1億枚以上のレコードを売り上げ、卓越したソングライティングと確かな手腕で自らのキャリアを切り拓き、カントリー・ミュージック、ポピュラー音楽、さらにはエンターテインメント業界全体のあり方を塗り替えた、世界中で愛されたエンターテインメント界のアイコン、ドリー・パートン(Dolly Parton)が死去した。享年80。
甥のブライアン・シーヴァーがFacebookに投稿した動画で訃報を発表した。死因は現時点で明らかになっていない。米Peopleによると、パートンは亡くなる4日前に入院していたという。

1946年1月19日、米テネシー州生まれ。12人きょうだいの4番目として、電気も水道もない貧しい家庭で育った。幼少期の体験は後の創作の大きな源となり、母親が布切れを縫い合わせて作ってくれた服を題材にした「Coat of Many Colors」など、アパラチア地方での暮らしや家族、信仰、愛、喪失を描く数多くの楽曲を生み出した。

18歳でナッシュビルに移り、ソングライターとして活動を開始。ポーター・ワゴナーのテレビ番組への出演をきっかけに人気を広げ、1970年代には「Jolene」「I Will Always Love You」などの代表曲を発表した。「I Will Always Love You」は、後にホイットニー・ヒューストンが1992年の映画『ボディガード』でカバーし、世界的な大ヒットを記録した。

パートンはカントリーの枠にとどまらず、ポップ・ミュージックや映画にも進出。1980年の映画『9 to 5』では主演を務め、自ら手がけた主題歌「9 to 5」は全米ポップ・チャート1位を獲得した。その後も『The Best Little Whorehouse in Texas』『Steel Magnolias』などに出演し、世界的なエンターテイナーとして存在感を確立していった。


一方で本人は一貫して、自身を何よりも「ソングライター」だと位置づけていた。生涯に数千曲を書いたとされ、その率直な言葉と卓越したストーリーテリングは、シャナイア・トゥエイン、マイリー・サイラス、ケイシー・マスグレイヴスら後続世代にも大きな影響を与えた。

1999年にカントリー・ミュージック殿堂、2001年にソングライターの殿堂入り。2022年にはロックの殿堂にも選出された。当初は「自分は十分なことをしていない」と辞退の意向を示していたが、最終的には受諾し、翌2023年にはロック/ハードロックの名曲を取り上げた30曲入りアルバム『Rockstar』を発表。ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、スティーヴン・タイラー、ロブ・ハルフォードら幅広いアーティストと共演した。

音楽以外でも、1986年に地元テネシー州にテーマパーク「Dollywood」を開園。地域に雇用を生み出したほか、森林火災の被災者支援、新型コロナウイルスのワクチン研究への寄付、子どもたちに本を届ける「Imagination Library」の設立など、慈善活動にも長年取り組んだ。

晩年は健康上の問題から公の場への登場を減らしていた。2025年には夫カール・ディーンの死後、彼に捧げた「If You Hadnt Been There」を発表。同年予定していたラスベガス公演を延期し、その後中止していた。

生前、パートンは自身のレガシーについてこう記している。
「最後には、優れたソングライターとして記憶されたい。歌こそが、私のレガシーなの」

ドリー・パートンの生涯を徹底解説

ドリー・パートンが本日亡くなった。甥のブライアン・シーヴァーがFacebookに投稿した動画で訃報を発表した。80歳だった。

「20年以上にわたってドリーの警備責任者を務め、その前には父のラリーが同じ役目を担っていた者として、この瞬間がどれほど重いものになるのか、これまで何度も想像してきました。でも、その重さを本当の意味で感じたのは今が初めてです」とシーヴァーは語った。「この役目を担えたことは光栄でした。大きな誇りと、深い悲しみが入り混じるような思いです。でも、悲しみを抱えているのは私たちであって、ドリーではありません。

