NBA史上屈指のカリスマ、アレン・アイバーソン。その圧倒的な闘争心は、どこから生まれたのか。

1992年、故郷バージニアで過ごした夏、彼は身近な友人たちの死や暴力を何度も目の当たりにする。一方で、その怒りをバスケットボールへと注ぎ込み、AAU全米大会で頂点へ。本稿では書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』の抜粋を通して、後にNBAドラフト全体1位へとつながる“伝説の夏”を、自らの言葉で振り返る。

(文=アレン・アイバーソン、訳=岩崎晋也、写真=AP/アフロ)

「あの夏、オレは死に取り囲まれていた」

オレは練習とプレーに明け暮れた。1992年のシーズン後の数か月、コートがオレの聖域だった。そのことは、現役のあいだずっと変わらなかった――そこに立つと、とんでもない事件もゴタゴタも消えていった。コンクリートのコートから木製のサーフェスで空調の効いた体育館、さらにはアリーナへと舞台は移り変わっても一緒だった。

だけど、あの夏は……ひどい夏だった。コートから降りたとたん、人生に顔をぶん殴られることもあった。

あの夏のオレは、死に取り囲まれていた。

たくさんの人を失った。数えきれないほど。それがいちばんひどいところだ。

何がどの年に起こったのかさえ覚えてないんだ。

なかでも最悪だったのがトニー・クラークのことだ。ペテン師。詐欺師。ケンカ屋。朝には手ぶらで家を出て、新品のチャリに乗って家に帰ってくる男。あのときのことは昨日のように覚えてる。あいつの従姉妹が走ってきて、こう言った。

「死んじゃった」。心が沈んだ。「誰のことだ?」。「トニー。

トニーが死んだの」。

オレは走って従姉妹のあとをついていった。遺体はもう動かされていたが、スチュアート・ガーデンズの敷地内の道路には血痕が残ってた。あのことはいまも心が痛む。状況もめちゃくちゃだった。ドラッグ関連の抗争とか、そんなことじゃなかった。ガールフレンドに喉を刺されたんだ。あいつから殴られつづけていて、自分の身を守るためだったそうだ。

もうひとり、近所の奴が殺された。名前はここでは言わないでおく。みんなから恐れられていて、いつも酔っぱらってた。そいつはクラック中毒者といさかいを起こした。

それで、とくに理由もなく相手をぶちのめしてしまった。ある日公園でバスケをして、夕暮れに家に帰ってきたら、そいつが倒れてるところに出くわした。いつもみたいに酔ってるんだな、と思った。だけどそうじゃなかった。あのクラック野郎とやりあってたのは間違いないから、そいつに撃たれたんだ。心臓に一発だ。

オレはこんなひどいことを、どうやってくぐり抜けてきたんだろうか。立ち止まって考えるなんてできない。そんなことをしたら終わりだ。ありがたいことに、うちの子どもたちはそんな目に遭ったことはない。

そして、もうひとり。いい家の出身で、葬儀屋の息子だった。

だからこいつはほかとはちがう。金を持ってて、いつもネックレスをつけてうろついてた。何人かと揉めて、そいつらが文句を言いにきた。聞いたところでは、腕を銃で撃って落とし前をつけようとしただけらしい。ところが弾は腕を通過して、胸に到達した。その日、これはグレン・ガーデンズでのことだったが、オレは騒音を聞きつけて走っていって、あいつが地面に転がってるのを見た。葬式では、幼いあいつの息子が棺桶(かんおけ)の上で大泣きしてた。

オレはドラッグを売るのはやめたが…

全員を挙げることはできない。言ったように、覚えてさえいないんだ。でもそれが当然だ。オレはドラッグを売るのはやめたが、ストリートの仲間たちは続けてた。走りまわって、何もかも同じようにやってた。オレの家には仲間たちの銃が隠されてたし、強盗や、銃撃戦もあった。

