大阪に100年続く縫製メーカーがある。1980年代以降、生産拠点を中国に移す企業が相次ぐなか、三恵メリヤスは、あえて大阪に残る道を選んだ。
その後は苦境が続いたものの、現在は従業員15人ながら、1万円を超える無地Tシャツを累計2万1000枚販売し、売り上げの4割強を海外が占める。同業者が次々と消える中、なぜこのメーカーは大阪で生き残れたのか。ライターの伏見学さんが三木健社長に取材した――。
■Tシャツなのに、1万円超
1万円を超える無地の半袖Tシャツがずらりと並ぶ。受注生産販売のこれらの商品は、国内外の消費者やバイヤーなどが買い求め、売り切れや入荷待ちが起きることもある。累計販売数は2万1000枚を超える。
「EIJI」というブランド名のこのシャツ。高額には理由がある。“綿の王様”と呼ばれる超長綿の一種、オーガニック栽培のアルティメイトピマ綿を使用している。軽さと着心地の良さを実現するために80番手の糸を使い、美しい光沢感と丈夫さを出すために目の詰まった40ゲージという編み方で生地にしたのだ。
手掛けるのは、大阪市に本社を置く三恵メリヤス。創業は大正15(1926)年。
従業員15人ほどの縫製メーカーである。
こうした商品が作れるのは、高い技術力を持つほか、今はもう手に入らないような機材を所有し、さらに自社だけではなく、大阪を中心とした関西エリアの職人たちとタッグを組んでいるからなのだ。現に、三恵メリヤスの三木健社長は、地域性に強いこだわりを持つ。それは品質面で特に大きな役割を果たしている。
「物理的な距離は重要なのです。例えば、仕上がりの色にムラが出た時などに、『どうします? ちょっと行きますよ』といったやり取りができます。でも、すぐに会いに行けるような距離でなければ、ものづくりの機動力がどんどん弱くなってしまいます」
グローバル規模で生産体制を構築する大企業とは対照的な環境である。アパレル商品の海外生産が当たり前になった今、なぜこの小さな町工場は、100年もの間、「日本製」「大阪製」を守り続けるのだろうか。
経済産業省によると、日本の衣料品等の市場規模は、1991年の15兆3000億円をピークに縮小の一途を辿り、2021年は8兆6000億円と、30年でほぼ半減した。そうした逆風にも負けずに地元密着のものづくりを続ける三恵メリヤスの信念に迫った。
■焼け野原からの再出発
町工場というと、都心から外れた立地をイメージしがちだが、三恵メリヤスの社屋は文句なしの一等地にある。梅田駅から徒歩10分以内、若者が集う中崎町の一角に拠点を構える。
昼時に訪れた際は、近隣で働く会社員や学生などが同社の前の路地をひっきりなしに行き交い、非常に活気があった。
「この場所に移転してきたのは、戦後すぐの1945年ですね。その前は福島(大阪市福島区)にあったのですが、大阪大空襲ですべて焼け野原にされてしまって」と三木社長は説明する。創業者から数えて4代目。2014年に家業に入り、2024年8月から社長を務めている。なお、メリヤスとは、機械編みの布地の総称である。
その単語を社名に入れる三恵メリヤスは、日本の肌着や体操服の歴史と深く関わる。1926年創業の同社は、三木社長の曽祖父・三木英治氏が特殊ミシン1台で起業し、主に縫製で事業を広げていった。戦後、海外輸出用の肌着を製造。当時は粗悪な商品が出回っていた中で、英治氏は品行方正を貫いた。
「その頃の輸出用の肌着は、1枚あたりの値付けではなく、1キログラムでいくらとか、重さなんですよ。ということは、重ければ重いほど儲かるじゃないですか。
日本も当時はマナーが悪くて、水を吸わせたり、石を入れたりした商品が多かったそうです。でも、ひいおじいちゃんはそれをやらなかった。すると、『お前のところの商品はいつも乾いているし、何も入ってない』ということで信用されたみたいです」
