1945年の終戦から81年が経ち、すでに約9割が戦後生まれという時代を迎えました。 東京の日本武道館では8月15日に、約310万人の戦没者をしのぶ全国戦没者追悼式が行われます。

またこの時期になると戦争の記憶を語り継ぐ取り組みが続いています。

「生活は踊る」でも毎年、リスナーの「戦争と私」に関するメッセージを募集し、ご紹介しています。また今回、木曜パートナーの宇賀神メグアナウンサーが、今月88歳を迎える自身の祖母から当時の戦争の記憶を聞き取りました。その手紙をご紹介します。


空襲警報と防空壕へ逃げた記憶

私が幼稚園生・小学生だった頃、日本は戦争をしていました。私が小学校に入学した年の8月に終戦になったので、学校へ行ったと思ったら、すぐに帰るような毎日でした。勉強どころではなかったんでしょうね。

戦争中は家の庭に防空壕を掘りました。大宮の駅の周辺には国鉄の工場があり、そこがよく敵国から狙われていて、焼夷弾を落とされました。いま幼稚園になっているあたりは、当時は林でした。国鉄で働いていた人や近所の人たちが、乳母車に荷物を載せて爆撃から逃げてくる姿も覚えています。

私たちも空襲警報が鳴るたびに防空壕へ逃げました。ある時は、一番下の妹がハンモックに乗ったまま取り残されそうになり、みんなで慌てたこともありました。

闇市での手伝いと食糧確保の苦労

夜は明かりが外に漏れないよう、電球に覆いをかけていました。ろうそくの明かりでご飯を食べたこともあります。

食べ物のことはあまり覚えていませんが、家で野菜を作っていたので、食べる物にとても困った記憶はありません。それでも、ご飯にさつまいもを混ぜたり、お米などを手に入れるために農家へ行き、着物などと交換することはよくありました。食糧を手に入れるため列車で農家まで行く人も多く、途中で取り締まりにあって、せっかく手に入れた食料を処分しなければならなかった人もいたそうです。

戦後は配給もありました。家族の人数に合わせて、お米などを分けてもらっていたように思います。

氷川神社の参道には闇市もありました。父は家でたばこの葉を刻んで巻き、闇市で売っていました。私も小学生の頃、その手伝いをしたことがあります。

「戦争は日常が一瞬にして壊される」

周りには戦争へ行った人もたくさんいました。友達のお父さんも帰ってきた時にはとても痩せていたそうですが、それでも無事に帰ってきてくれただけでありがたいことだったんですよね。

父の兄弟には中国や、ビルマへ行った人もいました。

一方で父は体が細く、身体検査に通らなかったのか、兵隊には行きませんでした。その点では、私たちの家は恵まれていたのだと思います。

戦争が終わってからも暮らしは大変で、父は自転車で遠くまで行って畑を借り、野菜や麦を作っていました。子どもだった私には、その頃の大変さはよく分かっていませんでした。でも、防空壕へ逃げたことや、暗い明かりの中でご飯を食べたこと、闇市があったことは、今でも覚えています。

そして今になって思うのは、戦争で一番苦しむのは、普通に暮らしている人たちだということです。戦争へ行った人も、残された家族も苦しかった。食べ物も十分ではなく、空襲から逃げなければなりませんでした。

戦争は日常が一瞬にして壊されます。あの頃のことを忘れないためにも、私が覚えていることを少し、お話しさせていただきました。

TBSラジオ『ジェーン・スー 生活は踊る』より抜粋)

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