名将たちの甲子園初出場物語
和泉実(前編)

 7月28日。早稲田実業(以下、早実)は、八王子市南大沢にある王貞治記念グラウンドで、新チームになって最初の試合に臨んでいた。

 練習試合の相手は、系列校である早大学院。その指揮を執る野口順平監督は、早実の和泉実監督が1996年夏、初めて甲子園に導いたチームのエースで、現在は早大学院の教員を務めている。

 恩師と教え子が率いるチーム同士で迎えた新チームの初戦。両校にとって、秋に向けた船出となった。

【高校野球】「彼らは今でも大事な仲間です」早実・和泉実監督が...の画像はこちら >>

【大学卒業後に山口へ】

 和泉が1992年秋に早実の監督に就任したのは、31歳になる直前のことだった。

「今思えば、早実の監督というのはものすごく大きな存在です。でも、当時は若かったから、その大きさに気づかないまま引き受けた。もし今の年齢だったら、ちょっと考えると思うよ。引き受けていなかったかもしれない。当時は『東京に戻れるなら』という気持ちがあったからね」

 早実はこれまで春夏通算52回の甲子園出場を果たしているが、そのうち10回は和泉が指揮。2006年夏には斎藤佑樹(元日本ハム)らを擁し、全国制覇を成し遂げた。

 もう30年以上にわたって早実を率いているだけに、それ以前、山口の南陽工で指揮を執っていたことは、今では忘れられがちだ。

 1976年、当時、新南陽市(現・周南市)で唯一の高校だった南陽工は、野球部の強化に乗り出していた。

食品メーカー「シマヤ」の社長で、野球部後援会会長を務めていた島田亮彦が、関係者を通じて早稲田大学に指導者の派遣を依頼した。

 そこで最初に派遣されたのが、当時、早大のエースだった道方康友だった。以降、そうした指導が続くなか、南陽工は1978年春に甲子園初出場を果たし、同年夏も連続出場。監督は岸田成弘(1972年夏に柳井高校を率いて甲子園準優勝)が務めていた。その後も、早実で和泉の先輩にあたる清水隆一や、早実の同期だった阿久根謙司らが指導にあたっていた。和泉は別の高校を指導していたが、阿久根に誘われ、1983年に南陽工へ赴くことになった。

「岸田さんは旅館を経営していた方で、そちらの仕事もあった。僕が行くようになった頃には、そろそろ監督としての引き際を考えていたんだと思う。岸田さんは僕のことを気に入ってくれたみたいだね」

 岸田は「次(の監督)は和泉くんがいいんじゃないかな」と、島田社長に推薦してくれたのだという。

高校野球の監督をやりたいと思っていたからね。そしたら島田社長から『和泉くん、就職はどうするんだ』って聞かれて、『うちに来ないか』という話になっちゃったんですよ。僕は次男坊だったから、家を出てもどうってことはないし、先のこともあまり考えてなかったからね」

 帰京して父親に報告すると、「本当に行く気があるならいいだろう」と、あっさり許しが出た。

その背景には、父親自身が山口生まれという縁もあった。

「オヤジは下関生まれで、山口は郷里なんですよ。下関西高校に通っていて、1951年に甲子園に出た時は在校生だったらしいよ。僕はほかにも高鍋高校(宮崎)など数校へ教えに行っていたけど、山口で野球を教えることになった。やっぱり縁があって、導かれるように行ったんですよ」

【宇部商の高い壁】

 大学4年最後の早慶戦を終えると、和泉はほどなくして山口へ向かった。

 そして1984年、正式に南陽工の監督に就任。午前中はシマヤの嘱託社員として働き、午後から南陽工で野球部を指導する生活が始まった。

「島田社長から『教員採用試験に受かったとしても、南陽工に赴任できるかどうかはわからない。それなら、うちの嘱託社員になればいい』と言ってもらってね」

 監督就任後、最初に迎えた新入生のなかに、近隣で評判だったふたりの投手が入部してきた。

「『早稲田から監督が来る』という話が広まったみたいで、入学してくれたんだろうね。その年の夏は負けちゃったけど、秋の新チームでは県大会で準優勝して、中国大会まで進んだ。あとひとつ勝てば選抜......というところまで行ったんだけどね」

 その彼らを連れ、甲子園の外野スタンドで試合を観戦したことがあった。

「そしたらふたりがさぁ、『甲子園は見るところじゃないですね。

ここでプレーしないと。今すぐにでもマウンドに飛んでいって、投げたいです』って言うんですよ」

 彼らの思いを叶えたい──。その一心で、仕事前の早朝からグラウンドに足を運び、指導することもあった。

 だが、当時の山口は宇部商の全盛期だった。和泉が監督に就任して2年目の1985年、宇部商は桑田真澄清原和博を擁するPL学園(大阪)と夏の甲子園決勝を戦うほどの強豪だった。

「秋も負けて、夏の前には会長旗というシードを決める大会があるんですが、準決勝だったかな、そこでも勝てなかった」

 夏の甲子園で4本の本塁打を打った藤井進、大型捕手の田処新二、投手陣も左の田上昌徳、右の古谷友宏......当時の宇部商の選手たちの名前が、ポンポンと和泉の口から出てくる。

「なかでも1番を打つ佐藤勝実には、何を投げても打たれた。県内のどの高校も、宇部商には勝てなかった」

【9年間の指導で甲子園出場は果たせず】

 9年間の監督生活で、夏の最高成績は県大会ベスト4。秋は2度、中国大会に進んで、あと1勝すれば選抜出場というところまで迫ったが、ついに甲子園には届かなかった。

 津田恒実(元広島)を擁して1978年に甲子園で勝利して以来、南陽工は期待に応えられずにいた。そうした状況にあったうえ、和泉は東京から招かれた"外様"だったが、意外にも指揮は執りやすかったという。

「島田社長や野球部の部長が気を配ってくれて、雑音が入らないようにしてくれていたんだと思います。

自分は若気の至りで気にしなかったけど、今になって組織のことを考えると、守ってくれていたんだと思います」

 当時、選手たちとの年齢差は5歳ほど。監督と選手というより、兄弟のような関係だった。

「彼らは今でも大事な仲間です」

 "仲間"というひと言に、若くして飛び込んだ見知らぬ土地で、ともに汗を流し、苦楽をともにした教え子たちへの思いがにじんでいた。

(文中敬称略)

つづく>>

清水岳志●文 text by Takeshi Shimizu

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