「ドリーはまた、あらゆる境遇、あらゆる大陸に生きる何世代ものシンガー、ソングライター、ミュージシャン、そして夢を抱く人々のために扉を開きました」と彼は続けた。「彼女の生き方を見て、私たちは何だって可能なのだと信じることができた。彼女に開けられない扉などないように思えました。
そして彼女が開いた扉は、歴史をつくり、歴史を変えてきました。私と家族には、ドリーと過ごした一生分の美しい思い出があります。でも、それは皆さんも同じです。彼女はいつもテレビの中にいて、レコードプレーヤーやCDから流れ、スマートフォンのプレイリストにもいた。好むと好まざるとにかかわらず、いつの間にか皆さんの家族の一員のような存在になっていたのです」

1960年代以降、パートンはその楽曲を通じて、貧しいアパラチア地方で育った自身の生い立ちを鮮やかな細部とともに描き、愛や信仰、喪失、後悔についての思いを歌ってきた。その不屈の精神、きらめくような機知、飾らない人生の知恵は、後に続く何世代ものソングライターやパフォーマーたちに影響と刺激を与えた。史上最も成功した女性カントリー・アーティストであり、世界で最もよく知られたアーティストのひとりでもあるパートンは、きわめて個人的でありながら、誰もが自分自身を重ねられる歌を何千曲も書いた。ポップとカントリーの垣根を越えてヒットした「9 to 5」をはじめ、「Coat of Many Colors」「Jolene」「I Will Always Love You」といった普遍的なアンセムもその中にある。「I Will Always Love You」は、ホイットニー・ヒューストンが1992年の映画『ボディガード』のために録音したバージョンが2000万枚以上を売り上げ、ジャンルの枠を超えて大きな影響を与えるアーティストとしてのパートンの存在感をさらに強めた。

そうしたすべての活動を通じても、パートンは自分自身を何よりまずソングライターだと考えていた。「私は口も大きいし、性格も派手だから、人前に出てみんなを楽しませるのは簡単なの」とパートンは2020年に語っている。「でも曲を書くことになると……それは私だけのものと言える、ちょっと特別な何かなのよ」

パートンは、カントリーの内外を問わず、ポップとしての商業性と音楽的な伝統のはざまで道を切り拓こうとした後続のアーティストたちにとって、大きな先例となった。
ガース・ブルックスからシャナイア・トゥエイン、マイリー・サイラスまで、その影響は幅広い。また、本人がそう名乗ることはなかったものの、労働者階級の女性の視点に根差した彼女のフェミニズムは、ザ・チックスからミランダ・ランバート、ケイシー・マスグレイヴスまで、何世代ものカントリー・アーティストたちが歩む道の土台となった。2019年、パートンが自身のキャリアにどのような影響を与えたかと尋ねられたマスグレイヴスは、こう答えている。「むしろ、彼女が私や私のキャリアに影響していない部分なんてある?」

パートンは1980年の映画『9時から5時まで』を皮切りに、数々の映画にも出演した。その6年後には、テネシー州ピジョン・フォージに自身のテーマパーク「Dollywood」を開園。東テネシーで成功を収めた実業家として、故郷に雇用をもたらす存在にもなった。その後40年にわたり、パートンはスモーキー山脈地域を支える慈善家としての活動も続けた。2017年には森林火災の被災者に経済的支援を行い、Covid-19ワクチン研究にも資金を寄付。そして何よりよく知られているのが、複数の国で子どもたちに本を届ける「Imagination Library」を設立したことだ。

テネシー州セヴィアヴィル出身のパートンが持つ飾らない人生の知恵と率直な歌詞は、ブロンドのウィッグや体のラインを強調したドレス、ときには美容整形によって作り上げた、目を引く「Backwoods Barbie」のイメージと常に表裏一体だった。彼女は自分自身について、よくこんな冗談を口にしていた。「こんなに安っぽく見せるには、ものすごくお金がかかるのよ」。
2020年にはこうも語っている。「ただ、本当にいい仕事がしたかった。そして、それによって世界に本当に大きな違いをもたらしたかったの」

