■四国の名門・長宗我部家はなぜ没落したのか
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。物語は秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)による天下統一へと話が進んでいる。9月20日放送の第36回「姫若子と鬼若子」からは、いよいよ四国攻めが始まる。
これに前後して注目されるのがNHK松山放送局が制作した関連特別番組「長宗我部兄弟!」だ(四国では18日放送。全国放送は23日)。この番組、長宗我部元親(演:土佐兄弟・卓也)、香宗我部親泰(演:土佐兄弟・ゆうき)とお笑いコンビ・土佐兄弟の二人が演じるということで放送前から話題となった。なお、二人とも本名だが東京都生まれで実家は日本橋で呉服屋を営んでいた(2024年2月23日「読売新聞」)。
この長宗我部氏、土佐の小領主から身を起こし、四国統一目前まで駆け上がった元親と、その右腕として各地を駆け回った親泰の二人の活躍ぶりは、特番のほうでたっぷり堪能できるはずなので、ここでは深追いしない。
問題はその後だ。
四国を統一しかけた男の家が、なぜここまであっけなく潰えたのか。
本稿で掘り下げたいのはここだ。元親の武勇伝ではなく、その晩年から、跡を継いだ四男・盛親の代で改易に至るまでの、あまり語られてこなかった転落の過程である。
■わずか10年で四国統一目前
秀吉政権下に組み込まれた戦国大名の中には、前田や島津、毛利のように、外様としてしぶとく江戸時代を生き延びた家も少なくない。しかし長宗我部家は、関ヶ原のあと、あっけなく改易され、大名としての土佐は「山内の国」になってしまった。元親自身、秀吉から大隅一国加増の話があった際にこれを固辞したと伝わるほどの実力者だったにもかかわらず、である。
考えてみれば、元親の人生は波瀾万丈だ。主家筋にあたる土佐一条氏の当主・一条兼定を1574年に豊後へ追放したものの、翌75年には兼定が旧領奪還を狙って土佐に舞い戻ってくる。これを四万十川の戦いで叩き潰し、ようやく土佐一国を完全に手中に収めた。
そして、ここからの元親は速い。
信長との関係を築きながら、1578年には早くも凋落しつつあった三好氏を追って阿波へ出兵。讃岐では名族・香川氏を取り込んで国人衆を次々になびかせ、十河存保ら三好方と各地で刃を交える。伊予でも、中予の河野氏、南予の伊予西園寺氏を相手に同時並行で戦線を広げていく。
1585年には、河野氏がついに抵抗をやめ、元親は四国統一目前に至った。ここまでわずか10年なのだから、とてつもないスピードだ。
■秀吉に降伏→嫡男・信親を失う→後継者選びに苦悩
ところが、同じ1585年に秀吉は四国に侵攻、わずか1カ月で元親はあっさり降伏。阿波・讃岐・伊予の三国をまとめて没収され、手元に残ったのは、土佐一国だけだった。
十年かけて切り取った四国を、1カ月で吐き出す。このスピード感の落差こそ、元親という男の、そして、この後長宗我部家に起きることの、ある意味で予告編だったのかもしれない。
この後、秀吉に恭順した元親は1586年、嫡男の信親と九州征伐に出陣。しかし、その年の12月、軍監である仙石秀久の采配のもとで行われた戸次川の戦いで大敗、信親までをも失ってしまう。
嫡男として誰もが認める存在だった信親を失ったことで元親は新たな後継者選びで悩まされることになる。というのも、次男の親和は四国統一の過程で西讃の有力者だった香川之景の養子となり、四国征伐で香川氏が改易された後は土佐で暮らしていた。
江戸時代に成立した元親の伝記である『元親記』によれば、秀吉は親和(五郎次郎)を跡継ぎにするよう朱印状を出していたが、元親にはその気はなかった。
そうなってからようやく家臣の吉良五郎兵衛が、元親に朱印状のことを告げた。これを知った元親は「さてさて奥の深き人かな。御朱印の事今までに披露なし。国の儀はその方へ渡し候ふぞ(なんと奥ゆかしく思慮深い人物であったか。御朱印の件を今まで誰にも披露しなかったとは。土佐の国はそなたに譲るぞ)」と告げるが、時既に遅く親和は死んでしまったという(高島正重 著、土佐文学研究会 注釈『元親記』土佐史談会、1972年)。
