NHK「豊臣兄弟!」では、小牧・長久手の戦いが描かれた。徳川家康を焚きつけて羽柴秀吉と戦い、単独で講和を結んだ信長の息子・信雄は、「戦下手」「暗愚」などと評されてきた。
本当にそうだったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に信雄の後半生をたどる――。
■「織田体制が存続していた」とする見方が有力
大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、いよいよ小牧・長久手から本能寺後の権力再編へと物語が進んでいる。この小牧・長久手の戦いでキャスティングボートを握るのが、清須会議で三法師の名代の座をめぐり弟・信孝と争った織田信雄(山脇辰哉)だ。
家康(松下洸平)を焚きつけて秀吉(池松壮亮)とぶつけておきながら、いざ戦況が膠着すると当の家康に一言の相談もなく秀吉と単独講和。梯子を外された家康はさぞ白目をむいたことだろう。「戦下手」「暗愚」「二代目の道化」信雄に貼られたレッテルは、だいたいこの一戦に集約されている。
信雄がなぜここまで家康を担いで秀吉に牙を剥いたのか、そこには単なる感情のもつれでは片付かない事情がある。多くの人は、賤ヶ岳の戦いでライバル・柴田勝家が滅びたことで、秀吉があっさり絶対的な権力を握ったと考えている。しかし、平山優『』(角川新書、2024年)によれば、信雄が事実上秀吉に臣従するまでの間、実態としては信長・信雄という親子二代にわたる「織田体制」が存続していたとする見方が有力だ。信雄は建前上、いまだ秀吉の主君だったのである。
■信雄は“怒って当然の扱い”だったか
ところが、この主君の座はじわじわと侵食されていく。
秀吉は、賤ヶ岳合戦後の柴田勝家旧領の知行割を独断で実施。朝廷からの戦勝祝いの勅使や近江石山寺安堵の綸旨までもが、信雄を素通りして秀吉へ発給される。さらに1583年6月、信長の一周忌法要が問題となった。本来、喪主を務めるべきは三法師の名代で織田家を代表する信雄のはずだが、これを大徳寺で主催したのは、秀吉だった。主君の家の法事まで勝手に仕切られては、信雄でなくとも黙っていられまい。
しかも秀吉の攻勢は、信雄の周辺にまで及んでいた。信雄の重臣・津川雄光、岡田重孝、浅井長時らに次々と接触し、着実に秀吉派へと取り込んでいったのである。信雄からすれば、自分の家臣が自分を飛び越えて主君筋に直接つながっていく、主従関係そのものの逆転現象が進行していたことになる。知行も、祭祀も、挙句は家臣団までも奪われようとしている。これでは信雄が激怒するのも無理はない。
こうして1584年3月、信雄はついに一線を越える。秀吉に通じていたとされる津川・岡田・浅井の3名を粛清したのだ。
これが小牧・長久手合戦の直接の引き金となる。
秀吉にしても、言い分はあっただろう。信雄には織田家当主としての権威こそあれ、それを行使する実力も政治手腕もない。担ぐ価値はあっても、任せる価値はない。そんな評価だったに違いない。
■数年後には、官位で家康を追い抜いた
知行も祭祀も家臣団も、気がつけば静かに奪われつつある……その焦りと、器量を値踏みされている屈辱。両者の言い分は、最初から噛み合いようがなかった。感情のもつれというより、埋めようのない評価の断絶が、小牧・長久手という形で表に噴き出したというべきだろう。
もっとも、信雄が単独講和をあっさり決断しているあたり、さほど収拾のつかない対立ではなかったのかもしれない。というよりは「おのれ秀吉」とばかりに戦ってみたら、すっきりしたようにもみえる。死んだ池田恒興たちが浮かばれないが、これが史実である。
ともあれ、これ以降、権力闘争の表舞台からは静かに退場……と思いきや、信雄の人生、ここからが意外と長い。
しかも、しょぼくれて余生を送ったわけではない。
1585年2月、秀吉の推挽で正三位・権大納言に叙任。翌3月、秀吉自身が正二位内大臣に昇ると、信雄はその臣下という立場に組み込まれることになるのだが、扱いが軽くなるどころか逆である。抵抗を続けていた佐々成政の降伏を取りまとめ、秀吉・家康の和睦にも一枚噛んで実績を積み、1587年には自らも正二位内大臣に昇進。「尾張内大臣」「尾張内府」の名で呼ばれるようになる。この時点で官位の序列上、信雄は秀長よりも、そして自分がかつて焚きつけたあの家康よりも上に立っている。
極め付きは1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸だ。関白・秀吉の行列で、信雄は左大臣・近衛信輔に次ぐ第二の位置に並んでいる。要するに、武家序列の実質トップである。秀吉と戦わせておきながら梯子を外した家康を、位階の上では堂々と見下ろす立場に収まっていたわけだ。単独講和で「裏切り者」呼ばわりされた男が、数年後には家康の頭上に座っている……この落差、歴史を知らなければ誰も信じないだろう。
■改易の背景は“豊臣大名の役割の拒否”か
ところが、ここからの人生がまた波瀾万丈だ。