ドリー・パートンが80歳で死去 代表曲「ジョリーン」世界的スターとなったカントリー界の巨星

Photograph by Richard Avedon

ドリー・レベッカ・パートンは1946年1月19日、ロバート・リー・パートンとエイヴィー・リー・オーウェンズ・パートンの12人きょうだいの4番目として、リトル・ピジョン川のほとりに建つ一間だけの小屋で生まれた。パートンは農村部の貧しい家庭で育ち、一家の家には水道も電気もなかった。母親は活発な娘のために服を縫っており、その記憶が、彼女自身の原点を歌った「Coat of Many Colors」の着想となった。「母はいつも、私たちのキルトを縫い、窓のカーテンを作り、服を仕立て直し、飼料袋から服まで作ってくれたの」とパートンは2021年にRolling Stoneに語っている。「あの小さな歌は、本当にいろいろな意味で、いろいろな理由から、私にとってとても大切なもの。歌というより、ひとつの人生哲学なのよ」

パートンの家族は音楽と深く結びついていた。一家は教会で歌い、親族の何人かは楽器も演奏していた。パートン自身も幼い頃から、スターになることを公言して憚らなかった。叔父のビル・オーウェンズは、彼女が8歳のときにマーティンのギターを贈り、地元テレビで歌う機会を得る手助けもした。「音楽は家でも教会でも、いつも身近にあった」とパートンは1978年、家族の音楽的な環境について語っている。
「それで有名になったのは私が初めてだったけど、家族には私よりずっと才能のある人がたくさんいるの。ただ、私にはこの根性と、たくさんの夢や計画があった」

パートンは幼い頃から、のちに想像力豊かなソングライティングの核となっていく物語を紡ぐことに惹かれていた。「子どもの頃、私たちは映画を観に行かなかったから、自分で物語を作っていた」とパートンは2020年の著書『Songteller: My Life in Lyrics』に記している。「墓地に行くのが大好きだったの。墓石に刻まれた誰かの名前を読んだり、小さな子どもの墓を見つけたりして、その人にはどんな物語があったんだろうって想像していた」

14歳で初のレコード「Puppy Love」を制作し、グランド・オール・オープリーに初出演した際にはジョニー・キャッシュから紹介を受けた。1964年6月2日、家族で初めて高校を卒業した翌日、18歳のパートンはバスに乗ってナッシュビルへ向かった。「夢と、使い古したギターと、自分で書いた歌を持ってグレイハウンドのバスに乗った」とパートンは1994年の自伝に記している。「残りの持ち物は、お揃いの旅行かばん一式に入れていた――同じ食料品店でもらった紙袋3つよ」

ナッシュビルでの初期、パートンはほかのアーティストのために曲を書くことで生計を立てていた。叔父のビルと初期に共作した「Put It Off Until Tomorrow」は、1960年代半ばにロレッタ・リンとビル・フィリップスによってレコーディングされた。その一方で、パートン自身も1965年の「I Wasted My Tears」のような、ポップ寄りのオリジナル曲を録音し始める。ナッシュビルに移ってから3年もしないうちに、1967年にはMonument Recordsからデビュー作をレコーディングし、シンジケーション放送の『The Porter Wagoner Show』にも出演するようになった。1968年にはRCA Recordsからアルバム『Just Because Im a Woman』をリリースし、翌年には正式にグランド・オール・オープリーのメンバーとなった。

「Jolene」「I Will Always Love You」の誕生

パートンの大胆で妥協のないソングライティングを示す初期の代表例が、1969年の身も凍るような、そして物議を醸した「Down From Dover」だ。曲では、恋人に見捨てられた妊婦が死産するという悲劇が描かれている。のちにマリアンヌ・フェイスフルらもカバーしたが、パートン本人を大いに落胆させたことに、この曲がヒットすることはなかった。「あれはヒットすると思っていたのに」と彼女は後年語っている。「でも、誰も気に留めてくれなかった」

