日本ボクシング世界王者列伝:名城信男 あまりに重い試練を乗り...の画像はこちら >>

井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち29:名城信男

 ここ20年ほどの傾向として、プロボクサーのキャリア作りは圧倒的に濃縮されている。わずか数戦で、頂点を狙っていくのだ。

ただし、よほどの才、アマチュアでの経験がない限り、"時短"でたどり着けるほどリングの栄光への道はたやすくはない。確固たる決意のもと、誰にも倍する努力を重ね、荊(いばら)の修練を極めた者だけがチャンピオンベルトの栄誉に浴する、昔ながらの真理に変わりはない。

 そして名城信男(六島)。2006年、日本最短タイ(当時)8戦目で世界王座にたどり着いた男は、試合数こそわずかながらも、試練というにはあまりに重い現実を乗り越えて、頂上にたどり着いた偉大なリング人生の描き手である。(文中敬称略)

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【苦悶の果てに世界へのチャンスをもぎ取った】

 生まれつき喘息を患っていた。物心がつく以前から発症し、止まらぬ咳に苦しめられた。小学校に入るとスイミングスクールに通い、中学校では陸上競技部に所属した。基礎体力をつけ、壮健な体作りを目指した。それでも、持病が治まることはなかった。

 水泳、陸上の練習中や練習終わりにスイッチが入ったように症状が出て、気管がヒューヒュー鳴って苦しかった。その苦しみは、15分も続いたことがあるという。

 高校はボクシングの強豪校、奈良県立奈良工業高校(現・奈良商工高校)に進んだ。ボクシングをやるためである。

父の影響からだった。父はボクシングの大ファンで、小さい頃から試合会場にもよく連れて行ってもらった。ただし、喘息が治まったわけではないし、肝心のリングの成果もまずまずのものだったが、近畿大学に進んだ。全日本選手権ではベスト8が最高と、全国の頂点に到達したわけではなかった。

 だが、近大を3年生で中退、2003年にプロ入りしたときには、関西のボクシングファンの間では、その豪打がすでに有名になっていた。4回戦デビューで11戦ものキャリアがある相手を32秒でKO。その後も中堅強豪相手に連続KO、ダウンを奪って判定勝ちと白星を重ねると、5戦目に大きなチャンスがやってくる。

 対戦相手は本田秀伸(グリーンツダ)。2度の世界挑戦経験を持つサウスポーで、多彩なタイミングと角度のあるパンチでペースを操る指折りのテクニシャンだった。本田にとっては2度目の世界挑戦に敗れてからのカムバック戦であり、3度目の世界挑戦への前哨戦でもあった。予想は大きく本田へと傾いていたが、名城は旺盛に攻め込み、ボディブローを集めて本田の持ち味を殺し、文句なしの判定勝ち。大きな脚光を浴びることになる。

 そして、プロになって最初の大きな試練を迎える。日本スーパーフライ級チャンピオンの田中聖二(金沢)に挑戦した試合だった(2005年4月3日)。田中もサウスポーで、本田戦の前には仮想・本田となってスパーリングパートナーもしてくれていた。対サウスポーのアドバイスもくれた。それでも、勝負である。勝たなければ意味はない。思う存分、戦った。ただし、その結末は誰ひとり望んだものではなかった。

 熱闘10ラウンドの末に、名城の強打が田中を捉え、レフェリーが試合を止めた。初めてのタイトル獲得に幸福の頂上にあった名城だったが、12日後、その心はほどなく悲嘆の果てへと追いやられる。試合後、ダメージの深かった田中は控え室で倒れ、病院へ搬送。緊急開頭手術が施されたが、12日後、意識を取り戻すことなく息を引き取った。

 名城は部屋に引きこもったという。「いつ電話しても泣いていた」という関係者の証言もあった。あくまで事故といえども、名城は気持ちの折り合いをつけることができなかった。

「こんな弱い男に負けたのだとしたら、田中さんに申し訳ない」

 ようやく決意を固めて臨んだ7カ月後の初防衛戦も芳しい出来ではなかったが、なんとか判定勝ちをもぎ取る。そして、この一戦でWBAランキング1位を勝ち取り、指名挑戦権を手にした。これも運命だったのではないか。世界を目指して戦うことが、戦友・田中聖二へのただひとつの供養になる。

【渾身の打撃戦の末、負傷TKOで世界奪取】

 WBA世界スーパーフライ級チャンピオン、マルティン・カスティーヨ(メキシコ)はきわめて強い選手だった。的確な技巧に守りも手堅く、絶妙なカウンターをはじめ、パンチの切れ味もすばらしい。

 2006年7月22日、東大阪アリーナで行なわれたタイトルマッチは、所属ジムが愛弟子の真の心の解放を願ったマッチメイクだったのだろう。メキシカンはやはり強かった。初回からワイルドパンチで迫る名城に左フックをカウンター。一瞬、挑戦者の体が硬直した。

