平賀=キートン・太一が「ビッグコミック・オリジナル」に帰ってきた!
この報に胸を熱くしたファンは多いはずである。コミックスも一時は品切れ状態になっていたが(事情は各自調査!)、2011年8月から『完全版』の刊行が開始された。
そうか、あれは連載再開に向けての伏線だったのか、と納得した次第。
もしかするとご存じない方がいるかもしれないので、一応基本情報だけさらっておこう。『MASTERキートン』は「ビッグコミック・オリジナル」にかつて連載された作品で、作画は浦沢直樹、原作を勝鹿北星(きむらはじめ)が担当している。またコミックスでは後に小学館の編集者だった長崎尚志が編集担当者としてクレジットされるようになった。再開された『MASTERキートン Reマスター』ではその長崎がストーリー担当である。
主人公の平賀=キートン・太一は、動物学者の父親とイギリスの旧家出身の母親の間に生まれた。
両親は離婚しているが(そのエピソードを綴ったのが「遙かなるサマープディング」である)、自身も離婚の体験者で、娘の百合子からは父の太平ともども「平賀家の男たちのだらしなさ」に呆れられている。太一は考古学者だが教員職には恵まれず、各大学の非常勤講師を転々としている。むしろ主要な収入源は副業であるイギリスのロイズ保険組合の調査員仕事だ。イギリス国籍を持つ太一は、志願して陸軍に入隊していた時期があった。特殊空挺部隊(SAS)に属したこともあり、身の回りにあるものを利用して闘い、生き延びるというサバイバル技術の専門家でもあるのだ。
普段はインテリの優男にしか見えない太一が、実はどんな荒くれ者よりも逞しく、強いという意外さが、このキャラクターに輝かしい個性を付与している。
平賀=キートン・太一は二面性の男だ。イギリスと日本、研究者と軍人、知性と武力、優しさと強さ、娘に甘い父親と孤独な私立探偵といった二項対立が常に読者の前に明示され、各話のプロットにもそれが活かされるのだ。特に多義的に用いられているのが、題名にもあるMASTERの一語である。研究者としての彼は修士(MASTER)で、学位論文を書いて博士号を取りたいという目標を持っている。軍人としての彼はSASの教官(MASTER)を務めていたが、かつて師にあたる立場だった人から「プロフェッサーにはなれないな。戦闘のプロとしては甘すぎる。
せいぜい達人(マスター)どまりだ」と弱点を指摘されたこともある。浦沢には工藤かずや原作の『パイナップルARMY』という元傭兵の主人公を描いた作品があり、ミステリーファンにはこちらも人気が高い(連載初期の太一には、若干『パイナップルARMY』の影もある)。『ARMY』と『MASTER』、甲乙つけ難いが、作品のハードさでは前者、キャラクター・ストーリーのおもしろさでは後者ということになるのではないだろうか。
『MASTERキートン』は1話完結の話が多い作品だ。限られたページ数の中で必ず太一の特徴を活かしたエピソードが盛りこまれる趣向であり、時にはそれが事件解決の鍵となることもある。初期段階で特に強調されていたのが身の回りにあるものを使って生き延びるというサバイバル技術で、備品を何の気なしに持ち帰ってしまう癖がある大学講師として初登場した太一が、終盤でその技術を使って活躍する「迷宮の男」はキャラクター紹介回としては非の打ち所のない傑作だ。

これは原作者サイドの手柄になるだろうが、冷戦体制の崩壊、テロリズムの蔓延という当時の社会情勢をきちんと背景に織り込み、サスペンスとスリルを盛り上げるだけではなく謎解きの興味にも配慮したストーリーは実に高密度であり、浦沢の作画と幸せな相乗効果を上げている。太一の考古学研究に対する思い(その伏線は「小さなブルーレディー」ですでに張られている)、SAS出身の元軍人という身分といったシリーズ設定がうまく使われ、全体として一つの流れができている点も評価すべきである。
以下にベスト10エピソードを選んでみる。なるべく連載初期に偏らないようにしているので、「あれが入ってない!」といったクレームはご遠慮を。とりあえず順不同である。また巻数はすべてオリジナルのものなので、「完全版」で揃えている方は目安としてどうぞ。


「黒と白の熱砂」「砂漠のカーリマン」(1巻)
現地の人間を怒らせてしまった発掘隊が砂漠の真ん中に置き去りにされてしまい、太一が一同を率いて生き残るための徒歩行に臨む。太一のサバイバル技術を中心に据えた名篇で、やはりこれは外せない。幕切れの一言もシリーズを代表する名台詞である。細かいところだが、直前のCHAPTER:4「ダビデの小石」で出てきた出土品を太一が活用して戦おうとするがあり、小道具の使い方も巧い。

「狩人の季節」「獲物の季節」「収穫の季節」(2巻)
キートンが自らの教官であった人物と対決することになる。ナイフ使いの怖さを描いた回でもあり、接近戦では拳銃よりナイフのほうが強い、という知識をこのエピソードで刷りこまれた読者も多いのではないか。
先の「せいぜいマスターどまり」という台詞はこの回に出てくる。