カントリー・ミュージック界でも数少ない著名な女性レコーディング・アーティストのひとりとなったパートンは、ほどなくして音楽業界、そしてエンターテインメント業界に根深く存在する構造的な性差別と向き合いながら、キャリアを切り拓いていくことになる。「ビジネスで相手にしなきゃいけない男には、基本的に2種類いるの」とパートンは1994年に書いている。「お金を騙し取ろうとする男と、あなたと寝ようとする男よ」。一方で、ワゴナーとの関係は彼女を育て、支えるものだった。カントリー界のベテラン・ヒットメイカーだったワゴナーは、自身の番組にパートンを起用し、彼女に大きなチャンスを与えた。2人は頻繁にデュエットを披露するコンビとなり、計13枚のアルバムを発表。CMAアワードのVocal Duo of the Yearを3度受賞した。

「ポーターと私は本当に長い間、一緒に仕事をしていた」とパートンは2021年にRolling Stoneに語っている。「ポーターはいつもプロダクションに関わっていて、エンジニアやミュージシャンと一緒に作業しながら、自分が望む形に仕上がっているか、そして私ならこうしたいだろうと彼が思う形になっているかを確認していた」

だが7年が経つ頃には、パートンは独自の道を歩む決意を固めていた。ワゴナーの番組からの降板を発表し、涙を誘う「I Will Always Love You」を書くことで、2人の仕事上の関係に区切りをつけた。同曲は1974年にカントリー・チャートの1位を獲得した。パートンはかつて、この曲についてこう語っている。「私たちの関係がとても難しい状態になっていて、彼が私の話を聞いてくれなかったときの、一種の交渉手段みたいなものだった……彼に聴かせたら泣いて、それが私たちの間にあった問題をつなぐ橋になって、私がそこを離れるための道を少し楽にしてくれた」。1982年には、自身が出演した映画『テキサス1の赤いバラ』のサウンドトラック用に録音したバージョンで、この曲を再び1位に送り込んだ。さらに、ホイットニー・ヒューストンによるバージョンが記録破りのヒットとなってから3年後の1995年には、ヴィンス・ギルとのデュエットとして再録音している。

パートンが「I Will Always Love You」を書いたのと同じ頃──言い伝えによれば、まさに同じ日に──彼女は、夫と銀行の窓口係の女性とのちょっとした恋の駆け引きを題材に、もう1曲を書いている。「その女性が、うちの夫にすっかり夢中になっちゃってね」とパートンは2008年に語っている。「彼女があれこれ構ってくれるものだから、夫も銀行に行くのが大好きになって。私たちの間では、ずっと冗談の種になっていたの。私が『ちょっと、ずいぶん銀行に入り浸ってるじゃない。うちにそんな大金があるとは思えないんだけど』って言ったりしてね」

その曲こそ「Jolene」だった。1973年秋にリリースされると、パートンにとって2曲目のカントリー・チャート1位を獲得。催眠的に脈打つギター・リフと、シンプルな2音節のタイトルを繰り返しながら、切迫感を募らせるように上昇していくサビのメロディによって、「Jolene」はやがてパートンを象徴する代表曲となった。

初期のソロ名義によるそのほかの1位ヒットには、「Joshua」「The Bargain Store」、そして1976年から1シーズン放送されたパートン自身のシンジケーション番組のオープニング・テーマ「Love Is Like a Butterfly」などがある。

カントリーの枠を越え、ポップカルチャーの象徴へ

カントリー界でスターとしての地位を確立していく一方、パートンは次の展開も見据えていた。本人が強調していたのは、カントリー・ファンを置き去りにするのではなく、彼らも一緒に連れて新たな場所へ進むということだった。その転機となったのが、1977年の「Here You Come Again」だ。自身初のミリオンセラーとなったアルバムのタイトル曲で、ポップ・チャートでもトップ3入りを果たした。「あれは本当にいい曲だから、猿が歌ってもヒットしたと思う」とパートンは翌1978年、自身のポップ界でのブレイクについて語っている。「まあ、その”100万ドルの猿”がここにいるわけだけど」