三恵メリヤスは神戸のインド系商社に気に入ってもらい、東南アジア向けの輸出用肌着のビジネスが拡大したのである。
■下請けの下請けは儲からない
1970年代に入ると、三恵メリヤスは学校用運動着の生産に携わることに。それまでは肌着などで学校の体育の授業を受けるのが一般的だったが、1960年代から学校用運動着の概念が定着し、世の中に普及していった。三恵メリヤスは取引のある問屋からの依頼で、製造の二次受けとして関わった。次第にこれが事業の中核となっていったのである。
それに付随してジャージの製造も開始。さらにはカレッジウェアと、学校関連のアイテムが増えていった。
「その時に作っていたジャージは、吊り編みという技術が使われていました。脇の部分に縫い目がない丸胴タイプで、今は世界でも和歌山でしか作っていません。その後、ジャージを作っていたということで、父親がカレッジスウェットの仕事を受注しました。
運動着は4月が販売のピークだから、年明けから休みなく働いていたそうです。ただし、4月を過ぎると暇になるので、その時にジャージを作り、さらにカレッジウェアを作るようなことをひたすら繰り返していました」
ところが、下請け業者ゆえの悲哀か、仕事量は膨大にもかかわらず、それに見合う収益は得られなかった。
「暗くて苦しい雰囲気ではなかった気はしますが、決して儲かっていたわけではありません。下請けの下請けだから、商品は一生懸命作るけど、利益は出ていなかったようです」
1981年生まれの三木社長は、こうした時期に長男として誕生したのである。
■「中国に出ない」という決断
1980年代の日本はバブル景気に沸いた。だが、国内の繊維産業は徐々にかげりが見え始めていた。それは中国などから安い衣料品が大量に輸入されるようになったからだ。
他方、国内メーカーも安い人件費と豊富な労働力を求めて、生産拠点を中国に移す動きが本格化した。ちょうどその頃、三恵メリヤスにも海外進出の話が持ち上がる。取引先の大手スポーツ用品メーカーが中国で生産すると決めたのだ。
「大阪の組合の企業とともに中国を視察して、『三恵メリヤスさんも来てくれれば、引き続き仕事を発注しますよ』などと言われたそうです。でも、工場を視察した際に、ものすごい人数で大量の商品を作っているのを目の当たりにして、父はこんなに需要は取れないだろうと思ったらしいです」
帰国後、三恵メリヤスは「うちは中国に出ません。
日本に残って、これまで通り取引のある会社とだけやっていきます」と宣言した。
この決断こそが、その後の三恵メリヤスの生き方を決定づけることになる。安さと大量生産を追うのではなく、日本国内で、丁寧にものを作り続けること――それは同社にとって、単なる経営判断ではなく、ものづくりの矜持そのものだった。
■大手が消えるなか、縫製特化で生き残る
もちろん、日本で製造を続ける会社はほかにもあったが、企業規模が明暗を分け、すべての工程を自前で行うような大手は苦しんだという。
「中国に出て行かなくても、その後、生き残った大手企業は少ないです。縫製、裁断、染めなど全部やっていたところは工場が維持できなくなりました。一方で、我々は縫製特化で、しかも主に肌着やTシャツだったから生き延びた。本当に巡り合わせです」
とはいえ、アパレル市場全体は上述したように、1991年をピークにダウントレンドだった。当時、そうした経済状況は何も知らずに幼少期を過ごした三木社長だったが、取引先が破綻したことで、ついに三恵メリヤスの厳しい台所事情を知ることとなる。
「1995年のことで、ちょうど高校進学を検討するようなタイミングでした。もう中学を出たら働くと言ったら、母親に泣きつかれました」
このような苦境に立たされても三恵メリヤスは必死に踏ん張った。結果的に大学進学までさせてもらったことに対して、三木社長は今でも感謝している。

