【指揮官と箱根駅伝】創価大・榎木和貴監督の原点 中央大での「...の画像はこちら >>

連載第2回:指揮官と箱根駅伝/榎木和貴(創価大駅伝部監督、中央大OB)~前編~

 現在、箱根駅伝に注力する学校の指導にあたる多くの指揮官は、自身もかつてランナーとして箱根路を走った経験がある。彼らにとって学生時代、そして指揮官となった今では、箱根駅伝はどのような存在なのか。

 それぞれの歩みと心境の変化を紹介する本企画の第2回目は、現在創価大学駅伝部で指揮を執る榎木和貴監督。現役時代は中央大で4年連続区間賞を獲得し、3年時は総合優勝に貢献するなど箱根路の歴史に名を刻む実績を残したが、どのような思いで走り続けていたのか。

【高校時代の恩師の影響で中大】

 102回を数える箱根駅伝の歴史において、1年時から4年連続で区間賞を獲得したランナーはわずか8人しかいない。その快挙を成し遂げたひとりが、現在創価大の指揮を執る榎木和貴監督だ。

 榎木は1993年に中央大に入学。大学1、2年時は8区で、3、4年時は4区で区間賞に輝き、3年時の第72回大会(1996年)はチームの総合優勝に貢献している。

 宮崎県出身の榎木は小学生の頃は剣道をやっていたが、中学生になって陸上に取り組み始めると、全国大会に出場するまでに力をつけた。そして、強豪・小林高校に進んでからも全国高校駅伝に3年連続出場するなど活躍し、その先の目標として箱根駅伝を目指すようになった。

「高校の時の指導者だった冨永博文監督が中大出身で、箱根駅伝の放送が日本テレビで始まったのが冨永監督が大学4年生の時でした。駅伝シーズンが近づくと、その当時の中継映像のビデオが食事の時に流れていたんです。そういうのもあって、高校時代に箱根駅伝に憧れを持ち始めました。

 そもそも当時の宮崎では、復路は編集されたダイジェストが放映されていましたが、(日本テレビ系列のテレビ局がないため)往路は放送がなかったんです。

 私の3つ上の年代には"早大三羽烏"と呼ばれた武井隆次さん、花田勝彦さん、櫛部静二さん、一つ上に渡辺康幸さんがいらっしゃって、当時は早大がスター集団でした。

留学生を擁する山梨学院大も強くて、テレビでは盛り上がりを見せ始めていました」

 そんな時代にあって、榎木が憧れたのは、恩師・冨永監督の母校・中大だった。

「シンプルな真っ白に真紅の"C"。ユニフォームを見て、一番憧れを持ちました」

 当時の中大は箱根駅伝で常に上位だったが、6連覇を果たした第40回大会(1964年)を最後に、総合優勝からは約30年も遠ざかっていた。その6連覇のメンバーで外部コーチとして指導に当たっていた碓井哲雄氏からスカウトを受けた際に「近いうちに優勝をしなければいけない。そのために力を貸してほしい」と言われたことも、榎木の胸を打った。

「箱根で勝つために大学を選びましたし、同期には松田(和宏、福島・学法石川高校監督)もいたので、"絶対に箱根で優勝しよう"と1年目からチャレンジしていきました」

 こんな強い意志を持って、古豪の門をたたいた。

【無我夢中の1年目、危機感が残った2年目の区間賞】

 とはいえ、出雲駅伝、全日本大学駅伝と、同期の松田が好走した一方で、榎木は補員に名前を連ねたものの、出走には至らなかった。

「おそらく10~12番目のポジションだったと思います。このままだと、箱根駅伝も厳しいなという状況でした」

 ところが、12月に入ると調子が上向き、チャンスが巡ってきた。

「12月に合宿があって、箱根のメンバーを決める練習で10番目に滑り込みました。たぶん碓井さんのなかでは起用したい上級生がいたと思うんですけど、その先輩がうまく走れず、たまたま私の調子が上がってきたので、8区に抜擢されました」

 見事にチャンスをものにし、1年目から箱根路を駆けることになった。

 そして、"10番目"の選手は本番でも躍動する。チームは優勝争いから遠のき、榎木がタスキを受けたのは4位。

「なんとしても3位まで上がりたいと思っていましたが、前も後ろもまったく見えないので、自分が立てた目標タイムで走ることに集中しました」

 何がなんだかわからないうちに21km超を駆け抜けると、なんと区間記録にあと11秒と迫る快走で区間賞を獲得した。

「中大に入った時点では箱根を1回走れればいいかなと思っていたので、1年生で走ることができて達成感がありました。でも、優勝を目指すチームなので、メンバーから外れた先輩たちの思いに応えなきゃいけないと思っていましたから、手放しで大喜びするようなことはありませんでした。

 それに、同期の松田は、1年目からエース区間を担っているわけですから。同期にそういう存在がいるのはやっぱり一番大きかったですね」

 夢の舞台での活躍に有頂天になりそうなものだが、榎木は気を引き締め直していた。

 2年目は、当然主力としての活躍が期待された。しかし、なかなか調子が上がらず、箱根ではまたしても8区を走ることになった。

「もう1回、8区を走るのであれば、区間記録を出さなきゃ」と思ったものの、入りの10kmは前年よりも10~15秒も遅かった。「これはやばい」と思って後半に入りギアを上げると、従来の区間記録を17秒も更新する新記録を打ち立て、2年連続で8区区間賞に輝いた。

