「取り巻きとは縁を切れ」「スーツを着ろ」「NBA選手らしく振る舞え」──。フィラデルフィア・セブンティシクサーズでのルーキーイヤーからアレン・アイバーソンは、コートの外でも数え切れないほどの批判を浴びてきた。

それでも彼は、地元の仲間も、自分のスタイルも決して手放さなかった。のちにNBAの文化そのものを変えることになる“アイバーソンらしさ”は、どのように生まれ、なぜ貫かれたのか。書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』の抜粋を通して、その原点を深掘りする。

(文=アレン・アイバーソン、訳=岩崎晋也、写真=ロイター/アフロ)

オレが溜まってた請求書を全部払い、すべて片をつけた

オレはジョン・トンプソン・コーチの庇護(ひご)を離れて、兄弟愛の街にやってきた。誰にも指示されないという意味で、ひとり立ちした。だけど刑務所から出たときと同じように、ひとりきりにはなりたくなかった。それでバージニアを離れるときには、家族と友人たち、ハンプトンやニューポートニューズの面々を一緒に連れてきた。

フィラデルフィア郊外のコンショホッケンに家を買った。みんなで暮らすための家だ。ママはそこでオレのふたりの妹、ジェシー叔母さん、スティービー叔父さん、グレッグ叔父さんと過ごした。そしてあの1年目は、アーニーやマーロン、イー、ラーといった友人たちもあの家に泊まってた。かなり混みあうこともあったから、つぎの年には、友人たちをホテルに泊まらせるようになった。

みんなを連れてきたのは、この生活を楽しむためだった。

ママには、オレが刑務所から出たあとすぐに欲しがってた赤いジャガーを買った。その年の12月に自分の新しいレンジローバーを買うと、それまで乗ってたレクサスは叔母さんにあげた。オレが溜まってた請求書を全部払い、すべて片をつけた。そこを引き払って、全員を連れてきた。

子どものころみたいに、夜はたいてい起きてた。みんなが眠るときに、オレの本番が始まる。門限はない。トンプソン・コーチの規則もない。好きなときに外出できた。

最近では、シクサーズはカムデンに大規模な練習施設を構えてる。プールや美しいコート、食事ができる施設があって、表にはアレン・アイバーソンの銅像まである。当時、オレの銅像ができるはるか以前は、ちょっとちがってた。

練習はシティライン・アベニューから少し離れたところにあるカレッジ・オブ・オステオパシック・メディシンでやっていた。メインライン地区の近くだ。コンショホッケンは州間高速道路76号をもう少し先まで走ったところにある。

いつかははっきり覚えてないが、あるとき練習場からシティラインをちょっと行ったところにあるTGIフライデーズに入った。そこがいつもの場所になった。クラブやら何やらに行くこともあったが、ゆっくりしたいときはフライデーズに行った――練習や試合のあとに。いつもの席はオレたち専用だった。飲み食いして、外が明るくなるまでいたこともあった。モノポリーはずっとやってたから、オレのためにモノポリーのボードが用意されてた。

もうひとつ、よく行ってたのがシーフード・レストランのディナルドだった。週に何度か、そこでカニを食べてた。地元にいた子どものころみたいだった。

ちがうのは、橋に行って自分で獲ってこなくてもいいことだ。そして支払いは保証されてるから、友人たちはいつ行っても食事できるようになってた。数年前、閉店したときには心が痛んだ。当時はオレや地元の友達のために、クレジットカードの情報を店に伝えてあった。

「友人を切れ」と言われても、譲れなかったもの

地元の友人たちは、ほぼ最初から問題視された。シーズン開幕前の9月に、ハンプトンで、オレの友達が運転してる車に弾丸が撃ちこまれた。普通は見出しになるようなことじゃないが、撃ちこまれたのはオレの車だったんだ。オーナーのパット・クローチは友人たちに、シーズンが始まる前、オレに面倒をかけたらおまえたちの家を燃やしてやると伝えていた。パットはあいつらを知ってたから、オレはパットがそんな冗談を飛ばしてるのを気にしてなかったが、パットがそう言ったと新聞で報じられたことにはムカついた。

