日米のプロレス界でトップレスラーとして活躍した元NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアさんが亡くなった。85歳だった。

 世界最大の団体「WWE」が4日、公式サイトで伝えた。WWEは「WWE殿堂入りを果たし、多大な影響力を持つレスリング・トレーナーでもあった氏の訃報に接し、深い悲しみを覚えています」と追悼した。

 WWEは、NWA世界ヘビー級王者として4年間も防衛、2009年には弟于のテリー・ファンクさんとともに「ザ・ファンクス」としてWWE殿堂入りを果たすなどドリーさんの功績を伝え「WWEは、ドリー・ファンク・Jr.氏のご家族、ご友人、そしてファンの皆様に心よりお悔やみ申し上げます」としのんだ。

 ドリーさんは、1941年2月3日に米インディアナ州インディアナポリスに生まれた。

 テキサス州アマリロへ移り、ウェスト・テキサス州立大学時代はアメリカンフットボールの選手として活躍した。弟のテリー・ファンクさんと共に父親でプロレスラーのドリー・ファンク・シニアさんの薫陶を受け大学卒業後にプロレスラーとなり、1963年1月にデビューした。

 69年2月11日、フロリダ州タンパでジン・キニスキーを破り、当時、世界最高峰のタイトルだったNWA世界ヘビー級王座を28歳で獲得した。

 それまでのプロレスラーにはなかった洗練されたテクニックとファンを魅了する試合運びで絶大な人気を誇り、73年5月24日にミズーリ州カンザスシティーでハーリー・レイスに敗れるまで、4年3か月間にわたり防衛した。これは、当時、“鉄人”ルー・テーズに次ぐ長期防衛記録だった。

 69年11月に初来日。12月2日に大阪府立体育会館でアントニオ猪木さんと60分フルタイムで防衛。翌日の3日には東京体育館でジャイアント馬場さんと同じく60分フルタイムで連続防衛した。

猪木さん、馬場さんとの2日連続でのフルタイム防衛は日本プロレス史に残る歴史的な名勝負として今も語り継がれている。さらに弟のテリーさんとのタッグ「ザ・ファンクス」で71年12月7日に札幌中島体育センターで馬場さん、猪木さんの「BI砲」を破りインターナショナルタッグ王座を奪取するなど、兄弟タッグでも絶大な人気を獲得した。

 馬場さんが72年10月に全日本プロレスを旗揚げすると弟のテリーさんとの外国人レスラーを招聘(しょうへい)するブッカーも担当した。レスラーとしても看板選手として来日。テリーさんとの「ザ・ファンクス」は1977年12月15日に蔵前国技館で行われた「世界オープン・タッグ」最終戦でアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークとの対戦でテリーさんがブッチャーのフォークに腕を刺されながら優勝し感動を呼んだ。

 81年4月には王座決定トーナメントでテリーさんを破り、力道山から馬場さんへ受け継がれた日本プロレス界の至宝「インターナショナル・ヘビー級王座」を初奪取。その後、ブルーザ・ブロディさんとの抗争で全日本プロレスを活性化させた。

 86年にはホス・ファンクを名乗りWWFに登場。テリーさんとのタッグでハルク・ホーガンさんやアンドレ・ザ・ジャイアントさんらと対戦した。2001年10月には新日本プロレスに初参戦。7日の「無我」後楽園ホール大会では西村修さんと対戦。8日の東京ドーム大会にはテリーさんとのザ・ファンクスで出場、藤波辰爾、ボブ・バックランドと夢の対戦が実現した。

 08年3月1日に全日本プロレスの両国国技館大会で引退試合を行うも13年10月に全日本プロレスの両国国技館大会に参戦。PWF会長に就任した。

 19年2月19日には両国国技館での「ジャイアント馬場没後20年追善興行」でブッチャーの引退セレモニーに登場し、怨敵だったブッチャーへ花束を贈った。最後の来日は、24年8月24日、神奈川県川崎市で行われた「大仁田興行テリー・ファンク1周年追悼・大仁田厚デビュー50周年記念大会」。西村さんと組んで大仁田厚、雷神矢口と電流爆破マッチで対戦し勝利した。

 リング上だけでなくスタン・ハンセン、テッド・デビアス、ジャンボ鶴田さん、天龍源一郎ら日米で数多くの後進レスラーを指導したドリーさん。世界のプロレス界に絶大な貢献と功績をのこした人生は、まさに「グレート・テキサン」だった。

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