今年9月3日、ユネスコの世界文化遺産を目指す国内候補に、彦根城(滋賀県彦根市)が文化庁の文化審議会で選ばれた。歴史評論家の香原斗志さんは「彦根城には、家康の戦略で生み出された世界でここだけにしかない稀有な特徴がある」という――。

■彦根城が歩んできた苦難の道のり
滋賀県彦根市を訪れると、「彦根城を世界遺産に」と書かれた旗や幕があちこちに掲げられ、同じ内容のポスターが貼られている。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産への登録に向け、滋賀県や彦根市がいかに必死か、ひしひしと伝わってくる。
そして9月3日、国の文化審議会は、世界遺産への登録をめざしてユネスコに推薦する候補に、ついに彦根城を選んだ。今月末までに暫定の推薦書が出され、来年2月1日までに正式な推薦書が提出される。2028年に世界遺産委員会で審議されることが見込まれるという。
なにしろ彦根城は、日本が世界遺産条約に加わった平成4年(1992)にはすでに、推薦を検討する「暫定リスト」に載る12件のひとつになっていた。それなのに一度も推薦されないまま34年も経ってしまった。地元は期待と落胆を交互に経験しながら、よくあきらめなかったものである。
25年8月26日には、2027年の登録をめざす候補として彦根城を推薦することを、文化審議会が見送った。その24年10月、彦根城はイコモス(世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議)から、「世界遺産登録の可能性がある」という事前評価を受けていた。いままでになく期待が高まっていただけに、落胆も大きかったようだ。
しかし、それから1年して、はじめての第一関門突破。
田島一成市長は、胸の鈴を鳴らしてよろこぶ彦根市のゆるキャラ「ひこにゃん」の横で、「彦根城国内推薦内定」という直筆の額を披露した。
■最大の特徴は「移築」
ところで、滋賀県と彦根市は、世界遺産への登録をめざすにあたって、彦根城が江戸時代の「大名統治システム」の象徴だと主張してきた。もう少し詳しくいえば、「日本における徳川(江戸)時代の地方政治拠点として機能した、建築及び土木の傑出した見本であり、大名統治システムを有形遺産で示すもの」という説明だった。
これに対し、昨年は文化審議会から、「単独の資産で大名統治システムを完全に表現できているかどうか」「何によって大名統治システムが日本列島における長期間の安定と繁栄とを可能にしたのか、(中略)といった大名統治システムの運用方法について説明を充実させることが必要」などと、課題を突きつけられた。
そこで今年は、指摘を踏まえて推薦書案を修正したという。結果的に、ユネスコに推薦される世界遺産候補になったのだから、よかったとはいえる。だが、彦根城には「大名統治システム」などというわかりにくい説明をするよりも、よほどわかりやすく、世界でもここにしか見られない稀有な特徴がある。それは、この城が「移築遺産」だということである。
そのことを詳述する前にまず、彦根城が「大名統治システム」をどのように象徴しているのか見ておきたい。
■「大名の統治システム」より珍しい要素
彦根城は中核部の金亀山(彦根山)に、国宝の天守を筆頭に天秤櫓、太鼓門櫓と続櫓、西の丸三重櫓などが現存し、内堀と中堀のあいだにも佐和口多門櫓や、日本の城では唯一の遺構である馬屋などが残る。いま挙げた天守以外の建造物も、みな国の重要文化財に指定されている。
それ以外に、藩主の屋敷であった楽々園や、その広大な庭園である玄宮園も城内に残る。
城郭の御殿建築が残っている例はきわめて少ないので、貴重な遺構であり、外交のための施設としても重要だった庭園も、「大名の統治システム」の一端を担っていた。また、中堀の内側には西郷屋敷長屋門や脇家屋敷、木俣屋敷などの重臣屋敷も部分的に残り、家臣たちが城の周囲に集住していた様子がいまに伝わる。
要するに、天守や櫓、門などの城郭建築が、石垣や堀などと一緒に残っているが、彦根城にはそれに加え、御殿や馬屋、重臣屋敷など、当時の「大名の統治システム」を支えていた遺構も数多い。
たしかに、そのシステムを象徴する遺構がまとまっているが、「大名の統治システム」自体、日本中どこの城にもあったもので、よく残っていることを除けば、珍しい事例とはいえない。一方、彦根城には元来、ほかの城にはない特徴と魅力があった。それが、世界に類を見ない「移築遺産」だという事実である。