いつ誰が死んでもおかしくなかった。そんな状況だった。その後、幼なじみのラーが殺されたときにあれほどつらかったのは、あそこから抜け出したあとだったからだ。もう足を洗ってたっていうのに。

自分については、こうしたことが危険だとは知ってたが、心のなかではただこう考えていた。オレには起こらない。誰にも何もしてないんだから。オレは誰がどの程度のものかわかってた。誰が人殺しで、誰がそうじゃないかわかってた。問題を起こしたがってる奴とそうでない奴がわかってた。強盗をする奴とそうでない奴。ドラッグを売ってる奴とそうでない奴。

誰が吸ってるか。だから、問題の避けかたはわかってた。それにストリートではいっさい敵を作らないようにしてた。

でも神に誓って、これは全部、8歳のときにママから言われたことのおかげだ。「おまえはスポーツ選手になる! バスケットボールがやりたいの? フットボール? おまえがやりたいなら、できるよ」。ママはオレに、ストリートのくず全員を合わせたよりも価値がある存在だと言った。そして本気でそれを信じてた。ママはおまえができるって言っただろ、って。だからオレはそうなるために、必死で努力した。ひたすらやりつづけた。まわりでどんなゴタゴタが起こっていても。外へ出かけて、暗くなるまでコートで何時間も費やした。

オレはめちゃくちゃハングリーだった。バスケをやるんだ。家のなかに食べ物がない? 誰かに怒りをぶつけてやる。友達が通りで死にかけてる? フットボールをやろうぜ、クソったれ! オレは怒ってんだ! 誰かをぶっ飛ばしたい、なんでもいいからオレにやらせてくれ。

あの1992年の夏、オレはその怒りを国全体にぶつけた。

オレが支配しなきゃならない

高校のバスケットボールが終わると、サマーリーグの季節だ。アマチュア運動連合(AAU)のサマーリーグ。当時はいまとはちがっていた。誰でもプレーできるわけじゃない。優秀な選手だと証明しなければ、あのころのAAUには参加できなかった。

それまで対戦してきた奴らみんなが、いまや力を合わせてひとつのチームになった。オレとベゼル高校の相棒トニー・ラトランド、ケコータン校のファイサル・アブラハム、ハンプトン高校のデーモン・バコーティもチームに入ってた。ノーフォークのモーリー高校から来てたのがジョー・スミスだ。メリーランド大学に行って、あらゆる賞をかっさらい、オレの前年にNBAのドラフトで全体1位指名された、あのジョー・スミスだ。あの年彼は高校4年になる前の夏で、まだそれほど有望視されていなかった。メリーランド大で勝ちまくったことで世界に衝撃を与えた。

ともかく、これがブー・ウィリアムズのチームだった。ブー・ウィリアムズは1980年代からバージニア州のサマーリーグを運営していた。自身も選手で、フィーバス高校や、フィラデルフィア(またしてもフィラデルフィアつながりだ)のセント・ジョセフス大学、さらには代表でもプレーしていた。バージニア州に戻ってきてサマーリーグを設立し、ほとんどゼロから、信じられないほどのものに発展させた。このスポーツ組織で、彼は莫大な建設費用がかかるスポーツ複合施設を手に入れた。1992年の時点ではまだそうではなかったが、大きなリーグで、サマーリーグに参加していいプレーをすれば、遠征チーム(ハンプトン・ホヤーズ)に加わることができる仕組みだった。その権利は自分で勝ち取らなきゃならない。1992年の夏に、オレはそれを勝ち取った。当然入るだけの実力を備えてた。

コーチはビル・トーズという、厳しい人だった。この人は過去のホヤーズの実績を大切にしてた。AAUの全国大会で優勝したことがあったんだ。そのときの選手が、名前は聞いたことがあるだろう、アロンゾ・モーニングだ。で、トーズ・コーチはオレたちの言うことをてんで聞かなかった。何か言ったら、88年の全国優勝のことを持ちだしてきた。でもそんな昔の話なんか聞きたくなかった。

