を受け、920人は執行されたとしている。しかし裁判の実態は、公正とはほど遠かった。伝聞に基づく証言、通訳の誤訳、人違いによる起訴。命令を下した上官は生き延び、現場で従った兵士だけが絞首台に送られた。
それは、法廷という形式をまとった復讐劇ともいえるものであった。
そして終戦から7年が過ぎてもなお、死刑判決を受けた者も含む多くの元兵士たちが、国外の刑務所に留め置かれたままだった。
1952年時点で、収容されている戦犯者は国内の巣鴨プリズン1267名のほか、オーストラリアのマヌスの234名、フィリピン・モンテンルパの113名となっていた。この年の4月にはサンフランシスコ平和条約が発効、日本は独立を回復している。にもかかわらず、国外に収容されている戦犯者の釈放・減刑は世間の注目を集めていた。この年1月には、マヌスに収容されていた今村均元陸軍大将夫人らによる家族会が法務大臣に約350万名の署名を提出し、減刑や内地送還を要望するなど、独立を回復した今こそ解決せねばならない課題となっていた(『読売新聞』1952年1月17日付)。
■絶望から生まれた歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」
フィリピン・マニラ郊外のモンテンルパ刑務所に収容された日本人死刑囚たちも、そうした理不尽の只中にいた。無実を叫んでも届かない。いつ執行令状が来るかもわからない。終戦から6年目の1951年1月の深夜、一夜にして14人が絞首台に消えた。
(NHK「[シリーズ戦跡]モンテンルパ 元死刑囚たちの思い」)
その絶望の底から、一つの歌が生まれた。
「あゝモンテンルパの夜は更けて」――。
死刑囚たちが獄中で作り、国民的な人気を集めた歌手・渡辺はま子がレコード化すると20万枚の大ヒットとなった。渡辺はみずから現地に渡って歌い、やがてフィリピン大統領キリノの心を動かし、収監されていた戦犯全員への恩赦が実現した。妻と子どもたちを日本軍に殺されたキリノが、それでも赦した――と、今も語り継がれている。
(参考:NHKアーカイブス「渡辺はま子」)
この「奇跡の物語」は戦後日本で何度もドラマ化・映画化された。しかし当時の資料を辿ると、単純化された美談とは異なるより複雑な風景であった。
実のところ、日本国内で伝えられていた「モンテンルパのイメージ」と現実には、大きな乖離があった。1951年12月、国際会議でフィリピンを訪れた牧師の後藤光三は、刑務所を訪問してこう証言している。
入ってまずびっくりした、入所の手続をとっていたらすぐ近くの売店で赤い服の男たちがコカコラを飲みながらサンドイッチをくっている、これが受刑者たちだったのだ、今まで日本には非常に悲惨な生活のように伝えられていたが、あんな解放的な刑務所はないと思う(中略)午前8時から11時、午後1時から4時までは所内の行動が自由、従って他の房の受刑者とも自由に会える。屋内の片隅にはガス、電気ヒーターなどが入っていて売店で買った食物を自由に調理できる(『読売新聞』1951年12月5日付朝刊)。
■“出口の見えない不安”に苛まれた死刑囚60人
これは、一見人間並みに扱っていると見せて、よりとんでもない地獄だった。普通の日常が続く。その日常の中に、突然「明日、執行」が降ってくる。
現に、深夜のうちに14人が連れ出され、絞首台に消えたこともあった。減刑の観測が流れたかと思えば、処刑が行われる。当時収監されていた死刑囚たちは、そろって出口の見えない不安に苛まれていたのだ。
実際、後藤が話を聞いた死刑囚たちは口々に「部下の誰かがフィリピン人を虐殺したのは事実だが、自分は知らなかったと証明してくれる人がいない」「自分が処刑されるのは当然だが、無実の者が随分いる。救う手立てはないだろうか」などと話していたという。
興味深いのは、後藤が話を聞いた死刑囚たちが、誰一人「助命してくれ」とは言わなかったことだ。その背景を、後藤はこう記している。