しかし、名城も負けていなかった。ビッグパンチの合間に正確な右ストレートをきれいに決めた。2ラウンドにはこのパンチでカスティーヨの左まぶたを切り裂き、出血が始まった。

 試合は激しい打撃戦に突入する。ポイントは両者の間を揺れ動き、まったくの五分と五分。その中で迎えた10ラウンド、カスティーヨの出血がいよいよ激しくなったのを見たレフェリーが試合をストップする。爆発的な歓喜のなかで、世界王者・名城の時代は始まったのだ。

 名城は体を揺さぶりながら前進を重ねる。ビッグパンチを振るい、対戦相手を追い詰めていく。しかし、ほんとうの持ち味はそんな大胆な攻め口ではなく、インサイドをうまく突き、右ストレートを軸に的確打を量産する技にあった。一転して狙うボディブローも鋭かった。

 名城はそういうスタイルのボクシングでなんと7年間も世界のトップで戦い、その間、2度の世界王座獲得、計3度のタイトル防衛に成功している。

ただ、デビュー当初、あるいはカスティーヨを破った頃の迫力は、その後に見ることはなかったような気もする。3度目の王座返り咲きをかけた挑戦試合では世界戦4連敗を喫し、2013年9月、タイでのWBAスーパーフライ級暫定王座決定戦がラストファイトとなった。

【指導者としても試練の連続】

 普段は明るく、とても謙虚で、その人柄のよさは誰もが認める。第二の人生もこの人物にふさわしいものだった。

 2014年4月に開いた会見で現役引退と同時に母校・近畿大学ボクシング部ヘッドコーチ就任が発表された。近大は全日本大学王座決定戦優勝10度、関西学生リーグ戦優勝37度(現在は38度)というアマチュアボクシングの名門。名城のほか、WBA世界スーパーウェルター級暫定チャンピオンの石田順裕(金沢)や、"浪速のロッキー"赤井英和(グリーンツダ)といったスーパースターを輩出してきた。また、五輪銅メダリストの森岡栄治(1968年メキシコ五輪バンタム級)ほか、その部史には数多くの偉大な選手たちの名前が刻まれている。同部は2009年、部員が起こした強盗事件を機に一度は廃部となったが、復活を期して赤井が総監督に就任し、名城にも重要なポストが与えられた。ただ、それも、新しい試練の始まりだった。

 2016年、アマチュア資格を持たないまま指導に当たったことを日本ボクシング連盟に問題視され、試合会場への出入りを禁じられた。名城にも言いたいことはあったが、部員たちの活動に影響を及ぼす可能性があると、じっと耐えた。

2018年にアマチュア登録がやっと認められ、2019年に監督に就任する。しかし、その2年前に起こった指導者の不祥事の影響により、前年には近大でのスポーツ推薦枠からボクシングが除外されていた。戦力は徐々に落ちていき、監督就任から3年後、名城が下した決断は関西学生ボクシングリーグ戦の下部2部への自主降格の申し出だった。

 実は関西の少年ボクシングは、とてもハイレベルである。世界ユース選手権チャンピオンとして勇躍プロに挑んでいる藤木勇我、坂井優太(ともに大橋ジム)は関西出身だし、全国高校総体などで上位に名を連ねる強豪高校も多い。だから、西の強豪大学にもジュニアの有力選手が集まる。

 名城は未経験者に一から丁寧に教え、「指導は楽しい」というが、同時にレベルの差も痛感した。競技の性格上、あまりに実力差のある対戦は危険に過ぎるのだ。この7月5日まで行われた関西学生ボクシングリーグ戦では、6大学が争った2部で3勝2敗の3位。厳しい試練を乗り越え、プロでは頂点に立った名城の戦いは、まだまだ続いている。

●Profile
なしろ・のぶお/1981年10月12日生まれ、奈良県出身。奈良工業高校(現・奈良商工高校)でボクシングを始め、近畿大学3年生で中退。2003年7月、大阪府の六島ジムからプロに転向。アマ時代に目立った実績があったわけではないが、豪快な戦法で注目を集める。5戦目に世界ランカーを撃破、6戦目で日本スーパーフライ級タイトルを獲得。2006年には難敵王者マルティン・カスティーヨ(メキシコ)をTKOで破り、WBA世界スーパーフライ級王者に。8戦目世界王座獲得は当時、辰吉丈一郎(大阪帝拳)と並ぶ日本最短記録だった。2度目の防衛戦で陥落するも2008年には同王座決定戦で2度目の戴冠。2010年に王座を失った後も4度、世界王座に挑んだ。2014年に引退し、アマチュアの指導者に転進。現在、近畿大学の監督を務める。身長163cm。26戦19勝(13KO)6敗1分。アマチュア戦績は57戦38勝(20KO・RSC)19敗。大胆な攻め口ながら、正確にまっすぐ打ち込む右ストレートが最大の武器だった。

宮崎正博●文 text by Masahiro Miyazaki

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