■父の「戻ってこないのか」で家業へ
話は少し脇道に逸れるが、三木社長は慶應義塾大学時代に起業し、留学支援サービスの会社を仲間とともに立ち上げた。事業はおおむね順調だったが、卒業のタイミングで進路を考え、家業に戻ろうと考えた。それとなく父親に相談したところ、「別に帰ってこなくてもいい」と言われた。想定外の回答だったが、食い下がることもなく、三木社長はそのまま東京に残って留学ビジネスを続けることに。
そこから事業は大きく成長し、海外に拠点を設け、三木社長自身もロンドンに移住していた。すると、今度は父親から連絡があり、「戻ってこないのか」というのだ。
「連絡をもらった頃、父は病気になり、一時入院もしていました。ウソか本当かわからないけど、銀行の送金も全部止まって大変だというのです。それでものらりくらりと2年ほど返事を保留していると、『さすがにほんま決めてくれ。帰ってこないならそれでいい。どちらかはっきり決めてほしい』と詰め寄られました」
迷った末、最終的に家業に入ることを決めた。それは大きく2つの理由からだ。
「一つは、大好きだったおばあちゃんが小さい頃から『健が後を継がないと』と言ってくれていました。それと、正直、浪人してまで大学に行かせてくれたのは本当に三恵メリヤスのおかげ。もう一つは、留学ビジネスの会社が当時絶好調で、伸びている時であれば離れても大丈夫だろう、パートナーに託しても受け入れてくれるんじゃないかなという考えがありました」
■給料を入れれば赤字、工場には宝が
2014年、三木社長は大阪に戻り、三恵メリヤスに入社する。三木社長が帳簿を見ると700万円ほどの黒字だった。赤字ではなかったことにホッとするのも束の間、自分自身の人件費を入れると、赤字に転落するのは見えていた。ただ、そうした中でも会社の雰囲気は明るく、従業員は生き生きと働いていた。これが希望だった。
そして、さらなる希望が三木社長にもたらされることになった。入社してまもない頃、自社商品の説明を受けた三木社長はスウェットの製造技術に驚きを隠せなかった。他社ではどこもやっていない吊り編みでいまだに作っていたのだった。希少価値のあるものづくりを実践していたのである。
しかし、この事実は当時、ほとんど世の中には知られていなかったという。そうであれば、自分自身がまずはこれを広報することで、会社の役に立つのではと考えた。
この特殊な技術力の基盤を作ったのは、三木社長の父と、その右腕だった副社長(当時)の尾崎正和氏だった。尾崎氏は1980年代後半、三恵メリヤスに転職してきて、アウター商品を手掛け始めた人物である。
タイミングよく「アメカジブーム」が起こり、三恵メリヤスの技術が一気に日の目を見ることとなった。ビンテージの上物を製造できる会社がほとんどなかったからだ。
■「時代遅れのミシン」が突破口に
実は、この技術は現在も生きている。古くからの会社が廃業していく中でますます大きな価値を生んでいるのだ。
そこに着目して、三木社長が取り組んだのが、大阪を中心とした繊維業者6社とタッグを組み、2017年に立ち上げたブランド「EIJI」である。海外からの注文も殺到し、今や三恵メリヤスの売り上げ全体の4割強が海外である。
三恵メリヤスの工場に置かれているのは、今ではほとんど見かけなくなった旧式のミシンだ。一本針オーバーの裾縫いや、ユニオンスペシャルミシンによる4本針フラットシーマなど、扱えるのは経験を積んだ職人だけ。使い慣れた機材と手仕事が、他社には真似のできない風合いを生み出している。もちろん、EIJIの製造においてもこの旧式のミシンが活用されているのだ。
ただし、裏を返せば、この類を見ない技術力が課題にもなっている。職人不足だ。実際にこの数年間で、EIJIに関わる会社のいくつかは、高齢化などを理由に職人が引退し、廃業している。
「EIJIの背中のタグには製造に関わる企業名を入れていますが、4年前のものと今とでは全然違うでしょう。田中メリヤスさんは倒産され、もう日本にしか存在しない台丸編み機(スタンドウィラー)で糸を編んでくれていた津村さんは廃業されました。また、今年に入って白鳩メリヤスさんから引退しますと言われました」
たとえ1社欠けても商品は作れない。それでも三木社長は、技術を絶やさぬよう、次の一手を打ってきた。それは、機材を買い取るなどして、事業を承継することだった。
■廃業工場の機材と技術を継ぐ
「津村さんの息子さんは継がず、工場をスクラップにするという話が出ました。そこで仲間に『何とか引き継いでくれないか』とお願いしました。そのうちの一社はお子さんが20代で、まだ事業を続けるつもりだからと承諾し、津村さんの技術を移管してくれました」
しかし、いつまでも綱渡り状態を続けるわけにはいかない。
「10年、20年のスパンで考えると、いずれ一緒の会社になってやらなきゃいけないことになるかもしれません」
ここまでする理由は何か。それは、ものづくりの文化を守るため。
「EIJIに携わる会社は毎年のように入れ替わっています。だけど、お客さんから見たらそれは関係ないですよね。お客さんにはそんな悲しみを背負いながら洋服を着てほしくない。でも、ふと気になった時に『こういう工場で作っていたんだ』とか、『この技術は素晴らしい』とか思ってもらえれば、関わってくれた人たちへの恩返しになるかなと」
三木社長がそう語る背景には、家業に戻った直後に痛感した、ある現実がある。工場として指名されなければ、どれだけ良い技術を持っていても仕事は来ない。
「工場として指名がもらえければ駄目だということ。優れた技術があっても需要がなければ廃業してしまう。こうした状況をどうにかなくしていきたい。あそこの工場にお願いしたいと思ってもらうことがこれからの挑戦ですね」
■守り続けた技術が最先端に
1980~90年代、もし三恵メリヤスが中国に進出していたら、どんな未来が待っていたのだろうか。
「こうはなってないです。マスのど真ん中で、値段が安い商品を大量生産するという勝負をしなければいけませんでした。それをしないとはっきり決めたことが、三恵メリヤスの生きざまになりました。ここが大きなターニングポイントでした」
三木社長は続ける。
「でも、その後は辛かったですね。職人の仲間たちと共にずっと温め続けてきた技術が時代から取り残されてしまって……」
しかし、粘っていれば、再びチャンスは訪れる。まさに今、三恵メリヤスらの古い技術に光が当たり、海外からも買い付けが来るような、最先端のファッショントレンドとなっている。
あの一枚のシャツは、そうした職人たちの技術と覚悟の結晶でもある。だからこそ、この技術を、文化を、仲間を守り抜く。三木社長の信念は、揺るがない。

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伏見 学(ふしみ・まなぶ)

ライター・記者

1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。

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(ライター・記者 伏見 学)
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