ポップやメインストリームへの進出にあたっても、パートンは自分が何を目指しているのかを明確に理解し、意識的に行動していた。「これは私にとって新しい自由なの」とパートンは1977年にRolling Stoneに語っている。「完全に自分を表現すること。勇気を出して大胆になること。本当に、自分が心から感じている通りに音楽を捉えてみること……私は30歳なのよ。何年も何年も過ぎるのを待っていたら、チャンスを逃してしまう。今こそが、自分の時期なんだと思う」

1978年、パートンはCMA Entertainer of the Yearに選ばれ、『Playboy』の表紙ではバニー姿を披露した。また、『The Tonight Show』への度重なるゲスト出演もこの頃に始まり、ジョニー・カーソンと共演。自身の容姿をめぐるジョークにも付き合い、ときには自ら先にネタにすることさえあった。ジェーン・フォンダが職場を舞台にしたコメディ映画『9時から5時まで』の製作に取りかかると、職場でセクシュアル・ハラスメントを受ける、気の強い秘書ドロリー・ローズ役にパートンを自ら抜擢した。

「それまで彼女とは一度も会ったことがなかった」とフォンダは1980年、パートンが表紙を飾ったRolling Stoneの特集で語っている。「でも、彼女の音楽には本当に惹かれていた。『Coat of Many Colors』を書いて、あんなふうに歌える人なら、何だってできるだけのものを持っている。この人は、”頭の悪いブロンド女”というステレオタイプなんかじゃない。自分がやろうと思えば、ほとんど何でもできる人なんじゃないかと思った。それくらい頭のいい女性だと感じた」

パートンは『9時から5時まで』での演技によってゴールデングローブ賞にノミネートされ、同名の主題歌もアカデミー賞候補となった。「9 to 5」はさらに、彼女にとって初の全米ポップ・チャート1位を記録。映画も興行収入1億ドルを超える大ヒットとなった。その2年後の1982年には、ミュージカル映画『テキサス1の赤いバラ』でバート・レイノルズと共演。1984年の『クラブ・ラインストーン/今夜は最高!』ではシルヴェスター・スタローンと共演し、その後、1989年には群像コメディ・ドラマ『マグノリアの花たち』にも出演した。

1980年代、パートンは映画スターとして活躍する一方で、音楽活動も続けていた。彼女の前にも後にも多くのカントリー・アーティストが経験してきたように、この時期、より幅広いポップ・リスナーに届くようサウンドを変えていった彼女の選択は、ジャンルの純粋主義者たちから激しい反発を招き、「どこまでがカントリーなのか」をめぐる論争の的となった。ディスコの影響を取り入れた1978年の「Baby, Im Burnin」や、MTV時代の1983年の「Potential New Boyfriend」は、どちらもダンス・チャートでトップ20入り。パートンがカントリーの枠を超えて、ますます幅広い層に届くシンガーになっていることを示した。「新しい場所に名前を入れてもらえると、いつだって嬉しいの」と彼女は後に語っている。

それでも、ポップ界の一大スターとなったパートンは、自分の作品が世間にどう受け止められているのかを常に強く意識していた。「『9 to 5』のアルバムでは、半分くらいの曲を私が書いた。その次のアルバムでは全曲を書いている」とパートンは1980年にRolling Stoneに語っている。「みんな、私が売れ線に走ったと思っていたのよ。『ドリーは今度はいったい何てクソみたいなものを作ったんだ?』って……そういうことは全部、ちゃんとわかっている」

この頃までには、パートンはすでに、彼女自身が2003年にRolling Stoneで表現した「田舎娘が思い描くグラマー」というイメージを確立していた。「私は町のいかがわしい女をお手本にして、自分のルックスを作ったの。脱色した髪に真っ赤な口紅を塗った彼女が、世界でいちばんきれいに見えた。みんなは『あんなの、ただの下品な女じゃない』って言っていたけど、私は『大きくなったら、ああなりたい』と思っていた」

