ルーキーイヤーから走攻守で活躍。128試合に出場し、打率.311、21本塁打、55打点、25盗塁の好成績を残して新人王を獲得。成績だけを見れば順風満帆に見えるが、その裏にはどんな苦労があったのだろうか。プロ1年目のことを振り返ってもらった。
所属選手は実績十分も、勝てないチームだった
1978年10月に西武グループがクラウンライターライオンズを買収し、埼玉県所沢市を本拠地とする西武ライオンズが誕生。根本陸夫監督のもと、野村克也や田淵幸一ら実績のあるベテランを補強したが機能せず、1年目(1979年)は最下位に終わった。石毛はその翌年のドラフトで西武から1位指名を受けて入団した。「(自分が在籍していた)社会人野球チームのプリンスホテル硬式野球部の創設が1979年なので、ほぼ同時期に西武は発足したんです。確か1年目は開幕から12連敗をしたのかな……。『プリンスホテルのほうが強いんじゃないか』って言われていた時もありましたからね。
野手では野村さんや田淵さん、山崎裕之さん、大田卓司さんらがいて、投手では東尾修さん、森繁和さん、松沼博久・雅之さん兄弟、山下律夫さんらがいた。この通り、有名な選手もある程度揃っていましたが、なかなか勝てなかったんです。チームがちぐはぐしていたのか、けっこうミスも多かったような気がします」
開幕戦で村田兆治から初ヒットを放つ
プロ1年目はアマチュアとのレベルの差を痛感すると言われるが、石毛はすぐに適応できたという。「あの頃は大学野球も社会人野球もけっこうレベルが高かったんです。
ほかのチームはみんな飲んだくれたあげく、二日酔いでも『打ちゃいいんだ。勝ちゃいいんだ』みたいな感じの選手がたくさんいました。ベテランの練習時間なんかはすごく短くて、例えば1年目の春季キャンプでは9時半からアップをし、10時くらいからバッティング練習を始め、午前中のうちには練習を終えていましたから。その分、自分ら新人がグラウンドを広く使えましたし、練習に打ち込むことができました。いま振り返ってみると、ある意味では悪い環境ではなかったのかもしれません」
キャンプやオープン戦はケガすることなく順調に過ごし、開幕戦は1番・ショートでスタメンに抜擢。当時のパ・リーグを代表するピッチャーの一人、村田兆治(ロッテオリオンズ)と相まみえた。
「1打席目は、カウントがワンワン(1-1)からだったと思いますが、センター前にプロ初ヒットを打ち、盗塁も決めました。2打席目は左中間への二塁打。その後の打席では右中間に本塁打も打ち、結果は4打数3安打1本塁打2盗塁と最高のスタートを切れました。
記憶にないのですが、2試合目も本塁打を打っていたみたいで……。横浜DeNAベイスターズの度会隆輝がルーキーイヤー(2024年)に開幕戦から2戦連続本塁打を記録しましたが、その時に『石毛以来の快挙』と報じられていて、『俺、打ったのかな?』と思っていましたから(笑)」
バットが振れなくなったのに、登録抹消されず
幸先の良いスタートを切った石毛だが、ロッテとの開幕3戦目にプロの洗礼を浴びる。「相手投手の奥江英幸さんからデッドボールを受けました。打ちにいったらボールが来たので、『あっ!』と思って逃げたら左手首付近に直撃してしまったんです。それでも『大丈夫か』と思って試合に出て続けていたのですが、バットを振っても痛いし、ボールをキャッチしただけでも痛い。
さすがに無理だなと思い、根本監督に『ちょっと手が痛いです。バットも振れなくなりました』と言ったら、『じゃあいいや。お前、足は使えるんだな?』と聞かれたので、『はい』と返事をして。その後、途中でベンチに下がりました。かなり痛みがあったので、普通はすぐに病院へ行ってレントゲンを撮ったりするものですが、行かなかったんです。いまの時代であれば即登録抹消して元気な選手と入れ替えると思いますが、根本監督からは『抹消はせんからな』と言われていました。
『これからロッテ以外の4チームと対戦するよな。相手のピッチャーがどんな顔で、どんなフォームで投げるのか。
好成績を残すも、自信はなかった
石毛はチームの遠征にも帯同し、相手チームの選手を目で見て研究。ケガは徐々に回復し、4月28日の日本ハムファイターズ戦でスタメンに復帰した。「痛みがなくなってバットが振れるようになるまで3週間かかりましたし、おそらく亀裂骨折だったんじゃないかと思っています。ただ、相手をじっくり研究できたことが功を奏し、復帰以降はガンガン打てました。シーズン終盤まで、落合博満さんと首位打者争いもできましたしね。
『山田久志さんや木田勇さんは、ああいうフォームでああいうボールを投げるんだ』と自分の目で分析できていたので、ある程度のイメージを持って打席に入れたことがよかったんだと思います。球筋まではわからないんですけどね」
プロ1年目に好成績を残した石毛。さらなる自信を持って2年目を迎えたと思いきや、継続してプロでやっていけるとは考えられなかったという。
「とにかく目の前の試合に、遮二無二向かっていました。
何年かプロでやると経験やデータが蓄積されていきますが、1年目は来たボールを打つだけ、飛んできたボールを捕って投げてアウトにするだけ。つまり、本来その選手が持っているセンスを素直に発揮できると思うんです。当然、センスだけではなく、アマチュア時代に培ってきた身のこなしや技術論がしっかりしていることが前提ですよ。そういった部分も評価され、ドラフト上位でプロの世界に入ってくるわけですし」
清原や立浪と自分を比べたら…
一方、ドラフト下位や育成出身でも、球史に残るような偉大な記録を残す選手も多い。「何人か挙げると、チームメイトでもあった秋山幸二はドラフト外ですし、金本知憲はドラフト4位。新井貴浩はドラフト6位です。
上手い選手のプレーは滑らかで無駄がない。新井は駒澤大学の後輩でもありますが、動きがギクシャクしていますし、金本もスムーズではない。名手と言われた秋山でも、それほど綺麗なプレースタイルではありません。彼らの共通項は、“がたいの良さ”。体が丈夫だからこそ練習を死ぬほどできたでしょうし、叩き上げで完成した選手だと思うわけです。逆に、先ほど挙げた清原や立浪をはじめ、高橋由伸、城島健司、ピッチャーでいえば工藤公康らには上手さを感じます。
付け加えておきますが、自分は清原や立浪に比べたら全然センスはありません。そこそこのセンスはあったかもしれませんが(笑)」
石毛のプロ1年目(1981年)に西武は4位だったが、翌年に就任した広岡達朗監督のもとで優勝を果たすと、以降は黄金期が到来。石毛の西武最終年となった1994年までの間に11度のリーグ優勝と8度の日本一を達成した。つまり、石毛の入団とともに黄金期が始まり、退団とともに黄金期が終わったという言い方もできる。
そんな石毛の1年目。
<取材・文/浜田哲男>
【浜田哲男】
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界を経て起業。「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ・ニュース系メディアで連載企画・編集・取材・執筆に携わる。X(旧Twitter):@buhinton
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