■秀吉に次いで関白になった秀次
第24回:八幡山城・北之庄城(ともに滋賀県近江八幡市)
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)第35話で描かれるのは小牧長久手の戦い。羽柴軍の大将を任されるのは、山田涼介演じる三好信吉。後の羽柴秀次だ。
この戦いで秀次は家康相手に手痛い敗戦を喫し、池田恒興、森長可という豊臣家の重臣を失う。秀吉にこっぴどく叱責された手紙も残っている。ただ、秀吉に実子・秀頼が生まれるまでは天下人の後継者と目され、その後も重用されている。その後、四国征伐では大将・秀長の副将を任され、その後も小田原征伐、奥州仕置でも重役を無事務め上げ、1590(天正18)年12月28日には、関白にも就任している。
小牧長久手では大失敗したものの、その後はそれなりの結果を残しているのだが、秀次はとかく悪く描かれがちだ。その理由は、“次期天下人確定”を笠に着て、数々の悪行を行ったといわれているため。鉄砲の稽古と称して農民を撃つ、弓の試し撃ちや刀の試し斬りの対象に往来の人を標的にする、などなど。「殺生関白」なるありがたくない仇名までつけられている。
ただしこれらは、あくまで後世の創作。
■安土城を彷彿とさせる武家屋敷
秀次が近江八幡とその一帯に初めての領地を得たのは、1585(天正13)年8月のこと。石高は43万石。近江八幡は、織田信長が居城とした安土城(図表1②滋賀県近江八幡市下豊浦)から西へ5kmほど。安土の城下を賑わせていた商人たちを移転させ、新たな城下町を作ったといわれている。
■琵琶湖畔に古い城下町が今も残る
秀次は同時に、近江八幡の町を見下ろす標高272mの鶴翼山に八幡山城を築城。その南麓には居館を構える。現在は八幡公園として整備されている広大なエリアに武家屋敷が並んでいた。
直線的に延びる大手道と、その脇にズラリ並ぶ家臣団の屋敷は、安土城のそれにそっくりだ。秀次館跡からは、秀次が馬印に用いた「沢瀉(おもだか)」が図案化された金箔瓦も出土している。
■秀次が設計した水都・近江八幡
現在は埋め立てられ地形が変わっているが、安土城と城下町は、往時は琵琶湖に面していた。水運の利便性を重視した立地といえるだろう。近江八幡もまた然り。秀次は、琵琶湖から城下町の中心部まで、全長約5~6kmにもなる運河を掘削している。
陸路での輸送や移動に制約が多かった時代、水運の重要性は現在とは段違いだった。琵琶湖の水運に着目した秀次は、「八幡山下町掟書」を発する。これにより、琵琶湖を往来する商船は、必ず八幡堀を通るように定めた。
さらに船を逗留させる仕組みも構築。八幡堀の中心部に、7カ所の「浜(荷揚げ港)」を70~80m間隔で設けている。八幡堀の堀端には、かつての近江商人の邸宅や蔵が並ぶが、堀側にも門が設けられている家も多い。堀を中心とした、往事の賑わいを彷彿とさせる光景のひとつだ。
近江八幡でもうひとつ重要な遺構が古式水道。城下町は東西で約5mの高低差があり、これを利用して井戸水を送る仕組みも作られている。さらに、城下町の主に西部には、宅地の裏側に「背割」を整備。これは日本最古の下水道と呼ばれている。
今も残るこれらの上下水道が秀次時代のものかは不明だが、縦12筋、横4筋の碁盤の目状の町割は、現在もほぼそのまま残っている。
■実質的に指揮した“秀次の右腕”
以上を見るかぎり、秀次の内政巧者ぶりがうかがえるが、実はこれにはウラがある。天下人の後継者としての秀次、実は自領の近江八幡を不在にすることも多かったという。留守を任されていた“右腕”が田中吉政。秀吉に命じられ、秀次を筆頭家老として支える立場にあった。
派手さはないものの、内政に長け実直で頼りになる男、吉政。のちに木曽川の氾濫対策「尾張堤普請」の惣奉行を任されたり、柳川の堀割を整備するなど、水にまつわる知識や技術を得たのは、近江八幡での経験も大きかったはずだ。
■三方を睥睨する石垣造りの山城
八幡山城の威容は、麓から見上げるだけでも感じられるが、山頂に足を運べばよりそれを実感できる。
言うまでもなく、眺望の良さは軍事的に大きなメリットがある。八幡山城は山頂の本丸から放射状に尾根が広がっている。ロープウェイ山頂駅のある南東尾根の二の丸、南西尾根の西の丸と出丸がそれぞれ別方向に睨みを利かせている構造。
■高い石垣と鉄壁の守り
さらに必見なのは山上の石垣群だ。高石垣が段々に連なり、そこかしこに折れを伴う。あらゆる方向からの敵に対してぬかりなく、石垣が山上の城域をガッチリと守っている。
尾根はもう一本、北方向へも延びている。この北尾根だけが、城域を越えてさらに先まで続いている。実はこの尾根の先に、八幡山城の隠し砦とでもいうべき山城がある。
■八幡山城に劣らぬ土造りの山城
八幡山城からアップダウンが激しい尾根道を歩くこと約30分。強烈な勾配を上り切った先に待つのが北之庄城(図表1③滋賀県近江八幡市北之庄町)。柴田勝家がお市と最期を迎えたあの城と同名だが、全く関係はない。
標高は254m、比高150mと八幡山城よりはやや低い。同じ山城だが、石垣でガッチリ固めた八幡山城とは好対照で、こちらは完全なる“土の城”だ。だからといって抜かりはなく、手の込んだ加工がなされている。ややヤブがちなところもあるが、その遺構は今もはっきり残る。城域の広さは、八幡山城よりこちらの方が広いぐらいだ。
縦方向の落差と横方向の折れを駆使し、城内には広大な平地(残念ながらこの部分は雑草が繁茂)。なかなか良くできた山城なのだが、築城者や城主などの詳細は全く不明。一説には、かつてこの地域を支配していた六角家のものだといわれているのだが、判然としない。一部の遺構には、信長の近江侵攻以降の城に特徴的な構造も見られるという。
秀次との関わりも不明だが、少なくとも彼が八幡山城を築くより以前からあったことは間違いないはず。ということは、万一に備えて、北之庄城も整備していてもおかしくないのでは……。
■天下を継ぐことなく20代で切腹
近江八幡の城下町と居城を見るかぎり、秀次は「権力を傘に着た暴君」ではなく、内政にも軍事にも目配りの利く、なかなかの武将だったのではないかと思わせられる。小牧長久手でのしくじりもあった。若さゆえに多少のヤンチャもあっただろう。だがその後、居城と領地を与えられて以降は、宿老・田中吉政の力も頼りつつ、着々と為政者としての経験を積んでいっていたはずだ。
だが、その実力を天下人として発揮する場面は、ついに訪れなかった。1595(文禄4)年6月、突如として秀次には謀反の疑いが持ち上がる。秀吉に詫びを入れようとするも拝謁を許されず。「高野山へ行け」と伝言されやむなく従う。そして切腹。
謀反の疑いは濡れ衣で、実子・秀頼に家督を譲るための謀略だった可能性も高いとも言われている。一方、近年の研究では、秀吉が求めたのは廃嫡までで、切腹は秀次の早合点だったとの説もある。
いずれにせよ、将来を嘱望された“次期天下人”秀次は、28才で短い生涯を終え、多数いた妻子も処刑、秀次の一族はこの世から消えることとなった。
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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)

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