2026年夏の甲子園。最速157キロ右腕の織田翔希を擁する優勝候補の横浜(神奈川)は、難敵との戦いを勝ち抜き、ベスト8に進出している。

チームを率いる村田浩明監督には、横浜を志すきっかけとなった原点がある。

「小学生の時、全国大会神奈川予選決勝で負けた翌日、新聞を見たんです。大会の結果を見てもう一度悔しくなったんですが、なにげなく下の記事に目をやると、そこに渡辺元智監督のことが書かれていたんです。1998年ですから、松坂(大輔)さんらで春夏連覇を達成する年です。それを読んで、横浜高校で野球をしたいと思ったんですよね」

 その村田が少年時代に憧れた、横浜の名将・渡辺元智氏が亡くなった。

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【天国のエースに届けた15年ぶりの甲子園勝利】

 何度も取材をさせてもらったが、今も強く記憶に残っているのは1996年夏の涙だ。1998年夏、PL学園(大阪)を延長17回で破った時でも、明徳義塾(高知)を大逆転で下した時でもない。

 100年以上の歴史を誇る高校野球にあって、横浜が全国に名を知られるようになったのは、それほど古いことではない。

 夏は1963年が初出場。1973年春に選抜へ初出場すると、永川英植(故人)らを擁していきなり全国制覇を成し遂げた。1980年夏にはエース・愛甲猛を中心に2度目の全国制覇。しかし、その翌年の勝利を最後に夏の甲子園では白星から遠ざかった。

 そして夏7回目の出場となった1996年、初戦で北嵯峨(京都)を下したのが15年ぶりの勝利だった。

 マウンドを守ったのは、身長170センチと小柄な松井光介。2学年下の松坂が「尊敬する人」として名前を挙げたほど、「比類のないハートの強さ」(渡辺監督)を持つ気迫のエースだった。

 試合後、渡辺監督は言った。

「これでやっと......長いトンネルから......抜け出せました」

 目を潤ませ、言葉に詰まった。

 前年の1995年夏、新チームがスタートして間もなく、エースとして期待されていた丹波慎也が急性心不全で亡くなった。前夜まで笑いながらチームメイトと夕食をともにしていたという、あまりにも突然の出来事だった。

 それ以降、チームは「丹波のために」を合言葉に戦った。丹波のトレーニングウェアを切り分けてつくったお守りを全員が身につけ、翌春の選抜出場を果たした。しかし、甲子園では初戦敗退。それでも夏は激戦区・神奈川を勝ち抜き、再び甲子園へ戻ってきた。

 渡辺監督は選手たちに「甲子園に行くまでは丹波のため。甲子園に行ったら、自分たちの野球をやろう」と伝え、自分だけが丹波の遺影をしのばせていた。

 北嵯峨戦の勝利は、天国に届いただろうか。丹波よ。背番号1を受け継いだ松井は、立派に投げてくれたぞ──。そんな思いが、お立ち台で涙となってあふれたのだろう。その温かい人柄こそ、「ゲンさん」と親しまれた渡辺監督の大きな魅力だった。

【人生を変えた母校からの電話】

 1968年の監督就任以来、一時は部長に退いた時期もあったが、2015年まで47年の長きにわたって横浜を指導した。春夏通算27回の甲子園出場で51勝を挙げ、春3回、夏2回の全国制覇を成し遂げた。

 だが、その指導者人生は決して順風満帆だったわけではない。1944年生まれ。家庭が経済的に苦しかったこともあり、戦後の混乱期には家族そろって暮らすことができず、叔母の家の養子となった。本格的に野球を始めたのは横浜高校に入学してからだった。

 当時の笹尾晃平監督は、練習中は鬼のように厳しかった一方、ユニフォームを脱げば優しかった。渡辺は帰宅後、監督の家まで走っていき、個人的に素振りを見てもらったという。

「あれは、僕と違ってマジメだったからね」

 同級生で、のちに渡辺とコンビを組むことになる横浜高校野球部元部長の小倉清一郎はそう振り返っている。こうした日々の経験が、のちの指導者・渡辺元智の土壌となった。

 高校3年夏は神奈川大会準決勝で敗れ、甲子園には届かなかった。進学した神奈川大学では肩を痛め、2年途中で野球を断念。プロ野球選手になる夢を失った渡辺は荒れた。酒を飲み、車を乗り回し、ケンカもした。大学も中退し、「自暴自棄の日々だった」という。