彦根城の主要建造物は、ほかの場所から運ばれてきており、それは日本以外ではほとんど見られない特徴なのだが、滋賀県と彦根市は、どうしてそこに目を向けないのだろうか。その価値に気づいていないのだろうか。
■家康が大急ぎで築いた背景
彦根城の築城工事は2期に分かれ、第1期は完成がかなり急がれた。当時の藩主は、徳川四天王のひとりだった井伊直政の嫡男、直継だが、まだ幼少だったので、家老の木俣守勝が徳川家康の許可を得て、家康の支援のもと、慶長8年(1603)から工事が開始された。
家康は各大名に土木工事を負担させ、いわゆる天下普請で工事は進められたが、もちろん家康には家康のねらいがあった。当時、大坂城には豊臣秀頼が健在で、大坂とのあいだに有事が発生する可能性は低くなかった。
そこで家康は、彦根城を有事の際の前線基地に想定したのである。
一方、第2期の工事は慶長20年(1615)に豊臣氏が滅んでから、譜代大名の筆頭である井伊家の居城の築城工事として、井伊家の手で行われた。山麓に表御殿が建てられ、中堀沿いの石垣や門が元和8年(1622)ごろ完成した。
第1期に築かれた内堀の内側と、第2期に整備されたうちの中堀の内側は、現在も石垣と堀がほぼ旧態をとどめている。
■大津城の天守を改築
さて、移築建築についてである。金亀山内に天守のほか、天秤櫓、太鼓門と続櫓が残ると前述したが、これらはいずれも他所から移築された、すなわち他所に建っていたものをいったん解体し、木材を運んできて組み立てたことが明らかになっている。
三重三階の天守は、関ヶ原合戦後に廃城になった大津城(滋賀県大津市)から運ばれてきたことが確実である。『井伊年譜』には「天守ハ京極家ノ大津城ノ殿守也、此殿守ハ遂ニ落不申目出度殿主ノ由、家康公上意ニ依て被移候由、棟梁浜野喜兵衛恰好仕直候テ建候由」と書かれている。
つまり、天守は関ヶ原合戦時に京極高次が籠城し、西軍を食い止めた大津城から運んできたもので、落城しても焼失しなかったことから、家康は「めでたい天守」だとして移築を指示し、大工の棟梁がカタチを変えた、というのである。解体修理の結果でも、移築されたことと、五重か四重の建築を三重に改築したことがわかっている。
また、本丸の入口に建つ太鼓門と続櫓も、どこの城かわからないが、規模が大きな城門を移築し、小さく組み直したことがわかっている。太鼓門に至る前に、鐘の丸から堀切に架けられた廊下橋を渡って必ずくぐる天秤櫓は、左右に二重櫓をしたがえたユニークな形態だが、これも長浜城(滋賀県長浜市)の大手門を移築した可能性が高い。
『井伊年譜』には「鐘ノ丸廊下橋、多門櫓ハ長浜大手門ノ由」と書かれている。
■ヨーロッパの石造建築では不可能なこと
ほかに石垣の一部も、石田三成の佐和山城(彦根市)などから運ばれている。豊臣氏に備えるためにも築城が急がれ、工期を短縮するためには、ほかの城から建造物などを運んできてリサイクルするのが手っ取り早かったのである。
そのなかで石垣のリサイクルだけなら、世界でも普遍的な作業だが、建造物のリサイクルは日本の木造建築ならではの特徴だった。日本の伝統工法による木造建築は、金物を使わず、木材同士を継手や仕口と呼ばれる凹凸で接合する。つまり、木を組み合わせているだけなので、簡単に解体し、他所に運んで組み立て直すことができる。
そんなことはヨーロッパなどの石造建築では不可能だ。シンボルである天守を筆頭に、日本でしかできない移築を活用し、軍事的な目的に応えたのが彦根城で、しかも、それらが多く残るという世界に稀有な事例なのである。
もうひとつ、彦根城ならではの特徴が指摘できる。城とはもともとが、敵の攻撃や侵入を防ぐための軍事施設で、それが次第に領地支配の拠点となり、政治や文化の中心地にもなっていった。彦根城の場合、第1期の工事が、まさに軍事的な目的のために国を挙げて行われ、平和が訪れてのちに、第2期の工事で、藩政の拠点、ひいては政治や文化の中核となるべく整備された。
いわば成り立ちからして二重の意味を負っており、そういう城は決して多くはない。
このような彦根城だけの特徴をしっかり強調していれば、もっと早く世界遺産に推薦されていたのではないだろうか。だが、彦根城だけの価値と魅力がこんなにあるのだから、いまからでも、それらをもっとアピールすることを勧めたい。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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