日本で行われている助命とか減刑運動が、対日感情の悪い比島国民をかえってシゲキするのを知りすぎるほど知っているからだ。(中略)“日本戦犯の死刑囚はたった60人だが比島人を何十万人も殺したではないか……”これが一般比島国民のいつわらない感情なのである。

(同読売新聞)
■大統領は減刑・釈放方針に傾いていたか
ようは、誰もが我が身可愛さに将来の友好の障害になることを恐れていたのである。一方で、さらに興味深いのはこの記事が1951年12月の時点で、既にキリノ大統領は減刑・釈放の方針を決めていたと記していることである。キリノ大統領は面会した後藤の手を握り、こう語ったと記事は伝えている。

「戦後すぐに日本人にあったのならかみ殺してしまっただろう、私は妻と三人の娘を日本人に殺されている、しかし今はもううらむこともツミだとも思わなくなった。神が日本と比島を隣り合わせておつくりになったのは仲よくしろとのみこころにちがいないからだ。もし私が日本人を憎んだら比島全国民が日本人をにくむだろう」

(同読売新聞)
この記事の記述を信用するならば、既に釈放は確定していたことになる。
反日感情が根強い国内世論をどう説得するか。賠償交渉が行き詰まる中で、釈放がどう受け取られるか。政治的タイミングをどう見極めるか。キリノが抱えていたのは、感情の葛藤ではなく、政治の問題だったというわけだ。
その「タイミング」を作る力学の一つとして、一つの歌が生まれ、日本中に広まっていくこととなったのである。
今日、この美談の主役として語られる渡辺はま子だが、当時の報道における扱いは、驚くほど小さかった。
■歌詞と楽譜に感動→レコード化→即映画化
モンテンルパの死刑囚から届いた歌詞と楽譜に渡辺が感動し、ビクターにかけあってレコード化を決めたことを最初に報じたのは、『読売新聞』1952年6月28日付の神奈川版だった。地方ニュースの扱いである。渡辺が当時鎌倉に在住していたための、いわばローカル記事に過ぎなかった。

数多あった慰問活動の一つ。それが当時の渡辺はま子の立ち位置だった。
ところが、戦犯の釈放が社会の関心になっていた当時、発売されたレコードは瞬く間に話題になった。これを新東宝はすぐに映画化を決定。同年10月9日に『モンテンルパの夜は更けて』を全国の劇場で公開をしている。当時の広告には、こんな風に煽られている。
「新東宝の問題作! 万感の涙こめて全世界に訴う映画 果てない悲しみに海に呼べど帰らぬ痛恨のこだまが今日も甲斐なく消えていく…… 絞首台に昇る十三階段その階段へ登るのは何日か ああ誰に耐えたらよいのか!」
しかし、スクリーンに映る物語は、冤罪で死刑を宣告された許婚(小笠原弘)を待ち続けるヒロイン(香川京子)の苦悩を描いたメロドラマだった。公開時20歳の香川京子に男性観客が、許婚の兄役・上原謙に女性観客が吸い寄せられる、いつの時代も変わらない興行の論理である。外交交渉でも賠償問題でもなかった。
■新聞の人生相談にも“モンテンルパ”が登場
社会現象はさらに思わぬ方向にも広がっていた。『読売新聞』1953年2月17日付夕刊の「人生案内」……現在も同紙の名物連載に、16歳の女性からこんな投稿が掲載された。昨年5月からモンテンルパの死刑囚の元軍医と文通を続けているが、この度縁談があり家族から文通をやめるよう言われた、というのだ。
彼女はこう綴っている。
「私は押さえに押さえていた尊敬、愛情、同情の念が爆発し、彼の命がモンテンルパにある限り待とう、そして彼の家庭に一時養女として入りその家庭の面倒をみたいという気持ちになりました。こうした気持ちを彼に伝えるべきでしょうか」
死刑囚への純愛。モンテンルパはいつの間にか、16歳の少女が恋焦がれる「遠い男」の象徴にもなっていた。
この投稿に回答したのは、医師で性医学者の山本杉だった。後に自民党参議院議員となり、仏教婦人運動にも関わる知性派である。彼女の回答は、突き放すでもなく、煽るでもなかった。「そのような例を戦地で経験した人から直接聞いて(中略)そのような方に一生を捧げてゆくことは女として光栄であり、普通ではできない美しさがございます。しかし、あなたの場合、その相手の方は立派な方です」と認めながらも、最終的には「迷うなら常識論に引き下がって身のふりかたをお考えになるべきです」と諭すのだ。