1983年、ケニー・ロジャースとのデュエット「Islands in the Stream」がチャート1位を獲得し、アダルト・コンテンポラリーのヒットメイカーとしての地位を確立した。その後は「Dont Call it Love」や、ロジャースとの再度のデュエット「Real Love」など、ポップでのヒットは比較的小規模なものにとどまり、パートンのポップ・キャリアは次第に勢いを落としていった。それでも、カントリーではヒットを生み続けた。長続きしなかったABCのバラエティ番組と同じ時期の1987年には、リンダ・ロンシュタット、エミルー・ハリスとの『Trio』を発表。原点に立ち返ったルーツ色の濃い作品として高い評価を受けた同作は、のちに続く2枚のアルバムの第1弾となり、パートン自身にとってもキャリアの大きなハイライトとなった。

「これほど誇りに思ったものはほかにない」とパートンは後に『Trio』について語っている。「私たち3人でやったことは、本当に、私たちがいなくなったずっと後まで残っていくと思う……私たちは歌によって結ばれているの」

『Trio』に続いて、パートンはカントリー色を強めた『White Limozeen』(1989年)、『Eagle When She Flies』(1991年)、『Slow Dancing With the Moon』(1993年)を発表した。映画への出演やテレビ映画、特別番組への登場の合間には、もうひとつの「トリオ」企画にも取り組み、カントリー界の盟友ロレッタ・リン、タミー・ワイネットとアルバム『Honky Tonk Angels』を制作している。

この頃には、パートンはすでに世界中で知られる存在となっており、その魅力はカントリーをルーツとするアーティストという枠をはるかに超えていた。「ああ、ドリーはアイスランドでも大人気よ」とビョークは2003年にRolling Stoneに語っている。「私の友達はみんなドリーが大好きで、そのほとんどは普段ならカントリーなんて絶対に聴かないような人たち……現実の人物なのに、どこか神話的なほど大きな存在に感じられる人って、そうそういない。私はロックが好きじゃないけど、カート・コバーンは好き……ドリーもそういう存在なの」

ロックの殿堂入り、世代とジャンルを越えて更新されたレガシー

新たなミレニアムを迎える頃、彼女はカルチャー・クラブとのデュエットを録音し、キャット・スティーヴンス/ユスフ・イスラムの「Peace Train」をダンス・クラブ向けに仕立てたバージョンを発表。さらに、ブルーグラスの影響を色濃く反映した『The Grass Is Blue』『Little Sparrow』『Halos & Horns』をリリースした。2003年にはトリビュート・アルバム『Just Because Im a Woman: The Songs of Dolly Parton』が発表され、シネイド・オコナー、シャナイア・トゥエイン、メリッサ・エスリッジ、アリソン・クラウスらがパートンの名曲をカバーした。

「子どもの頃、ドリーは私にとって大きなインスピレーションだった」とオコナーは当時語っている。「女性の声の力によって、どれほど多くのことを成し遂げられるのかを、彼女は世界中の女性たちに示してきた。ドリー・パートンが好きだと言うと笑う人もいるけれど、彼女を過小評価するべきじゃないと思う。彼女はとんでもない天才よ」

2000年代初頭までに、パートンのキャリアは商業的には低迷期を迎えていた。Sugar Hill Recordsのような小規模レーベルから、批評家には高く評価されながらもほとんど注目されなかったブルーグラス寄りのアルバムを発表していた。しかし、その後の20年間で彼女は、ワールドツアー、スタジオ・アルバム、映画プロジェクト、企業とのパートナーシップ、書籍を次々と展開し、決して勢いの衰えない存在として、そのレガシーを改めて確かなものにしていく。

パートンの商業的な復活は、その一端を2005年のブラッド・ペイズリーとのデュエット「When I Get Where Im Going」に見ることができる。同曲で彼女はカントリー・チャートの首位に返り咲き、自身25曲目となるナンバーワン・ヒットを記録した。この曲自体はパートンの作ではなかったが、キャリア後半に入ってもソングライティングへの情熱は変わらず、2011年の『Better Days』や2016年の『Pure & Simple』では、収録曲のほぼすべてを自ら書いている。「今では、インスピレーションはいつどこで湧いてくるかわからない」とパートンは2020年に記している。「素晴らしいタイトルを耳にしたり、いいアイデアが浮かんだり、テレビですごい話を見たり、ニュースで何かを聞いて『誰かがこれを歌にしなきゃ』と思ったりする。そして、その”誰か”はたいてい私なの」

