織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。
では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語! 
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~鎌倉幕府3...の画像はこちら >>
▲鶴岡八幡宮の「大銀杏」跡(神奈川県鎌倉市)※大銀杏は2010年に倒壊

  源頼朝の子であり、鎌倉幕府の第3代将軍となった「源実朝(さねとも)」。
 歌人としても知られ小倉百人一首にも名を列ねる実朝は、ある者の襲撃を受けて、28年の生涯を終えることになりました。
 その討手こそ、実朝の甥で猶子(ゆうし:相続を伴わない養子)となっていた「公暁(こうぎょう/こうきょう)」という一人の僧侶だったのです。

 公暁は正治2年(1200年)に、2代将軍の源頼家(よりいえ)の子として生まれました。頼家の親は初代将軍の源頼朝と北条政子ですので、公暁は2人の孫にあたります。幼名を「善哉(ぜんざい)」と言った公暁は、幕府の有力御家人の三浦義村(みうら・よしむら)を乳母夫(めのと≒養育係)として、将軍である父・頼家の後継者として養育されていくはずでした。

 しかし、建仁3年(1203年)、幕府内の権力を握ろうとしていた北条時政(ほうじょう・ときまさ:政子の父)の謀略によって、将軍・頼家の乳母夫を務めた比企能員(ひき・よしかず)の一族が粛清されてしまいます。比企一族という後ろ盾を失った頼家は将軍職を追放され、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉されてしまいます。そして、翌・元久元年(1204年)に北条家の手の者によって入浴中を襲撃され、暗殺されてしまいました。

 この一連の事件を「比企能員の変」といいます。これは、頼家が23歳、公暁が5歳の時の出来事でした。
 そして、頼家に替わって将軍になったのが、公暁の叔父にあたる12歳の源実朝だったのです。

この血なまぐさい政変が、幼い公暁の心に闇を落とすことになりました。

 その翌年(元久2年:1205年)、北条政子によって公暁は出家させられ、鶴岡八幡宮の別当(≒長官)に弟子入りし、一族の菩提を弔う使命を背負うことになりました。家督争いに関する新たな火種を生まないための措置であったと考えられます。
 さらに、その翌年(建永元年:1206年)に、政子の計らいによって、公暁は実朝の猶子となりました。これは実家の北条家の謀略によって亡くなった頼家に対する負い目から、その遺児を支えようという考えが政子にあったのかもしれません。

 

 その後、公暁は建暦元年(1211年)に、落飾(剃髪して仏門に入ること)して、園城寺(おんじょうじ=三井寺)で伝法灌頂(でんぼうかんじょう:真言宗の秘法を受け継ぐ儀式)を受けて、阿闍梨(あじゃり:伝法灌頂を受けた僧侶)となります。


 公暁は一般的に「くぎょう」と言われていますが、園城寺の師である公胤は「こういん」と読むことから、正しい読みは「こうぎょう/こうきょう」ではないかと最近では言われています。

 その後、しばらく園城寺で活動した公暁は、建保5年(1217年)6月に鎌倉へ下向し、政子の命により、鶴岡八幡宮の別当に就任することになりました。
 10月11日に別当として初めて神拝(しんぱい)した公暁ですが、この日から不審な行動を取ります。
 後に鎌倉幕府が編纂した公文書である『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、こう記されています。
「宿願に依りて、今日以後一千日、宮寺に参籠せしめ給ふ可しと云々」
 つまり、公暁は別当としての職務を放棄して、ある「宿願」を果たすために1000日もの間、寺に籠って祈り始めたというのです。
 公暁はこの時、剃髪をしなかったそうで、人々はこれを怪しんだと言います。

剃髪をしなかったのは「宿願」を果たした後に、還俗(げんぞく)をする目論見だったのでしょう。

 そして、公暁の「宿願」を果たすべき時を迎えます。
 建保7年(1219年)1月27日―――。日中の晴天が一転して夜には雪が降り、2尺(約60cm)の積雪があったそうです。

 3代将軍の実朝は、この前年に官位の昇進が重なり、12月2日に右大臣へと昇格をしていました。
 この1月27日は、その右大臣の拝賀の日であり、多数の公卿や御家人、随兵を従えた大行列は酉の刻(午後6時頃)に鶴岡八幡宮へと向かいました。

路次に控えた随兵は1000騎を数えたといいます。
 門弟の三浦駒若丸(こまわかまる:義村の子)から情報を得ていた公暁は、宿願を果たすため、法師の恰好で頭に兜巾(ときん:山伏が被る小さな頭巾)を被って境内に身を隠し、その時を待っていました。

