織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。3人の天下人を出したにもかかわらず、都にならなかったのはなぜなのか。
徳川宗春をモデルにした時代小説、『尾張春風伝』の作者でもある清水義範が、『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)でこう分析する。戦国時代に天下人を次々に出した名古屋
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 名古屋とは歴史的に見てどんなところであったのだろう。

 それを考えてみてすぐに気がつくことは、名古屋から戦国時代に天下人が次々に出た、ということだ。このことを単なる偶然だと思っている人もいようが、そうではない。天下を取るために名古屋は絶妙なところにあるのだ。

 まずは、織田信長が那古野城から出て、清洲城(清須城)を手に入れ、岐阜へと進み、安土城へと手を伸ばした。これは現在の東海道本線とほぼ同じルートで、京を目指しているわけである。信長は京を征服したかったのだ。だが、それが思わぬ反乱で頓挫してしまった。

 すると次に天下を手中にしたのは豊臣秀吉であった。尾張の中村から出た最下層の身分でありながら、信長に重用されて重役陣の一人となり、明智光秀を討って天下人になったのだ。そして秀吉は大坂城を造りそこを都とした。

 秀吉が死んだあと、天下を取ったのは徳川家康である。家康は尾張ではなく、三河の岡崎の出身であるが、名古屋圏と考えていいであろう。天下人が3人とも名古屋圏から出ているのである。これは偶然ではない。甲斐の武田信玄とか、越後の上杉謙信なども名将だったが、彼らが京へ出て天下を取るには、故国が京から遠すぎたのだ。地元で活躍しているうちに、名古屋の者に天下を取られてしまった。つまり、名古屋は天下取りのための絶妙な位置にあるということだ。

 ところがである、天下を手中に収めた名古屋人は、その名古屋を都にしようとは思わないのだ。信長は京を目指し、秀吉は大坂を都にし、家康は江戸に幕府を開いた。3人が3人とも、名古屋からスタートして天下を取ったのに、そうなってしまうと名古屋には帰らないのだ。

 なぜ名古屋は都にならないのか

 現在の名古屋市は1610年に家康が作らせた街だが、なぜその辺りを日本の都としなかったのだろう。なぜ名古屋は都にならないのか。

 私の空想では、名古屋は天下取りのために出かけるところであって、天下を取って戻ってくるところではないのである。なぜならば、名古屋には昔のことをよく知っている連中がいっぱいいて、なれあって近づいてきて、天下人を引きずりおろすような様子を見せるであろうからである。

 名古屋人は天下を取った人物でさえ、昔のことをよう知っとるツレだがや、という地点に引きずりおろす。

 信長だって、名古屋人に言わせれば、バカな格好でうろついとったうつけ殿だがや、ということになる。うつけ殿がどうしたはずみか天下を取ったようなことになってしまっとるけど、昔のことを知っとるで威張られてもピンとこんわ、というのが名古屋人の反応なのだ。

成功したら帰りたくない街

 秀吉などは、中村のサルだがや、と言われてしまう。殿様の草履をあたためとった奴が関白様だと言われても、どうしたって昔の姿を思い出してまうがや、と言われる。だから秀吉は名古屋に帰りたくなかったのではないだろうか。

 家康ならば、那古野城の人質だがや、と言われてしまう。そのあと今川の人質だわさ。人質殿が将軍様だと言われても、実感がわかんなあ、というのが名古屋人なのだ。

 というわけで、名古屋は天下を取るのに絶妙の位置にあるのだが、天下を取ったあと帰りたいところではないのだ。

戻ったら、ツレ・コネクション(なれあい)の中に引きずり落とされてしまうから。

 それで名古屋は、とうとう日本の都になることがなかったような気が、私にはする。

 成功したら帰りたくない街、それが名古屋なのだ。

清水義範著『日本の異界 名古屋』(ベスト新書)では、尾張藩の歴史や奇才藩主徳川宗春と吉宗にまつわる話などがユーモラスかつわかりやすく紹介されている。
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