日本社会の停滞は、何が原因か。『法律家が見た日本社会の病理 「空気」を打ち破る個と論理の構築へ』(KADOKAWA)を出した明治大学名誉教授の瀬木比呂志さんは「有力な原因の一つに、日本の組織が、創造性や独創性とともに自分の意見を強くもつような人間を嫌い、その能力を評価しないで埋もれさせてしまう傾向がある」という――。

■「反能力主義」社会のモノサシ
反能力主義は、「ムラ社会」の感性の帰結である。個人が弱く、集団に依存しており、相互の関係が情緒的に密で、かつ、「場の論理」によって動く社会では、能力、特にほかの人間とは異なった異質の能力はあまり歓迎されない。
歓迎されるのは、せいぜい、自分ではあまり考えず上や集団の要請に「黙って従い、がんばる優等生(いい子、いい人)の能力」にすぎない。
私のいう「反能力主義」とは、上記のようなニュアンスのものである。
今でも、日本人の能力は、おおむね学歴、具体的には出身大学名によって測られる。大学院のキャリアが重視されないことについては、日本の大学院教育が必ずしも現実の仕事や新たなアイディア、価値の創出に役立たないという「教育の内容と質」の問題もある。
しかし、より大きな理由は、とりあえず前記のような意味での優等生的能力を測るには大学、せいぜい加えて学部名で十分であり、あとはなるべく早期に企業や官庁丸抱えで特化した教育を施すほうがよく、そのためには修士や博士の学歴などかえって邪魔になる、そのような見方にあると思われる。
■受験戦争で“有利”な子どもの特質
こうしたシステムの下では、大学名によってその人の将来はほぼ決まってしまう。
また、日本の大学院が一般社会人のキャリアアップのための再教育機関としては未だかなり弱体なのは、前記のとおり、残念ながら事実である。だから、「大学に入り直してステップアップ」ということもできにくい(ただし、公平のために付け加えると、学者についてみれば、大学院に入る段階、あるいは就職してから入り直す段階で中核的な大学に移るというかたちのステップアップを図る人々は、かなりいる)。
また、このシステムは、現在の学生たちの実情にも合わない。私が若かったころには受験教育のシステムなどまだあまり整備されていなかったから、東大・京大等の学生の質は、現在よりは実力を反映していて、総体としては高かった。
また、貧しい家庭の出身者もかなり多かった。
しかし、今では、「子どものころからの系統的な受験勉強の詰め込み」の条件を満たしうる経済的中産上層階層以上の子どもたちが、受験競争では著しく有利になっている。その結果、ただ偏差値が高いだけの優等生も増えている。
■能ある人の活躍の場を奪う組織の病理
一方、たとえば有名私学のトップクラス学生たちの能力は、大学によりそのパーセンテージこそ異なるものの、平均的な東大生や京大生のそれを上回る例もままあるといわれている。
これは、国立大学定年退職後にそのような大学に移った教授たちをも含め多くの教授たちが認めるところであり、また、そうした学生は、大学に入るまであまり勉強をしてこなかったためか、適切な指導さえ受ければ、伸びしろも大きいのだ。
けれども、医師、弁護士、大学教授等の専門職に就くのでない限り、彼らのそうした能力が適切に評価され、社会のためにも活用される余地は、必ずしも大きくない。
適切な評価基準の欠如という問題もある。文科省サイドやそれに近い人々の設定する大学認証評価基準がその典型だが、まさに、前記のような限られた「優等生的能力養成力」を測るものでしかなく、問題発見や設定の能力、創造性、独創性等の、現在の世界で最も必要とされるような能力の涵養(かんよう)については、ほとんど考慮されていないのである(これには、まことに残念ながら、文科省の官僚たち自体が、行政官僚の中でみてもこのような能力において高いとはいいにくいことも関係しているのかもしれない)。
さらにいえば、いわゆる日本型エリートたちによって構成される組織においてさえ、前述のような能力をもった者がそれにふさわしい活躍の場を与えられる例は、必ずしも多くはないのだ。
■独創性をもった裁判官の辿った道
ここでも裁判官を例にとってみると、たとえば、私と同期の裁判官で、単に上質の誠実な優等生というにとどまらず、何らかの創造性や独創性をもっていると私がみていた人物は、三人いた。
一人は、本書『法律家が見た日本社会の病理』の「場の論理」の箇所でふれた大塚正之(東大経済学部出身)である。あと二人については名前を挙げるのは控えるが、Aは、東大教育学部在学中に独学で司法試験に合格している。
東大法学部でも四年生合格者は数えるほどだった当時の状況を考えるなら、その能力は明らかだろう。裁判官としては、社会的価値にかかわるいくつかの目立った判決を残した。
Bは、当時の東大法学部優等生の典型というタイプで、頭が切れ、記憶力抜群だった。彼については、おそらく、上昇志向、承認欲求も相対的に強かったのではないかと思うが、自分の専門分野の判決では筋を通した。
私自身はといえば、元々学者が裁判官をやっていたようなものだったので、裁判官を務めるかたわら研究と執筆に打ち込むうちに孤立して、学者に転身した(なお、今のところ弁護士登録もしていない)。このことは、私の書物の読者なら知っている人も多い(拙著『裁判官が見た人間の本性』等)。
だが、私が58歳で裁判官をやめたのは、実は、前記の三人よりもあとだったのである。
■才能が日の目を見ない社会の不条理
私の場合、東北大学等から専任教授の誘いのあった時点では理系学者志望、芸術系志望等の子どもたちの学費で首が回らず断念せざるをえなかったため転身が遅れたという事情はあるものの、これらの同僚たちが相次いで裁判官生活に見切りを付けて弁護士に転身してしまった時には、本当に取り残された感じがしたものだ(なお、この三人は、いずれも、大学でも客員で教えた経験をもつ)。
それでも、裁判官の場合には、踏み切るのは必ずしも容易でないとはいえ、前述のような転身の道があり、つぶしがきくからまだいい。これが行政官僚や企業人であれば、また、学者でも、たとえ優秀であっても、自分の能力を十分に発揮できるような転身の道を探すのはそれほど容易ではないだろうし、村八分やいじめなどにあった場合については、さらに難しくなるだろう。
要するに、裁判官の場合はむしろ特殊なのであって、社会全体としてみるなら、せっかくの才能が埋もれ、日の目を見ないまま終わってしまっている例のほうがずっと多いのではないかと思われるのだ。
■社会を停滞させる「才能嫌い」
私が挙げた例は、やや特異なものかもしれない。
しかし、日本の組織、社会が、創造性や独創性とともに自分の意見を強くもつような人間を嫌い、その能力を評価しないで埋もれさせてしまう、あるいははじき出す傾向が強いこと自体は、明らかではないかと考える。
そして、そのような事態は、社会の停滞の有力な原因の一つとなっている可能性が高い。
あえて率直にいえば、私は、日本社会では、本当の意味ですぐれた素質や独創性をもった優秀な人間のうち、制度の周辺に追われ、社会に広く散らばっている者の割合が、きわめて高いのではないかと思っている(東大を始めとする中核国立大学の卒業者にも、実をいえば、その例はかなりある)。
そして、もしもそうした人々を的確に拾い上げてその能力を十分に生かすことができれば、それだけで日本の状況は劇的に改善するのではないかとも考えている。

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瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)

明治大学名誉教授

1954年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。79年以降、裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務。2012年より現職。14年上梓の『絶望の裁判所』が大反響を呼ぶ。続編『ニッポンの裁判』、『檻の中の裁判官』ほか著書多数。

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(明治大学名誉教授 瀬木 比呂志)
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