 この時、公暁は大石段の脇にそびえていた大銀杏に身を隠していたという伝説が残されていますが、鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』や『愚管抄(ぐかんしょう)』などの史料には記されていません。どうやら江戸時代以降に創られた逸話のようです。

 社殿で右大臣拝賀の儀式を終え大石段を下ると、実朝は立ち並ぶ公卿の前を歩き始めました。公暁は実朝の姿を目にすると、太刀を抜きました。

いよいよ宿願を果たす時が訪れたのです。
 実朝はこの時、束帯(公家の正装)の下に着用する下襲(したさがね)の裾を後ろに長く引きながら歩いていました。

 拝賀の列に飛び出した公暁は、下襲の裾に飛び乗って実朝の動きを封じました。そして、長年の恨みを晴らすかのように、太刀で実朝の頭を斬りつけました。
「親の敵(かたき)は、かく討つぞ!」
公暁はそう叫びながら、刀を振り下ろしたと言います。
 その一刀で実朝は重傷を負い、その場に倒れると、公暁はすぐさま実朝の首を挙げました。

 

 実朝の首を手にした公暁は、大石段を駆け上り、その上で「別当、阿闍梨(あじゃり)公暁! 父の敵を討ち取ったり!」と名乗りを上げたと『吾妻鏡』には記されています。
 実朝の享年は28でした。
 実朝に従っていた者たちは「皆、蜘(くも)の子を散すごとくに、公卿も何(いずれ)も逃げにけり」と『愚管抄』にあるように、すぐさま逃げ出してしまったそうです。

 その後、公暁は実朝の首を持って、雪下北谷(ゆきのしたきたがのやつ)にある備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり:公暁の後見人)の屋敷を訪れ、食事をしました。この食事の際、公暁は実朝の首をずっと手放さなかったといいます。一種の興奮状態にあったと考えられ、「宿願」への強い執念を感じる一方、生い立ちから生まれた狂気を垣間見られます。

 食事を終えた公暁は、自身の乳母夫である三浦義村に使者を送り、こう伝えたと言います。
「今、将軍の闕(欠)有り。吾れ専ら東関の長に当たる也。早く計儀を廻らすべし」
 つまり「将軍に欠員ができたので、我こそ関東の長の当たるのだから、早く計略を巡らせてくれ」と命令したのです。義村は公暁の乳母夫であり、その子の駒若丸は公暁の門弟であったことから、義村は第一の家臣として、自身に味方をしてくれると期待したようです。

 公暁の使者から報せを受けた義村は「迎えの兵を出すので、自分の家に来てほしい」と迎えの兵を送った後、北条義時に使者を送って事情を告げました。
すると、義時からは「阿闍梨(公暁)を誅し奉るべし」と命じられたため、軍議を開いた義村は、一転して公暁へ刺客を送ることを決定します。
 軍議では「(公暁は)はなはだ武勇に足り、直(ただ)なる人には非ず」と公暁の武勇を普通の人ではないと警戒し、義村は家中で「勇敢の器」と称される長尾定景(ながお・さだかげ)を刺客に選び、5人の郎党をつけて、甲冑を身に付けさせ、備中阿闍梨の屋敷へと向かわせました。

 その頃、公暁は義村からの迎えが遅いので、備中阿闍梨の屋敷を出て、義村の屋敷へと向かっていました。鶴岡八幡宮の背後の大臣山(だいじんやま)を登っていると、向こうから6人の武士が降ってくるのが目に入りました。
 公暁は義村が派遣した、味方となる兵だと思ったでしょう。しかし、それは公暁を殺めるために遣われた刺客だったのです。簡易な腹巻(鎧の一種)を身にまとった公暁は、一人で刺客たちに立ち向かったものの、衆寡敵せず、刺客の1人の雑賀次郎(さいかの・じろう)に組み敷かれ、定景によって首を落とされてしまいました。
 こうして公暁は「宿願」を遂げたわずか数時間後に、その生涯を終えました。享年は20でした。

 公暁が挙げた実朝の首は、どういうわけか、行方が分からなくなりました。そのため、首の代わりに髪を胴と共に入棺し、勝長寿院(しょうちょうじいん:鎌倉市)に葬られました。また一説によると、実朝の首は、公暁への刺客の1人だった武常晴(たけ・つねはる)が持ち去ったといいます。詳しい理由は不明ながら、波多野家を頼って埋葬され、実朝を供養するため、首塚の近くに金剛寺(神奈川県秦野市)が創建されたと言います。

 一方で、刺客に取られた公暁の首は、義村によって北条義時の下へ運ばれ首実検が行われたと言います。しかし、その後の公暁の首の行方は知れず、公暁に関する墓や供養塔は、未だに見つかっていません。