その年のAAUのシーズンは、4月のブー・ウィリアムズ招待から始まった。それは地域のAAU主催トーナメントで、各地のチームが集まった。そこでその年、オレたちははじめて一緒にプレーした。

バスケットボールには必ずチーム作りがついてまわるが、それは近所の仲間だったり、同じ学校の生徒だったり、この場合のように、地域の選抜チームだったりする。それでも集まってプレーを始めれば、誰がやれる奴かはすぐにわかる。リーダーが決まって、いちばんうまい選手が決まる。自然なことだ。練習でもそうだし、試合でもそうだ。理屈なんかない。必死で頑張ってつぎのレベルに達すると、もう一回同じことが起こる。そうやって自分がいかに優秀か――またはそうでないか――ということに目覚めていく。

この最初の大会では、まだ手探りだった。それでもオレの見せ場はやってきた。いくつかのダンク、スリーポイント、スティール。フロリダのチームに決勝で負けた。接戦で、76-79だった。終わったときの感触は、いまではよく知ってる感覚だった。頭を抑えられちゃいけない。奴らにオレを止めさせちゃダメだ。オレが支配しなきゃならないんだ。それを現実にし、行動に移す。それこそオレがやるべきことだ。

ナイキからの招待。高校3年はわずか25人

あの年の5月、オレはさらに注目されるようになっていた。ナイキから、全米で120人のひとりとしてキャンプに招待された。そのうち、高校3年はわずか25人だった。その招待を受けて、オレは思った。よし、オレは本物なんだ。みんなは驚いてた。オレはまだ全国規模で認知されてるわけじゃなかったから。チームでは、招待されたのはオレとジョー・スミスだけだった。

その年の夏、オレたちはブー・ウィリアムズ・サマーリーグで優勝し、決勝でオレは35点を挙げ、MVPのトロフィーをもらった。それから、チームはワシントンDCでのトーナメントに遠征した。そしてDCのチームを破って優勝した。今回は頭を抑えられなかった。オレは36点取ってチームを率い、このときもMVPになった。

でも、記憶にあるのは、アロンゾがやってきて、チームに話をしたことだ。ちょっとした激励だった。なんと、彼にそこで会えたんだ。オレがこれからやろうとしてたことを、すべて実現しつつある人だった。ちょうどジョージタウン大でのキャリアを終えたところ。シャキール・オニールについで、ドラフト全体2位でシャーロット・ホーネッツに指名されていた。そして翌シーズンには、やはりシャックについで新人王投票2位になる。

チームと遠征を重ねるにつれて、こんな出会いがもっと増えていった。自分の未来を見ることになったんだ。あの日アロンゾは、優勝することの意義を語ってくれた。いいかい、誰ひとりとして、本当にただのひとりすら、オレたちが優勝するとは思ってなかった。でもオレは自分に言い聞かせた。絶対勝ち取ってみせる。

AAUの全国大会は、1992年7月末に、ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムで行われた。そこに全員が集結した。初戦、オレは21点で、オクラホマのチームに楽勝した。つぎの試合が強烈だった。クリーブランドのチームと戦ったが、相手は強かった。終了間際、2点ビハインドで、オレがファイサルにパスし、あいつがダンクで決めて1回目のオーバータイムに持ちこんだ。そこも同点で終わり、2回目は3点リードの場面で、向こうにハーフコートショットを決められて3回目に突入。オレは心のなかで言った。この試合は絶対に勝つ。3回目ではチームの全7点をオレが挙げ(トータルで33点)、勝利を収めた。