その後の10年間、レコーディング作品の数は減っていったものの、2014年のアルバム『Blue Smoke』発表後にはワールドツアーを敢行し、イギリスのグラストンベリー・フェスティバルでは、同フェス史上でも最大級となる10万人以上の観客を前にパフォーマンスした。2年後の2016年には、『Pure & Simple』が彼女にとって25年ぶりとなるカントリー・アルバム・チャート1位を獲得。2017年には初の子ども向けアルバム『I Believe in You』を発表し、その後クリスマス・アルバムもリリースした。さらに作家ジェイムズ・パタースンと共同で小説『Run, Rose, Run』を執筆し、2022年には同名の関連アルバムも発表している。

ここ数年で最大規模のメディア展開に打って出るにあたり、パートンはカントリー・ミュージックの枠を大きく飛び越え、クラシック・ロック、ハードロック、さらにはヘヴィメタルまでを取り上げたアルバムを制作した。『Rockstar』と題された2023年の同作では、「Stairway to Heaven」や「Every Breath You Take」といったカバーに加え、多彩なアーティストたちとオリジナル曲も歌っている。参加したのは、ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォード、ジョーン・ジェット・アンド・ザ・ブラックハーツ、ピンクとブランディ・カーライル、パートンの名付け子であるマイリー・サイラス、ジャーニーのスティーヴ・ペリー、エアロスミスのスティーヴン・タイラー、そしてビートルズのポール・マッカートニーとリンゴ・スターらだ。

30曲入りの同作は、パートンのキャリアにおけるもうひとつの大きな栄誉とも呼応していた。2022年のロックの殿堂入りだ。ピンクの紹介を受けて壇上に立ったパートンは、受賞スピーチでこう語った。「これで私もロックスターね! 本当に特別な夜です。たぶん皆さんの多くはご存じだと思うけど、最初にロックの殿堂入りすると聞いたとき、私はそれに値するほどのことをしてきたとは思えなかった。当時は、それが単に”ロックをやったかどうか”だけの話ではないということを理解していなかったの。でも今夜ここにいられることを、本当に光栄に思うし、とても誇りに思っています」

ロックの殿堂入りを果たした頃には、パートンはすでにカントリー・ミュージック殿堂の長年のメンバーでもあった。こちらには1999年に殿堂入りしている。2001年にはソングライターの殿堂にも選出され、2005年にはNational Medal of Artsを受章。翌2006年にはケネディ・センター名誉賞も授与された。

晩年のパートンは、マルチメディア・ビジネス界の大物として、世界的エンターテイナーとして、そしてひとつのブランドとして、そのレガシーを数々の大きな公の場への登場や回顧的なプロジェクトを通じて、さらに確固たるものにしていった。2009年には、ブロードウェイ版『9時から5時まで』の音楽と歌詞を手がけた。2015年12月には、彼女の代表曲をもとにしたNBCのテレビ映画シリーズ第1弾『Dolly Partons Coat of Many Colors』が放送され、1300万人以上が視聴した。幼い頃、母親が彼女のために作ってくれたパッチワークの上着にまつわる物語を描いた作品だ。原作となった楽曲自体がすでに多くの人々に愛されており、その普遍性ゆえに「Coat of Many Colors」は、「Jolene」と並ぶパートン屈指の人気曲となっていた。「家族がある。宗教がある。誠実さがある。貧困がある。そして、からかわれることがある」とカントリー・ソングライターのブランディ・クラークはRolling Stoneに語り、「Coat of Many Colors」の魅力をこう説明している。「この5つのうちひとつも経験したことがないなら、たぶんまだ人生を生きたとは言えないんじゃないかな」