■動き始めた戦犯釈放、だがフィリピンは一貫せず
専門家でさえ完全には否定できなかった。それほどモンテンルパが社会に作り出していた「悲劇のロマン」の磁場は強かった……なお、紙面では、この16歳の乙女のシリアスな相談の横の広告が「ステンドグラスのあるナイトクラブ 金馬車 銀座2丁目電車通り 18日にレストランとティールームも開店」である……。
社会現象となるなかで、戦犯問題への社会の関心はより強まっていた。1952年8月、政府はサンフランシスコ平和条約1周年を前に、A級を含むすべての戦犯の釈放・仮出所・減刑を各国に要請している。すでに蒋介石率いる中華民国は日華平和条約を契機に戦犯を釈放、フランスも善処を約束、アメリカも改善に向けて資料提出を求めていた(『読売新聞』1952年8月8日付朝刊)。
しかしフィリピン側の動きは、一貫しなかった。同年11月、死刑囚だった元日本兵2人が突如無罪を言い渡され帰国した。一方でこの時、帰国した二人は「食事が米とイモ、ビーフン中心で栄養失調者が多い」と証言している(『読売新聞』1952年11月4日付朝刊)。後藤牧師が見た「解放的な刑務所」との落差は、待遇が時期や対象によって大きく異なっていたことを示している。
■不安な戦犯たち…渡辺の慰問では「君が代に泣いた」
突如釈放される者がいれば、突如処刑される者もいる。フィリピン側の「気まぐれ」とも見える対応が、収容された日本人たちの不安をさらに深めていた。
『読売新聞』1952年11月20日付朝刊では、刑務所の状況をより詳細に報じている。
これによれば、キリノ大統領が平和条約締結を踏まえて釈放を「検討している」一方、当時、リベラル党と議会を二分していたナショナリスタ党は、賠償問題の解決が先であるとしていた。また、刑務所は予算が限られているため、できる限り待遇をよくしているものの、不足分を補うため日本人に限って野菜畑を許可していた。さらに、同じくモンテンルパに収容されているフィリピン人受刑者との間にも、今では恨みはなく平穏になっている、という声を紹介している。
こうした中、渡辺がモンテンルパを訪問したのは1952年12月25日のことであった。現在では、このことが美談のクライマックスのように語られるが、前述と同じく地方面のベタ記事扱い。そして新聞の見出しは「あゝモンテンルパの夜は更けて」ではなく「君が代にみんなが泣いた」である(『読売新聞』1952年12月29日付)。なお、記事として扱っている新聞のほうが少ない。
■送還は静かに進んでいた
本当に事態が動いたのは、政府間の交渉が進んでからだった。1953年1月29日、使節団として訪問した衆議院議員の橋本龍伍は司法長官と会談し、「対日平和条約批准後に送還を取り決める」という言葉を引き出している。この時点で死刑囚は51名――少数ずつではあるが、送還はすでに進んでいた(『読売新聞』1953年1月30日付)。
そして1953年6月27日、キリノ大統領はモンテンルパの戦犯全員を特赦することを決定。死刑囚は終身刑として巣鴨へ移送、終身刑以下は釈放すると布告した(『読売新聞』1953年6月28日付朝刊)。
この決定に至った背景について、大統領の弟・アントニオ・キリノ判事は興味深い証言を残している。世論の反対はすでになく、むしろ反対したのはホセ・ラウレルのような、かつての対日協力者たちだったというのだ。そうした人々による反発を防ぐため、死刑囚については近い将来の釈放を見込んで、減刑の上で巣鴨へ移送という形が取られた(『読売新聞』1953年7月17日付朝刊)。
同年12月、任期の迫ったキリノ大統領は巣鴨に残る終身戦犯への特赦に署名。長年にわたった問題は、ここにようやく決着をみた(『読売新聞』1953年12月29日付朝刊)。
■「歌に心が動いた大統領」は追悼記事からか
では、なぜ歌の話ばかりが注目されるようになったのか。