そのつぎは、ウィスコンシンのチームを吹き飛ばした。さらにアーカンソーとメンフィス相手に2勝。オレはそれぞれ37点と26点。トーナメントを勝ち上がるにつれて、敵は強くなっていって、適応しなきゃならなかった。離れて守ってくるディフェンスに対してもっとスリーを打ち、インサイドの相手がでかければ、仲間へのパスを増やした。ともかく、やるべきことは見えていた。自分たちのチーム力が上がるにつれて、オレはもっと手がつけられなくなり、さらにチームの中心になっていった。

死と隣り合わせの日々から、AAU全米制覇へ

チームは決勝にたどり着いた。オレはチームの核になっていた。大きな大会で、そういうプレーをしていると、みんながオレを見るようになる。廊下を歩いてると、指をさされはじめる。最初からこれほど高い評価をされてたわけじゃなかった。その年、ブー・ウィリアムズのチームが優勝するなんて、誰も思っていなかった。大方の人ははじめ、ノースカロライナのチームのことで持ちきりだった。彼らには本物のメンバーが3人いた。そう言っておこう。ジェフ・マキニスとジェフ・キャペル、それにもちろん、ジェリー・スタックハウスだ。会場入りするなり、すべての目が彼らに注がれていた。決勝の対戦相手だった。

決勝はオレがプレーしたAAUの大会でいちばん激しかった。最初はリードを奪われたが盛りかえして、ハーフタイム直前にオレがロングスリーを入れて1点リードした。後半に入ると、相手はオレを追いかけてまわし、ボールを持たせないようにした。それでもどうにか25点稼ぎ、6アシストでチームを引っぱった。ディフェンスではマキニスについた。オレより背が高かった。ガードなのに、身体でぐいぐい押しこんできた。NBAに入ってから、よくされるようになった攻撃と同じだ。

このゲームでオレはファウルが増えて、ついに残り2分、3点リードの状況で5つ目をもらって退場になった。ゲーム終盤をベンチにすわって見てるのはつらかった。だが、78-78の同点に追いつかれたあと、タリク・ターナーがスピンで相手をかわし、得点した。これで2点リードし、最後もフリースローをきっちり決めてリードを保った。

相手が最後のショットを外すと、みんながコートに走りこんだ。オレたちは抱き合い、踊った。この“オレたち”には、トーズ・コーチも入ってるし、ブー・ウィリアムズも入ってる。みんなだ。オレたちはひたすら幸せだった。

それから、オレがMVPに選ばれたと告知された。トーナメントには56チームが参加し、そのほとんどが新高校4年生たちだった。全員、オレより大きかった。オレよりも注目を集めてここに来た人も多かった。でも大会が終わったとき、その評価は変わってた。あのトーナメントですべてが変わったんだ。これは、誇張でもなんでもない。突如として、オレは全国ナンバーワンの新高校3年生になった。ベストのガード。最高だ。

【連載第1回】「練習、練習って…」は誤解だ。NBA伝説アレン・アイバーソンが初めて明かす“あの会見”の真実

【連載第2回】「バスケはヤワだから嫌いだった」NBAレジェンド、アイバーソン少年の意外すぎる原点

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』から一部転載)

※次回連載は8月21日(金)に連載予定

<了>

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[PROFILE]
アレン・アイバーソン
1975年生まれ、アメリカ・バージニア州ハンプトン出身。ジョージタウン大学を経て1996年NBAドラフト1位でフィラデルフィア・セブンティシクサーズに入団。新人王を皮切りに、2001年のシーズンMVP、得点王4回、オールスター選出11回など数々の金字塔を打ち立て、2013年に正式に引退。2016年には殿堂入りを果たす。2021年にはNBA75周年記念チームに選ばれたバスケットボール界最高の選手のひとり。攻撃的で速いプレースタイルに、ファッションと自己表現を統合した画期的な存在。アスリートが個性を打ち出す時代を先取りし、1990年代後半から2000年代はじめのアメリカ文化を牽引した。またリーボックと全キャリアにおよぶパートナーシップを結び、現在は同社のバスケットボール部門副社長を務めている。

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