そして、年が明ける少し前に、ニューヨークのある新聞に、オレの「取り巻き」がスタック(ジェリー・スタックハウス)の「仲間」とジムで衝突したと書かれた。オレはそんな場面にいっさい遭遇してない。それにオレとスタックはどちらも、それを強く否定した。記者はあとでそれを撤回したが、誰も事実なんか気にしてなかった。

すでに状況は決まってた。アレン・アイバーソンの友人たちは制御不能だ、と。

誰かがオレに友人たちを切り捨てろと言ったら、もうそれ以上はそいつの話を聞かなかった。しかもいつだってそんな話を聞かされてた。チャールズ・バークレーは報道を通じて言った。「取り巻きとは縁を切れ。友人たちじゃなく、チームこそがきみのそばにいるんだ」。インクワイアラー紙では、仲間たちが「不適切」だと言われた。こうなると、友人たちを擁護せざるをえなかった。

「オレたちは悪友じゃない。悪友だとか、オレには取り巻きがいるとか、なぜそう言われるのか理解できない。そう言う人たちは、友達がいないんじゃないかな。

オレに友達がいるから怒ってるんじゃないか。オレの友達が怖いんじゃないか」

その1月に、フィラデルフィア・デイリー・ニュース紙はまるまる2ページにわたってオレの「悪友」のことを書いた。オレもスタックもその中身を否定した。ワシントンポストとニューヨークタイムズ、USAトゥデイはどれも、オレが一緒に過ごしてる奴らについて記事にした。

そのデイリー・ニュース紙の2ページの記事はこんな書き出しだ。「ラサーン・ラングフォード24歳、ニューヨーク出身……はアレン・アイバーソンが14歳のころからの友人だ」。クソっ、記者はラーにこれまでのことを聞きにいったんだ。信じられないかもしれないが、その同じ記者は5年後、記者会見で「練習」の話を持ち出した中心人物のひとりだ。フィル・ジャスナー記者。オレのキャリアすべてにわたって、オレとシクサーズを担当した。少し前に彼は亡くなった。まったく率直に言うが、いつもうまくいってたわけじゃない。

それでも故人を送るにあたって、心には愛情しかない。彼は自分の仕事をしてたんだ。だけどな、「アイバーソンの仲間」の大がかりな記事を書くために、オレの親友にインタビューしてたなんてな。あの「練習」の記者会見から何年も前に、殺された男、オレの心に1年間ずっとのしかかってた男、オレがいちばん大事にしてた男に会ってインタビューしてたなんてな。

こいつらはオレの友達だった。こいつらのおかげでオレは人生のこの段階までやってくることができた。オレが何ひとつ持ってないときに味方になってくれた。いまじゃオレが請求書を支払って、宝石とかいいものをみんなに買っているかもしれない。でも、オレはどうやって最初に本物のネックレスを手に入れたんだ? ベセル高校で40ポイント取ったとき、あいつらはヘリンボーンを箱に入れてスタンドで応援してくれた。それに、請求書の支払い? オレが刑務所にいたとき、ジョージタウン時代、NCAAから一銭も稼ぐなと言われてたとき、うちの家族の電気代を払ってくれてたのはあいつらなんだ。忠誠心はオレにとってすべてだ。オレたちはみんな一緒に成功しようとしてた――そして、実際に成功したんだ。

「当時の自分の写真を見ると、ぜんぶXXLサイズだ」

オレのやりかたは、友人のことばかりじゃなかった。ルーキーイヤーの早い時期に、遠征に出てて、オレはケガをした。この肩の故障のあと、数試合出られなかった。デイビス・コーチがやってきて、負傷でユニフォームは着られないから、サイドラインではスーツを着ていたほうがいい、と言った。ついでに、そのほうが受けもいいぞと言った。それはトンプソン・コーチのやりかたとはちがってた。デイビス・コーチは、オレがルーキープレーヤーなのと同じく、ルーキーコーチだった。そして、トンプソン・コーチみたいに、とにかくこうしろと有無を言わさず強制することはできなかった。