キリノ大統領が歌に感動したという話の紙面で確認できる最初の記述は、『読売新聞』1956年3月2日付朝刊である。死去したキリノ大統領を追悼する記事の中で、面会した教誨師・加賀尾秀忍がオルゴールで「あゝモンテンルパの夜は更けて」を聞かせたところ、「聞き入り感慨に打たれた」大統領は即日5名の日本人戦犯の釈放を命じた――というものだ。
注意すべきは、これがキリノの死後に書かれた追悼記事だという点である。当事者はすでにいない。
この話は時を経るにつれ、よりわかりやすく、よりドラマチックに変化していった。『朝日新聞』1982年6月15日付朝刊は、渡辺はま子がモンテンルパで歌ったことを取り上げ、こう記している。
これが契機となって、翌28年7月4日のフィリピン独立記念日を期して、全生存戦犯者が釈放され、帰国することができた。
加賀尾秀忍が消えた。政府交渉が消えた。賠償問題が消えた。アントニオ・キリノ判事の説得が消えた。残ったのは「渡辺はま子が歌ったことが契機となった」という、一本の因果の線だった。
美談は、こうして作られた。意図的なものではない。追悼記事が書かれ、新聞が引用し、映画がドラマ化するたびに、複雑な現実は少しずつ削ぎ落とされ、伝わりやすい「奇跡の物語」へと純化されていった。
■「歌が恩赦を導いた」は学術的にも疑問視
学術研究の分野では、こうした通説はすでに疑問視されている。フィリピン人研究者のアウグスト・デ・ビアナ(サント・トマス大学)は、歌が恩赦を導いたとする見方について「この歌こそが大統領に恩赦を決定させた要因であったと考えられているが、それがキリノの決定の直接的な原因であったという記録は残っていない」と明言する(Augusto V. de Viana, “Ending Hatred and the Start of Healing,” The Asia-Pacific Conference on Security and International Relations 2016)。
永井均『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社選書メチエ、2013年)では、恩赦に至る経緯を渡辺の物語として捉える傾向があるとした上で、フィリピン側の状況を詳しく記している。永井の説によれば、まず冷戦下にあってアメリカが同盟国である日本とフィリピンの対立をよしとしなかったこと。キリノ大統領自身、日本軍によって家族を失ったことを恨みながらも、両国の位置関係からしても、将来的に日本とフィリピンは国益をみすえて経済交流をするだろうと考えているなど、複雑な立場にあったとしている。
つまりは、戦争責任へのわだかまりがありながらも実利を求めなくてはならないゆえに、恩赦は避けられなかったといえる。決して、歌によって一発逆転で状況が変わったわけではないのだ。
■それでも、元戦犯105人は無事に帰ってきた
しかし、感情を揺さぶる単純な物語は受けた。そして、その傾向は最近でも続いている。例えば『神戸新聞』2025年10月15日付の記事には、こんな説明がある。
渡辺さんは収容者を慰問する。翌年当時のキリノ大統領が100人超を恩赦とし(中略)歌がキリノ氏の決断を後押ししたと伝わる。
「伝わる」という一語で逃げながら、慰問の「翌年」に恩赦が実現したという時系列だけを残す。美談は悪意なく、善意によって更新され続ける。
それでも、105人は生きて帰ってきた。その事実は変わらない。帰還した元戦犯たちは、酒が進むと皆で「あゝモンテンルパの夜は更けて」を合唱したという。その歌声の意味を、彼らは誰よりも知っていた。歌だけが扉を開けたのではないことも。それでも歌がなければ、あの夜々を生き延びられなかったことも。
美談の陰で奔走した無数の人々の名前は、今も多くの人に知られないままだ。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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