1590年7月、小田原征伐の論功行賞の場で秀吉は、北条氏の旧領・関八州を家康に与え、家康の旧領である駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を信雄に与えるとした。
官位も最高なのに加えて領地も急増である。ところが、信雄はこれを固辞し、先祖伝来の地である尾張・伊勢をこのまま領していたいと願い出た。すると秀吉は激怒し、信雄をその場で改易、下野国那須烏山への配流を申し渡す。捨扶持はわずか2万石だったとされている。
いきなり改易された理由は、長らく「信雄個人の資質・判断ミス」という枠組みで語られてきた。
例えば江戸時代中期の逸話集『常山紀談』では、秀吉に舞を所望された信雄が自分を侮っていると思い不吉な替え歌で唄ったために怒りをかったという、できすぎた話になっている。そこで研究者の間では、信長の息子としての利用価値の消失や警戒といった論点が示されてきた。
こうした追放の謎研究を一歩進めたのが柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』859号)だ。ここで柴は、改易の原因は信雄個人の資質にではなく、豊臣大名としての織田氏に構造的に課された立場にこそ求めるべきだとしている。この時期、徳川氏の関東移封は「関東・奥両国惣無事」実現のために豊臣政権が徳川氏に課した責任の履行だった。信雄の国替も、まったく同じ構造の要求である。豊臣大名として果たすべき責任を、信雄は拒否した。
それが改易の政治的背景だ、というのが柴の見立てである。
■家康の尽力で半年で赦免
つまり信雄は、「わがままを言って秀吉を怒らせた暗愚な二代目」だったのではない。「豊臣政権が大名一般に求めていた構造的な要求を、たまたま拒否した一人」だったにすぎない。同じ要求を出された家康は黙って従い、関東の覇者となった。信雄は断って、改易された。両者を分けたのは器量の差というより、選択の結果である。
ところが、である。天正19年(1591年)2月、家康の尽力によって信雄は赦免され、秋田からの帰還を許される。追放からわずか半年強での帰還なのだから、いくらなんでも許されるのが早い。
同様に家康の尽力によって赦免された事例はほかにもある。仙石秀久がそれだ。九州征伐の戸次川の戦いで大敗を喫し、戦線を放棄して逃亡、讃岐10万石を没収され浪人となった。
しかし、小田原征伐の報を聞くと旧臣らと共に参陣、家康の軍に「陣借り」させてもらい奮戦し、信濃小諸5万石を与えられて大名に復帰している。秀吉にとっては脅威でもある家康の取りなしというのは、もっとも有効なカードだったといえるだろう。
その後、剃髪した信雄は捨て扶持を与えられ、御伽衆として復帰することになった。
■“関ヶ原”では恩人の家康に弓を引いた
この赦免の恩、信雄はどうやら深く噛みしめてはいなかったらしい。なんと1600年、関ヶ原の戦いで信雄は西軍に与し、家康に弓を引いて再び所領を失うことになったのだ。命の恩人に矢を向けるとは、恩知らずにもほどがある……と言いたいところだが、その理由を記す同時代史料は存在しない。動機が定かでないまま、後世の記述に頼らざるを得ないのが実情だ。
新井白石が江戸中期に著した『藩翰譜』は、石田三成が秀頼の命と称して信雄に黄金千枚を送ることと、尾張復帰を約束して西軍への加担を取り付けた、と伝えている。ただし白石は信長・秀吉の代についても辛辣な評を残す江戸時代の儒学者であり、この逸話も編纂物の域を出ない。史実として鵜呑みにはできないが、読み物としての完成度は異様に高いので、まずは中身を見てほしい。
入道悦ぶ事限り無く、やがて御方に参るべき由を領掌せらる。先づ昔の家人等召し集めて、物の具拵へよ、馬求めよ、さらば其の料に黄金賜はらん、とて彼の使に附けて奉行等に乞はせければ、只白銀一千枚をぞ与へける。此の定めならんには、尾張国賜はらん事もいかであるべき、と持て扱ふたる内に、子息の宰相、大野の城にて此の結構を聴き、広きに驚き急ぎ使して、如何なる事ありとも当家の人々、徳川殿に向かひ、弓を引き矢を放つ事や候ふべき、斯かるあさましき御結構こそ候はね、と教訓したりければ、入道聞きて、是も又謂はれあり、此の上の如何がせまし、案じ煩ふ内に、関が原の合戦、事終りぬ。子息の宰相、加賀の中納言利長と共に大津の御陣に参られけれど、仕出したる事もなければ、唯何となく所領せし地失つて、入道、其の後は淀殿の所縁に附き、大坂に下り住まはれけり。
筆者訳:

入道は大いに喜び、すぐに(西軍の)味方として参陣する旨を承諾した。そこでまず昔の家臣らを呼び集め、「武具を準備せよ、馬を調達せよ、そうすればその費用として黄金を与えよう」と言い、三成の使者に託して奉行らに黄金を要求させたところ、(約束の黄金ではなく)わずか白銀一千枚しか与えられなかった。「このような調子では、尾張国を賜るという話もどうして当てにできようか」と処置に困っていたところ、息子の宰相(織田秀雄)が(自身の居城である)大野城でこの企てを聞き、その無謀さに驚いて急ぎ使者を送った。