そして2023年、77歳になったパートンは、ダラス・カウボーイズ・チアリーダーズの象徴的で露出度の高い衣装に身を包み、カウボーイズ対ワシントン・コマンダースの感謝祭ゲームでハーフタイムショーを披露した。

最後まで貫いたソングライターの矜持

その間もずっと、パートンは自身のソングライティングを何より大切にし続けた。ビル・マローンはカントリー音楽史を扱った著書『Country Music USA』で、「ソングライターとして、彼女に匹敵する存在はカントリー・ミュージック界でもほとんどいない。関心の幅広さと、多様な表現様式を自在に扱う力量という点では、マール・ハガードと比肩しうる」と記している。

彼女が晩年に発表した楽曲のひとつが、2025年3月にリリースされた「If You Hadnt Been There」だった。夫カール・ディーンの死後まもなく発表されたこの曲は、パートンがナッシュビルに移り住んで間もない頃に出会ったディーンに捧げたものだった。パートンは、人前に出ることを徹底して避けることで知られたディーンと1966年5月に結婚。2人の間に子どもはいなかったが、姪や甥、そのほかの家族たちは愛情を込めて彼女を「Aunt Granny」と呼んでいた。ディーンが表舞台から距離を置くことを好む一方で、パートンは60年に及ぶ結婚生活の大半を、世界的なスーパースターとして過ごした。「何かを隠しているわけじゃないの」とパートンは2016年、自身の結婚生活について語っている。「ただ、神聖なものとして、プライベートなままにしておきたいこともあるというだけ」

2025年、パートンは同年12月にラスベガスのCaesars Palaceでコンサート・シリーズを開催すると発表した。だが秋になると、「健康上の問題」を理由に公演を延期し、ナッシュビルに留まる必要があると説明した。翌年には延期していた公演をすべて正式に中止。ファンに向けたメッセージの中で、腎臓結石に加え、免疫系や消化器系にも関わる健康上の問題を抱えていることを明かした。

2026年6月、テネシー州で自身のトラックストップをオープンした際など、数回公の場に姿を見せた以外、パートンはほぼ表舞台から遠ざかっていた。Dollywoodの新たなローラーコースター発表や、Academy of Country Music、Americana Music Associationからの受賞に際しても、事前収録した映像を通じて登場する形を選んだ。Dollywoodの新アトラクション発表にオンラインで出演した際には、自身の健康状態についてさらに詳しく語っている。「ときどき少しめまいがして、脱水症状になることがあるの。実際、今も脱水気味。それでナッシュビルの主治医に、”今週は飛び回っちゃだめだ”って羽を切られたのよ」

それでもパートンは舞台裏では精力的に活動を続けており、とりわけナッシュビルに建設したホテルSongTellerの監修と、2026年の開業に深く関わっていた。ホテルには、彼女のLife of Many Colors Museumも併設された。

「誰にでも、その人なりの目的がある」とパートンは1980年にRolling Stoneに語っている。「多くの人は、それを本当の意味では見つけられないままかもしれない。でも私は、たくさんの人より運がよかった。12人きょうだいの4番目に生まれたから、わりと自立していて、私を引き止めるものもあまりなかった。いつも自由に考えることができたし、長い長い間、自分で思っていた以上に多くのことをできるチャンスにも恵まれていた」

晩年、自身が残していくレガシーを強く意識するようになったパートンは、キャリアを通じて書きためながら未発表のままだった数百曲のうち多くについて、自分の死後にも発表できるよう、ボーカル・パートの録音を進めていた。「私がいなくなったあとでも、世界中のどんなプロデューサーでも、私の曲とクリック・トラック、それに私のボーカルさえあれば、そこから完全なアレンジを作ることができる」とパートンは2019年に語っている。「そうやって、ずっと残っていくの」

「結局のところ、私は優れたソングライターとして記憶されたい」とパートンは翌2020年に記した。「歌こそが、私のレガシーなの」

From Rolling Stone US.
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