 そんな失意のなかにいた1965年、横浜高校から「野球部のコーチをやってくれないか」と電話がかかってきた。

「やらせてもらいます」

 また野球ができる。その思いで即答した。

【厳しさだけでは人は育たない】

 しかし、指導者としての理論も経験もない。1968年に監督へ就任すると、ただがむしゃらに厳しい練習を課し、1973年春には選抜初出場で初優勝。当時28歳という若さだった。

 ただ、「オレについてこい。闘志なき者はグラウンドを去れ」という熱血指導は、すべてがうまく回っているうちはいい。しかし、ひとたび歯車が狂えば、経験不足や理論の甘さが表面化する。春夏連覇を目指した1973年夏は、桐蔭学園に0対1で敗れ、甲子園出場も逃した。

 スパルタだけでは限界がある──そう感じ始めた渡辺に転機が訪れたのは32歳の時だった。教員免許取得のため関東学院大学に通うなかで、選手との距離の取り方が変わっていった。

「手取り足取り教えるのではなく、黙って見守るのも指導だと思う。あとで言葉をかければ、『見ていてくれたんだ』という信頼が築ける」

 根強く残っていた陰湿な上下関係も、時間をかけてあらためていった。その積み重ねが1980年夏の全国制覇へと結実する。厳しさ一辺倒だった指導から、選手とのコミュニケーションを大切にする指導へ。渡辺自身も、監督として成長していった。

 1986年、初めて渡辺監督を訪ねた時、こんなことを話していた。

「監督と選手、あるいは選手同士が、目と目で相手をわかり合えるアイ・コンタクトが理想なんです」

 サッカー日本代表を率いたハンス・オフト監督によって「アイ・コンタクト」という言葉が広く知られるようになるより、ずっと前のことだ。

 横浜では、監督のサインに選手が疑問を感じたときには、必ずタイムを取って確認することを徹底していた。これもコミュニケーションを重視した渡辺野球のひとつだったのだろう。

「いくら点差があっても、その場でできる最善のプレーをする......これが横浜の強さやな」

 1998年夏、6点のリードを8、9回でひっくり返された明徳義塾・馬淵史郎監督はそう漏らした。

 たとえば、走者の第二リード。横浜の選手は1球ごとに限界ぎりぎりまでリードを取ることを怠らない。バントが微妙なコースに転がった時、そのわずかな差が進塁の成否を左右するからだ。

「つねに変化する状況のなかで、どういうプレーをするのがベストかを瞬時に判断する。選手たちには、まずそういう判断力を養ってもらいたいんです」

 それが渡辺監督の考えだった。

【今も横浜に息づくゲンさんの野球】

 経験を重ねるにつれ、選手の心を動かす手綱さばきも巧みになった。1998年夏、3回戦の前日練習で選手たちに気合いが入っていないと見ると、雷を落とし、練習を途中で切り上げた。打撃練習もできず、内心には不安もあった。

それでも毅然とした態度を崩さず、あえてチームに喝を入れた。

 翌日、球場へ向かうバスの中で、マネージャーが渡辺監督に耳打ちした。

「選手はみんな、近くのバッティングセンターで遅くまで練習していました。深夜まで素振りをしていた者もいます」

 その試合、横浜は強敵・星稜(石川)に5対0で完勝した。

 その後も2006年春の選抜を制し、渡辺監督のもとからは数えきれないほどのプロ野球選手が巣立っていった。

 近年、甲子園で「ゲンさん」と顔を合わせるのは、テレビ中継の解説に訪れた際に挨拶を交わす程度になっていた。監督を退いてから、以前にも増して柔らかくなった笑顔が、今も思い出される。

 そして今、かつて渡辺監督の記事を読んで「横浜高校で野球をしたい」と憧れた少年が、横浜の監督となり、選手たちを率いて甲子園を戦っている。

 1球ごとに最善を尽くし、自ら判断し、仲間と意思を通わせる──時代が変わり、監督が変わっても、その野球の根っこには、ゲンさんが長い歳月をかけて横浜に植えつけたものが、たしかに息づいている。

合掌

楊順行●文 text by Nobuyuki Yo

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