日本人F1ドライバー「夢の系譜」
【第2回】鈴木亜久里

◆最初から読む>>【第1回】中嶋悟

 F1──そこは、かつて日本人にとって、あまりにも遠く、まばゆい憧れの場所だった。

 異国のサーキットにひとり立ち向かった先駆者から、その背中を追い続けた後継者たちへ。

日本人が一歩ずつ、執念で紡いできた軌跡は、今や揺るぎない歴史となった。

 これは、最速に魂を焦がした男たちがつなぐ「夢の系譜」である。あの日、私たちが夢中で追いかけたサムライたちの記憶を振り返る。

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【F1】鈴木亜久里は日本人離れした有言実行の男 「30歳まで...の画像はこちら >>
 人は自分の想像を超えるものに出会った時、心を動かされる。

 1990年の日本GPで日本人として初めて表彰台に立ち、当時の日本人には想像しえなかった夢を見せてくれた鈴木亜久里は、まさしく新時代を予感させてくれる存在だった。

 当時の日本人が憧れた、世界的スターのF1ドライバー像。常識外れの速さを持ち、立ち居振る舞いも規格外。日本人には無理だろうと、どこかあきらめていたその壁をぶち破ったという意味で、鈴木亜久里は間違いなく新時代のF1ドライバーだった。

 彫りの深い端正な顔立ちに、底抜けのスマイル。全日本カート王者から当時史上最年少の18歳でF3デビュー。さらに全日本F3000初年度で選手権2位、2年目で星野一義を抑えて王者となり、F1デビューを果たす。

 そしてF1フル参戦2年目の1990年、エスポラルース・ランボルギーニで2度の入賞を経て、表彰台を獲得した。

 バランスのいいローラ製シャシーに、ランボルギーニV12エンジンのパワー。亜久里はLC90でたびたび好走を見せ、日本GPでも予選10位につけた。

 予選7位のジャン・アレジ(ティレル)がクラッシュで首を痛めて欠場し、亜久里は9番グリッドに繰り上がり。そしてアイルトン・セナ(マクラーレン)とアラン・プロスト(フェラーリ)のスタート直後の接触に続き、ゲルハルト・ベルガー(マクラーレン)はスピンオフ、ナイジェル・マンセル(フェラーリ)はドライブシャフト折損と、2強チームの4台が消える幸運にも恵まれた。

【新たなヒーローの誕生に熱狂】

 しかし、亜久里自身のペースもすさまじく、ウイリアムズ勢を追いかけてタイヤ交換を余儀なくさせるほどの速さがあった。レース中のファステストラップもウイリアムズのリカルド・パトレーゼに次ぐ2位の速さだった。

 ウイリアムズ勢がピットインして後退すると、亜久里は3位。本人もどうなっているのかわからないままポジションが上がっていき、気づけば3位でフィニッシュして日本人初の表彰台に立っていた。

 セナを応援するはずだったブラジル国旗は1-2フィニッシュのネルソン・ピケ(ベネトン)とロベルト・モレノ(ベネトン)に、そして日の丸は亜久里へ。表彰台でトロフィーを掲げる亜久里の姿に、観客席は一体となった。想像を超えるドラマを目撃し、新たなヒーローの誕生に熱狂した。

 あの鈴鹿の3位表彰台が印象的であるがゆえに、亜久里は華々しいキャリアのように見えるが、実はそうではない。

 カートショップを経営しつつ日本自動車連盟のカート委員も務めた父は、浮谷東次郎や生沢徹、本田博俊といったレース関係者たちとの親交もあった。

だが、亜久里自身は決して恵まれた環境ばかりでレースをしてきたわけではない。F3では成績不振と資金難で、8年ものシーズンを過ごすことになった。

 それでもオイル輸入業で資金を作って活動を続け、日産のF3エンジン開発からワークスドライバーとして全日本ツーリングカー選手権や全日本耐久選手権に参戦しながらF3も続けた。初めて資金の心配をすることなくレースができるようになったのは、この1985年になってからだったという。年間200日はクルマに乗り、驚くべき速さでテクニックが上達していくのを感じたのも、この頃だったという。