「FIRE&ICE」(2巻)
映画「炎のランナー」を彷彿とさせる短距離走者たちの物語。『MASETERキートン』には過去のあやまちと赦しをテーマにした人情回がたくさんあるのだが、その中でもこれは男同士の友情を描いて感動を呼ぶ。「ファイアマン!! ワインを慎め。それから……新鮮なグレープフルーツジュースを飲むんだ!!」の台詞を読むたびに私は泣けてきます。

「屋根の下の巴里」(3巻)
研究者としての太一を描いた一篇。廃校間近のシモンズ社会人学校で太一はセミナーの講義を受け持つ。そこで彼が回想するのは、オクスフォード大学時代の恩師、ユーリー・スコット教授のことだった。いついかなるときでも学び続けることの大事さを語り、若者に夢を与える素敵なエピソードだ。この話にも最終話につながる伏線が張られている。

「穏やかな死」(4巻)
かつてIRAに爆弾作りの天才がいた。その男が急に太一と接触してくる。SASの爆弾処理班で腕をふるった彼に、自分の作った時限爆弾を止めてもらいたいというのだ。タイムリミットサスペンスであり、小道具の使い方が実に見事。また人生の意味についてさりげなく描いた作品でもある。

「長く暑い日」(4巻)
父・太平の活躍篇をできれば入れたかったのだが、収まらなかったので代わりにこれを。ある山奥で、太一が軍用犬に命を狙われる。殺人の訓練をされた犬は、危険極まりない武器となってしまうのだ。犬と太一との無言の攻防がおもしろい。最後に鍵を握るのが、父・太平に教えられた、動物学の知識なのだ。

「チャーリー」(5巻)
シリーズの名脇役であるチャーリー・チャップマンの登場回。太一がイギリスに移住したときからの幼なじみであり、彼を「ハーフ・ジャパニーズ」と呼ぶチャーリーは、自身もイタリア系で生粋のイギリス人ではない。太一をことごとくライバル視し、私立探偵社を築いて名をあげるのだ。ただし女に甘いチャーリーは肝腎のところで詰めが甘く、太一に最後はしてやられることになる。キャラクターのモデルは、CMでドラえもんにも扮しているあの人である。

「ハーメルンから来た男」「ハノーファーに来た男」「オルミュッツから来た男」(8巻)
ナチスドイツによる民族大虐殺をテーマとした謎解き篇に、ハーメルンの笛吹き男伝説が絡む。考古学と冒険という二つのテーマが有機的に絡み合い、このシリーズを代表する作品ということができる。さらに東ドイツからやってきた名無しの特殊工作員と太一の闘いというサイドストーリーもあり、盛りだくさんだ。この名無しの殺し屋は、シリーズのキーマンの一人でもある。

「豹の檻」「カルーンの鷲」「アナトリアの蟻」「死の都市の蠍」「井戸の中の鼠」(8巻)
最終巻のエピソードに並ぶボリュームで冒険小説の王道プロットを用いた巨編だ。イギリスの王族の一人であるノーフォーク公がイラクで脱出不可能の事態に陥り、彼の友人でサバイバル技術のエキスパートである太一が救出者として選ばれる。彼の元に極秘の使者がやってくる第一話から期待を掻き立てられ、ノーフォーク公が糖尿病で、インシュリンをうたないと生命の危機があるということからタイムリミットの設定によってスリルが否応なしに高まっていく。敵の軍人がフセインそっくりに描かれているのもサブリミナル的な効果を上げているはずだ。

「メイドインジャパン」(3部作)(16巻)
後期を代表する作品としてこの回を上げておきたい。大学生になった百合子が参加した発掘ツアーに太一がやってくるのだが、そこで非常事態が発生する。なんと彼を狙った殺し屋が、ツアーの中に紛れ込んでいたのだ。殺し屋と太一の緊張感溢れる攻防戦に加え、どんでん返しの妙味もある。まるで必殺仕事人のような、その殺しの手口にも注目である。

さて、今回の『Reマスター』にも触れておこう。QUEST1:「眠り男」が「ビッグコミック・オリジナル」2012年4月5日号に掲載された。すでに発表されたところによれば正編から20年後の物語であるというが、作中に正確な時の経過を記した個所はない。かつての登場人物で顔を出しているのは今のところ探偵事務所の相棒だったダニエルだけだ。すでに太一は探偵を廃業し、研究者一本に道を絞って念願の博士号にも手が届く位置までやってきた。だが、ダニエルが探偵事務所としての仕事を積み残しており、その尻拭いのために再び立ち上がることになるのだ。売春組織の人身売買に絡む物語が以前と変わらない緊密さで綴られており、かつての読者であれば、すぐにストーリーの中へと引きこまれることは間違いない。
この設定が次回以降も続けられるのか、ダニエル以外の登場人物はどうなった、といったシリーズの謎については、今回はお預け。次回は5月に掲載の予定で、どうやら不定期連載として今後も続いていくようだ。気になるお楽しみはまた後で、ということだろう。個人的にはチャーリーがどうなっているのかが気になる。たぶんママそっくりの気の強い女性と結婚して、尻に敷かれているのではないかと思うのだが……。いや、次回が本当に楽しみです!(杉江松恋)