■家老の讒言で一族混乱、四男・盛親へ家督移譲
朱印状を元親にすら見せなかったとは、真実味に欠ける話である。この『元親記』には後継者選びに関する別系統の話も載っている。そちらでは、元親は、四男の盛親を跡継ぎとしたかったが、重臣次第だとして口には出さなかった。
そうしたところ家老の久武親直が、「吉良親実(元親の甥)は、土佐の豪族・津野氏へ養子に送り込んでいた元親の三男・親忠を当主に据えようとしている」と讒言した。長男・信親を戸次川で失い、次男・親和もすでに亡い以上、序列からいえば親忠こそ次の当主として真っ先に名の挙がる立場である。
これは家中でも衝撃だったのか、親実は死後現在まで怨霊伝説として名前を騙られている。四国でよく知られる怪異である七人ミサキは、親実とその主従の無念の死に由来するものとされている。
ただ実際のところは、津野氏と吉良氏は土佐国内において長宗我部氏と同等の勢力を持つ国人であり、その勢力が結託し拡大することが警戒されたのではないかと考えられている(平井上総編『戦国武将列伝10 乱世150年を彩った郷土の人物伝 四国編』戎光祥出版、2022年)。
ともあれ、元親が盛親に家督を譲ったのは文書からは1594年頃と考えられている。しかし、家督相続は完全なものではなく、この後も重要案件に関しては元親の文書が見られる。この背景には、いまだに長宗我部氏内部には対立が残っていたためとみられている(津野倫明『長宗我部氏の研究』吉川弘文館、2012年)。
■性急さが、家督の資質を疑わせたか
津野は文書を基に、元親から盛親への権限移譲過程の中で、盛親の発給文書からは性格の性急さがみられることを指摘し、慶長の役の際に臼杵城主・太田一吉の軍医・従軍僧として渡海した慶念の人物評である「しとく(しとしと)とのへたまハんハ土佐のかミ〔土佐守(元親)という人は、物事をゆっくりと焦らず、しかし極めて綿密かつ確実に行うお方だ〕」と、対比して、こう記している。
元親と盛親は親子とはいえ、随分と気性がちがっていたのである。このことはおそらく豊臣政権も知るところであり、性急さがみられる盛親は家督として資質に欠けると判断されたのかもしれない。(前同)
こうして関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗戦後は改易されることになる。西軍に属したとはいえ、盛親は戦後いち早く大坂まで出向き、家康への謝罪と土佐一国安堵の嘆願を行っていた。
しかし、平井上総「関ヶ原合戦と土佐長宗我部氏の改易」(『日本歴史』718号、2008年)は、一次史料の検討から、より根の深い理由を指摘している。
■詫びを入れながら家中を抑えられない当主
盛親は関ヶ原からの帰国後、1600年10月末から11月上旬にかけて早々に大坂へ上り、家康の家臣・井伊直政やその配下の鈴木重好らを通じて謝罪を申し入れ、土佐一国だけでも安堵してほしいと嘆願していた。史料からは、この段階で徳川方が一定の温情的な扱い、すなわち「御堪忍分」を与える方向で検討していた形跡すら窺える。つまり、頭を下げて回っていた盛親個人に関しては、まだ交渉の余地が残されていたのである。
ところが、土佐ではとんでもないことが起きていた。
本拠地の浦戸城を受け取るために派遣された鈴木重好らに対して、浦戸城では抗戦継続を主張する家臣団が実力で城の引き渡しを拒み、明け渡し役の使者を迎え入れようとしなかったのである。この浦戸一揆は、今後の身分確保などさまざまな不安から起こったものだが、いずれにしても明白な公儀に対する反抗であった。なにより、家康の側からみれば謝罪の言葉と、家中の実際の統制状況がまったく一致していないという許しがたい状況だった。
このように、改易の決め手になったのは、久武親直の讒言に端を発する一族間の粛清劇そのものというより、「詫びを入れておきながら家中も抑えられていない」という、統治能力そのものへの根本的な不信だったというのが、平井の見解である。