「30歳までにF1ドライバーになり、35歳で引退し、45歳で自分のF1チームを持つって決めていた」

 その言葉どおり、亜久里は28歳でF1デビューを果たした。

【肋骨骨折と肺挫傷でF1を引退】

 1988年日本GPでヤニック・ダルマス(ラルース)の代役でスポット参戦。それに続いて翌1989年は、ザクスピード・ヤマハでフル参戦を果たす。

 しかし、マシンも貧弱ならエンジンパワーも不足しており、亜久里は全戦予備予選落ちという屈辱を味わうことになる。それでも、チームメイトのベルント・シュナイダーも予備予選通過は2回のみであり、亜久里自身の自信が揺らぐことはなかった。

 1990年にエスポラルースで活躍して一躍スターとなったものの、1991年のラルースは資金難に陥る。ランボルギーニエンジンをリジェに奪われ、非力なコスワースDFRエンジンで苦戦することになった。

 実のところ亜久里は、チームが1991年に参戦できないだろうという前提で、ベネトンとの3年契約を交わしていた。

キャメルイエローのハイノーズで知られるB191をピケとともにドライブしていたなら、亜久里のキャリアのみならず日本のF1史も大きく違っていたかもしれない(ピケは1勝・表彰台2回でコンストラクターズ4位)。

 1992年には、F3時代に支援を受けたフットワークへ移籍して無限ホンダエンジンで走るが、オーバーステアなマシン特性に苦しんだ。1993年はシーズン後半戦からマクラーレン製のアクティブサスペンションを導入したことで常に予選上位につける速さを見せたが、マシンの信頼性が乏しく最後まで結果は手にすることができなかった。

 1994年はフットワークの撤退もあってF1のシートを喪失。出場停止処分を受けたエディ・アーバイン(ジョーダン)の代役でパシフィックGPに出場したのみに終わった。

 1995年は無限ホンダエンジンを欲するリジェと契約を交わしたものの、マーティン・ブランドルとシェアするかたちになって6戦のみの出場。亜久里はドイツGPで入賞を果たしたが、引退レースとするはずだった日本GPでは予選でクラッシュを喫し、肋骨骨折と肺挫傷で最後のレースを終えることになった。

【強烈に記憶に残るドライバー】

 マシンの競争力で言えば、1993年のフットワークや、2度の表彰台を獲得した1995年のリジェのポテンシャルは高く、亜久里のスター性も相まってまた新たなドラマへの期待を抱かせてくれた。

 それは結実しなかったものの、亜久里の夢は引退後も続いた。

 スーパーアグリとして、フォーミュラ・ニッポンやJGTC(全日本GT選手権)、インディなどに参戦。若手ドライバー育成に力を注いできた。

 そして2006年には「45歳でF1チームオーナー」という夢を有言実行すべく、スーパーアグリF1チームを立ち上げ、ホンダ、ブリヂストン、佐藤琢磨とともにオールジャパン体制の夢を見せてくれた。

 BARホンダの株式取得による共同経営案から自チーム立ち上げへとシフトし、50億円にも及ぶ供託金の確保、BARホンダからのマシン提供が禁じられたことによる2002年型アロウズA23を改修してのマシン製作など、さまざまな苦難を乗り越えた末の参戦実現だった。

 それも、亜久里が現役当時に得た人脈があってこその実現だった。特にリジェで苦汁をなめさせられたトム・ウォーキンショーやダニエル・オーデットとは良好な関係を築いており、彼らが運営していたアロウズの施設や人材がそのままスーパーアグリを支えるかたちになった。

 華々しさの裏で、苦労人でもあり、それを支える人々にも恵まれてきたのが亜久里だ。そのこと自体が、亜久里の魅力を物語っている。

 スーパーアグリF1チームはわずか2年半で終焉を迎えることとなったが、我々に大きな夢と興奮を与えてくれた。

 F1では88戦に参戦し、出走回数は64回、入賞回数は3回のみ。ランキング最上位は1990年の12位。記録だけを見れば、表彰台獲得というハイライト以外は凡庸な結果でしかないかもしれない。しかし、強烈に記憶に残るドライバーであり続けている。

 我々の想像を超える夢を見せてくれた、日本人離れした存在──それが鈴木亜久里だ。

(つづく)

◆【第3回】片山右京>>

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