「どのような事情があろうとも、我が家の人々が徳川殿に向かって弓を引き、矢を放つようなことがあってよいでしょうか。これほど呆れたご計画はありません」と(父である入道を)諌めた。
入道はこれを聞き、「それもまたもっともだ。この上はどうしたものか」と思い悩んでいるうちに、関ヶ原の合戦が終わってしまった。
息子の宰相は、加賀の中納言(前田利長)と共に東軍の大津の陣へ参上したものの、格別の功績を立てることもできなかったため、ただなんとなく所有していた所領を失ってしまった。
(新井白石『新編藩翰譜』第5巻 人物往来社、1968年)

恩を忘れて金に目がくらみ、息子にまで諌められる。それでいて肝心なところでは決断できず、その煽りを食って息子まで所領を失う。無茶苦茶な話だ。
■消えていない“織田家の当主の存在感”
それでも、である。信雄という男、懲りずにまた「頼れる縁故」を見つけてしまう。今度の頼み先は、従妹にあたる淀殿だ。大坂城に転がり込んだ信雄は、かつての家臣・織田有楽斎(長益)と共に、下にも置かない扱いを受けている。どう考えても、没落しそうな状況なのに、なぜか大坂城の中枢近くに居場所を確保しているのである。
前述の柴論文では、大坂天満に暮らしていた信雄はなおも権威を持っていたとしている。大坂の陣が迫った1614年には、当主の秀頼を大坂城から退去させ、信雄を大将に擁立する動きがあったこと。その秀頼から密談が持ちかけられていたことを指摘し「いまだかつての天下人織田家の当主としての存在感を持ち続けていたのである」としている。
ただし、担がれる側の信雄にその気はまるでなかった。
この時期の信雄の数少ない「実績」らしい実績といえば、裏切り者と見なされた片桐且元を逃がしたことくらいだろう。豊臣家中で家康との内通を疑われ、命の危険にさらされていた且元を、結果的に助けるというエピソードもあるが、基本的にはなにもしていない。
そして、いよいよ戦が近づくと大坂を退去し徳川に従う態度を鮮明にするとともに、京都に滞在し大坂の陣の期間を通じてまったく動かなかった。
■“なにもしなかった”ことで5万石の大名に
このなにもしなかったことは、信雄にとってはプラスに作用した。家康はこの対応を褒め、1615年7月には大和宇陀郡3万石と関東の2万石、計5万石を与えている。一度は裏切った形になった相手から賞されるのだから、もはや権威というよりは人徳である。
しかし信雄は領地に赴くこともなく、京都で茶と鷹狩りに興じる一生を過ごし、1630年に死去する。
この晩年にも、信雄は「看板」の強さを見せつけている。上野国甘楽郡の小幡領に造らせた庭園、楽山園だ。現存する池泉回遊式庭園は、前田・池田ら諸大名から資金を集めた豪壮な作りである。諸大名からカネを引き出せる名前の力もすごいが、もっとすごいのは、信雄が一度もこの庭園を訪れていないことだ。完成が1621年、晩年も晩年だったとはいえ、金だけ集めて自分は行かない……これはもう、とんでもない贅沢の極みである。
思えば、信雄の生涯は「信長の息子」という看板を、どう使うかの試行錯誤の連続だった。若い頃はこの看板で天下を狙えると本気で信じていた節がある。清須会議で名代を争い、賤ヶ岳前夜には織田政権の当主として振る舞った。だが、看板だけでは政治は動かせないということを、信雄は苦い形で学び続けることになる。小牧・長久手では家康を焚きつけておきながら自分だけ講和し、改易され、関ヶ原では金の交渉に手間取っているうちに天下分け目の合戦そのものが終わっていた。
■「織田信長の息子」の看板で生き延びた
どこかの時点で、信雄は悟ったのだろう。俺は天下を獲る側の人間じゃない、獲った人間に担がれる側の看板でしかない、と。だったら無理に権力闘争の主役をやる必要はない。看板の効能だけを、のんびり享受して生きればいい。
考えてみれば、信雄の人生観はある一点に集約できる。切腹さえ言い渡されなければ、あとはどうとでもなる。改易されようが、蟄居させられようが、烏山だろうが秋田だろうが、誰かしらが金と居場所を用意してくれる。本人が汗をかいて勝ち取ったものは、実はほとんど何もない。ただ「織田信長の息子」という看板を提示し続けるだけで、次から次へと誰かが養ってくれるのだ。これはもう処世術というより、一種の才能である。
天下を獲ることには最後まで向いていなかった男が、天下を獲った者たちに愛想よく養われ続けることには、誰よりも向いていた。信長の息子という看板は、信雄自身の手では一度も使いこなせなかったが、信雄という人間そのものは、切腹さえ免れればあとは野となれ山となれと、その看板にちゃっかり食わせてもらい続けた。それが、48年にわたる信雄の後半生である。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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