オレはただこう言った。「いや、そうはしません。する必要もないし」。友達や家族も会場に来てた。彼らの前で、自分じゃない奴のふりはしたくない、それだけははっきりと思ってた。オレはオレでいる、オレが着たいように着る、したいようにふるまう。ずっと強く思ってきたことがある。誰だって、もうすでにその人自身なんだ。だったら唯一の選択肢は、オレがオレであることしかない。デイビス・コーチはそれを理解してくれた――オレのスタイルはオレが決めることだと。

オレは一種のファッションアイコンだと言われることがあるが、最初から、地元のみんなみたいに服を着てただけのことだ。それがオレたちのやりかただった。当時の自分の写真を見ると、笑っちまうことがある。ぜんぶXXLサイズだ。『ビートルジュース』(1988年に公開されたティム・バートン監督によるホラーコメディ映画)の登場人物みたいだ。頭が小っちゃくて、身体だけでっかくてさ。

オレは大型サイズの店に行って買いこんでた。練習終わりに飛び出して、真っ先に店に向かったこともある。チームの本物の大男は言ってたな。「おい、おまえがいちばん小っちゃいのに、そんなもん買ってるのかよ」。あれは小男のコンプレックスだったのかもしれない。いつだって古い大型のロールスロイスが欲しかった。それにいちばん小さい奴だと思われたくなかったから、いちばんでかいサイズの服が欲しかった。でもそれは、細かいところまで考え抜かれてた。パンツのこともそうだ。どれだけでかくても、下に行くほど細くなり、足首はタイトじゃなきゃいけない。シューズをちゃんと見せるために。

「プレーは服装と一致する」ヒーローになりたいなら…

べつに自己主張しようとしたわけじゃない。自分が心地よいもの、いちばん自分を表現できるものを着たかっただけだった。でも間違いなく、それを嫌う人々はいた。最初から、地元の友人や地元の服装のことで批判された。ある記者はオレの服装についてこう書いた。「金とダイヤモンドの宝石類をまとい、黒のヘッドバンドをつけ、ゆったりしたカジュアルな服を着ている」。オレは当時こう言った。「オレは21歳だ。なぜずっとスーツを着てなきゃならないんだ? スーツ着用が必要な場所には、どこであれ行くつもりはない」。ずっと欲しかった服も、地元の奴らが着たがってたスタイルも全部買える、と思ってた。ただそれは安くなかった。たぶんスーツを着てたほうが金の節約になったくらいに。

それ以外の方法でドレスアップするのは、偽物だと思った。バスケをしに行くのに、ビジネスマンみたいな服を着るのは意味がわからなかった。遊び場とかジムに行くのにはスーツは着ない。それに試合後はクラブに行く。クラブにはスーツは着ていくことはない。大人になったら、スーツを着ていくのは教会か葬式くらいだ。それか、有罪判決を受けるとき。ジョージタウンでは、たしかにスーツを着てた。どっちにしろ、欲しい服を買うだけの金はなかった。だからもちろん、トンプソン・コーチの規則に従ってた。だがそれもNBAに入るまでのこと。いまじゃほかの選択肢もある。

NBAではまだ、会場に来るときや帰るとき、あるいはサイドラインにいるときも(これはのちに規制されることになる!)、何も規則がなかったから、できるところから標的にされるようになった。ユニフォームのパンツが緩すぎて、ソックスの見えている白の部分が少なすぎる、と。

オレはつねづね、プレーは服装と一致すると思ってる。だからスーパーヒーローみたいなものになりたかったら、そういう服を着なきゃならない。ソックスは、黒い見た目にしたかった。リングに上がったマイク・タイソンが、くるぶしの上までの黒いシューズを履いてるみたいだと思ってた。そのスタイルを採りいれたかったんだ。のちには、ヘッドバンドを追加した。それにもちろん、(アーム)スリーブも。いま公園の子どもたちを見てると、見た目のかっこよさだけでスリーブを着けてる。あれは最高だぜ。

最初のモデルが唯一の“問い”

もちろん、いちばん大事なのはスニーカーだ。1996年の10月、シーズン開幕直前に、マサチューセッツ州のリーボック本社に行った。みんな、オレに最初のシグネチャーモデルを見せることに興奮してた。自分の名前がついたシューズを持ってる選手は多くない。シグネチャー・シューズを手に入れるのは、NBAに入るのとほとんど同じくらいの夢だった。しかもそれを、ルーキーで達成したんだ。