■土佐国は“山内家のもの”に
平井によれば、降伏による「御堪忍分」は土佐一国となる可能性が高かったが、それは完全に失われてしまい土佐国には新たに山内一豊が入ることとなったのである。
盛親自身の資質をうんぬんする史料は限られているため、断定はできない。
その後の盛親の人生はよく知られている。伏見で浪人することになった盛親は、大名復帰を目指すが成功せず、大坂の陣では豊臣方に馳せ参じた。ここでは、果敢に戦った盛親だが大坂城落城後は逃亡、京都に潜伏していたところを発見され六条河原で斬られたのである。
こうして長宗我部の嫡流は絶えたが、それゆえにかえってさまざまな後日談を生むことになった。寺石正路『長宗我部盛親』(土佐史談会、1925年)は、盛親の血脈を巡るいくつもの系統や伝承を書き残している。
■“長宗我部家”は東北や九州で続いたか
ここでは、仙台藩士・柴田家は長宗我部盛親の後裔だと記している。盛親の娘は、長宗我部の家臣であった上野内膳の子・平太夫に嫁いだ。この娘と平太夫の系統(子孫)は筑後柳川の立花家に仕えたのち、仙台藩士となった。伊達騒動(仙台騒動)の際、幕府の大老・酒井雅楽頭の邸宅で原田甲斐を斬りつけ、自らも命を落とした柴田外記朝意(柴田宗朝の養子)は、この系統から出たと同書は主張している。同書では、長宗我部の系統の中でもっとも確実性が高いものとされている。
同書は異説も載せている。平太夫はもとは長宗我部の家臣で、改易後は筑後柳川の立花家に仕えていた。大坂落城の時、盛親の娘は平太夫に助けられ、後にその妻となる。子孫は「秦氏」を名乗り、代々柳川に続いたとしている。
一方、盛親の妻が男子を連れて奥州に下り仙台藩に仕えたという話や、盛親の子が商人となって奥州に下り、母の死を悲しんで仙台藩の奥方に仕えたという話も伝わっている。いずれにしても、同書自身が「別人の伝承との混同や誤りが多い」と釘を刺しており、史実として扱うのは難しい。
さらに時代が下ると、世間の講談や噂話の中で「盛親の落胤」を自称する人物まで現れる。慶安の変の首謀者の一人・丸橋忠弥は、自らを「長宗我部盛親の庶子」と称し、徳川への仇討ちを掲げていたという。また、仇討ち物として知られる田宮坊太郎についても、その父・田宮源八郎の妻が盛親の娘であり、盛親が在京中に生まれた子だとする説が、後世の戯曲・講談の中で語られている。もっとも、これらはいずれも真偽不明の後付けの話とみるべきだろう。
■2025年に最後の当主が選んだ絶家
大坂の陣の敗北によって盛親の直系男子は処刑され、長宗我部本家は完全に断絶した。だからこそ、その血を引くと称する者たちが各地に現れ、あるいは実際に血脈をひそかに繋いだ者もいた。かつて四国に覇を唱えた大名の末路が、講談の主人公の出自として消費される。これもまた、長宗我部家という物語の、もう一つの結末なのかもしれない。
もっとも、講談の題材になった庶流とは別に、長宗我部の血を正式に受け継いだ家系も、実は途絶えていなかった。元親の弟・島親益の系統は、身分こそ下士ながら土佐藩士として存続し続け、明治になってから改めて「長宗我部」の姓を名乗るようになった。
その最後の当主にあたるのが、長宗我部友親氏である。友親氏には実子がなかったが、養子を迎えて家を存続させるという選択肢を、自著『絶家を思う』(新講社、2017年)の中で自ら退けている。そして2025年、友親氏の死去とともに、この長宗我部宗家は正式に幕を下ろした。
四国統一目前まで駆け上がり、久武親直の讒言に振り回され、浦戸一揆で改易され、庶流は講談の主人公にまで身をやつした長宗我部家。その家名を継いだ血脈は、江戸から明治、令和の時代まで生き延びた末に、当主自身の意志によって、ようやく幕を閉じたのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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