 チームは、終盤の8区・榎木、9区・菅陽一郎、10区・佐藤信之と3区間連続で区間賞を獲得し、復路優勝を果たした。しかし、総合順位は3位にとどまった。上級生に実績がある選手が揃ったこの年は総合優勝の好機といえたが、またしても悲願達成とはならなかった。

「9区、10区の先輩たちが卒業するので、また新たな戦力を整えないといけない。このままではダメだなと思いました」

 復路を制し、いよいよ総合優勝への機運が高まったのかと思いきや、思いを募らせたのはそんな危機感だった。

【総合優勝に貢献した3年目の快走】

 3年目は「三大駅伝で全部優勝しよう」という意気込みだった。

出雲は3位、全日本は2位と、惜しくも優勝には届かなかったものの、チームは優勝争いを繰り広げ、箱根に向けて手応えをつかんだ。榎木は、出雲は1区で、全日本は2区で区間賞と、主力選手のひとりとして存在感を示した。

 何より全日本で味わった悔しさは起爆剤になった。優勝をつかみかけたものの、最終区で早大の渡辺に逆転を喫し、その当事者となった松田の悔し涙がチームの結束をより強固なものにしていた。

「みんなが松田の悔し泣きを見たので、"松田のためにも絶対に優勝しなければいけない"と、箱根に向けてモチベーションが上がったように思います」

 チームは、強い意気込みを持って、箱根駅伝に臨んだ。まかされたのは、準エース区間の4区だった。

「復路は自分のペースを崩さずに1km3分ペースで押し切れば、当時は区間賞が獲れました。でも、往路ではそうはいかない。速い入りとか、駆け引きに対応できるような走りが必要です。

ようやく往路で戦える力がついたと、大志田さん(秀次、榎木の2年目にコーチ就任。現・明治大監督)に認めてもらえたのかな」

 この年の第72回(1996年)大会では、榎木がまかされた4区で波乱が立て続けに起きた。

 榎木がライバルになると踏んだのは山梨学院大の中村祐二だった。社会人を経て大学生になった中村は同学年。箱根では1年時に3区、2年時に1区で、榎木と同様に2年連続で区間賞を獲得し、チームはいずれの年も総合優勝を飾っている。さらに、1995年のイエテボリ世界選手権に日本代表としてマラソンに出場しており、学生の枠を超えた活躍を見せていた。

「中村さんとの勝負を意識しながらも、連続区間賞が途切れるなら今年なのかなと思っていました。直前に"ケガをしているらしい"という噂が流れましたが、中村さんだったら少々痛みがあるぐらいなら走るだろうと思っていたので、どれだけ抗えるかにチャレンジしようと思いました」

 それが正直な榎木の胸中だった。

 その中村から39秒遅れの6位で、榎木は平塚中継所をスタートした。

 ところが、走り始めて早々に、今にも歩き出しそうな中村を抜き去った。さらに1㎞ぐらい進むと、中継車が折り返して後方に向かっていたので、ただ事ではないことが起きているのを察した。

 走り終えて知ったことだが、山梨学院大の中村だけでなく、2位を走っていた神奈川大の高嶋康司にもアクシデントがあり、4区で2校が途中棄権していた。

 一方、榎木の走りは快調そのものだった。

「自分のなかでは最高の走りができました」

 テレビにはなかなか映されなかったが、4つ順位を上げる活躍で2位に浮上。小田原中継所が近づくにつれ、3分近く前を走っていた首位の早大のエンジのユニフォームも視界に捉えられるようになった。

 結局、先頭までは届かなかったが、区間記録に迫る力走で早大との差を32秒まで縮め、逆転優勝に望みをつないだ。

 往路を2位で終えた中大は、復路の6区でついに先頭に立つ。さらに、8区の川波貴臣は、榎木が持っていた区間記録を更新する快走で、粘る早大を一気に突き放した。そして、9区、10区と危なげないレース運びで、ついに32年ぶりの栄光を手にした。

 悲願の箱根優勝に、もちろん達成感はあった。だが、いつまでも感慨にふけっているわけにはいかなかった。

「やっぱり自分たちが最上級生になった年に勝ちたい。そんな話を、松田ともしていました。戦力も充実していたので、4年目は連覇を確実にやり遂げようと考えていました」

 箱根連覇を誓って、いよいよ大学ラストイヤーを迎えた。

●Profile
えのき・かずたか/1974年6月7日生まれ、宮崎県出身。小林高(宮崎)―中央大―旭化成―トヨタ紡織。全国高校駅伝に3年連続出場を果たし、2年時には4区で区間賞を獲得。中央大では箱根駅伝で4年連続区間賞に輝き、3年時(1996年、第72回大会)にはチーム14回目の総合優勝に貢献した。卒業後は旭化成に入社し、2000年の別府大分毎日マラソンで優勝。2004年に沖電気のコーチに就任し指導者となる。その後、トヨタ紡織陸上競技部コーチ(選手兼任)、監督を経て、2019年に創価大学陸上競技部駅伝部の監督に就任すると、1年目の箱根でチーム史上初のシード権を獲得し、現在まで7大会連続シード権獲得中。就任2年目の2021年大会では往路優勝、総合2位に導いた。

和田悟志●取材・文 text by Satoshi Wada

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