シューズを見せてもらって、ちょっとだけ注文もつけた。だけど、ソールとのつなぎ目が最高だった。赤と白で、ソールは青。つま先とかかとに、ちらっと青が見えてる。底には“The Answer”、かかとの上には数字の3が書かれていて、その上に大きなQの文字がある。製品名は「クエスチョン」。そのあと、リーボックが出したアレン・アイバーソンのモデルはすべてジ・アンサーになった。最初のモデルが唯一の“問い(クエスチョン)”だ。しかも、ほぼ完璧な仕上がりだった。

オレの手元には、新年までに送られてくることになってた。だが一般向けの販売についての計画がまだ決まってなかった。目標は2月のオールスターゲームに間に合わせることだった。

そのころには、リーボックの社員たちはオレとのあいだに結びつきを感じはじめてた。オレの仲間についてごたごた言う古い記者もいたし、コートサイドで「ジェイルバード(囚人)!」と野次る人々もいて、それはひどくなる一方だった。だがリーボックの社員たちは、批判が大きくなり、オレが野次られるほど、オレはさらに自然体でいればいいと思ってくれていた。ストリートの連中は気に入るだろう。リーボックの社員とはじめて会ったときも、オレが言ったのは自分自身でいたいということだけだった。

2月になり、リーボックからクエスチョンが発売され、長い広告が流された。そのなかでオレは、都市で過ごしたオレのバックグラウンド、オレという人間、オレの価値観を語った。出だしはこうだ。

「終わったときにみんなに知ってほしいのは、オレがすべての試合を最後だと思ってプレーしてること」

「すべての試合を最後だと思って」

キャリアのはじめからそう言ってたんだ。

その広告には、オレが生き抜いたストリートや、高校時代のオレ、そしてシクサーズで夢を叶えたオレの姿が登場する。リーボックが売り出したのは本物のオレだった。言い訳はいっさいしなかった。こういうふうにやるって彼らから言われたときは信じられなかった。そのシューズがいまここにある。そのことは、メッセージのように思えた。自分自身でいつづけろ、友人たちや家族のそばにいろ、自分のスタイルを貫け、本物の自分であれ、と。でも、それだけにとどまらなかった。

【連載第1回】「練習、練習って…」は誤解だ。NBA伝説アレン・アイバーソンが初めて明かす“あの会見”の真実

【連載第2回】「バスケはヤワだから嫌いだった」NBAレジェンド、アイバーソン少年の意外すぎる原点

【連載第3回】「友人は次々と死んだ。オレは怒っていた」アイバーソンを全米No.1へ変えた“あの1992年の夏”

【連載第4回】「あのベンツは返してこい、クソガキが」恩師トンプソンがアイバーソンをNBAへ送り出した日

(本記事は東洋館出版社刊の書籍『アレン・アイバーソン自伝 THE ANSWER』から一部転載)

※次回連載は9月4日(金)に公開予定

<了>

スポーツが「課外活動」の日本、「教育の一環」のアメリカ。NCAA名門大学でヘッドマネージャーを務めた日本人の特別な体験

[PROFILE]
アレン・アイバーソン
1975年生まれ、アメリカ・バージニア州ハンプトン出身。ジョージタウン大学を経て1996年NBAドラフト1位でフィラデルフィア・セブンティシクサーズに入団。新人王を皮切りに、2001年のシーズンMVP、得点王4回、オールスター選出11回など数々の金字塔を打ち立て、2013年に正式に引退。2016年には殿堂入りを果たす。2021年にはNBA75周年記念チームに選ばれたバスケットボール界最高の選手のひとり。攻撃的で速いプレースタイルに、ファッションと自己表現を統合した画期的な存在。アスリートが個性を打ち出す時代を先取りし、1990年代後半から2000年代はじめのアメリカ文化を牽引した。またリーボックと全キャリアにおよぶパートナーシップを結び、現在は同社のバスケットボール部門副社長を務めている。

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