女子バレー稀代のオールラウンダー
新鍋理沙が歩んだ道(1)
6月20日に発表された、久光スプリングス(旧久光製薬スプリングス)・新鍋理沙の引退は多くのファンに衝撃を与えた。バレーボール女子日本代表ではロンドン五輪の銅メダル獲得に貢献し、中田ジャパンでも「守備の要」を担うアウトサイドヒッターとして東京五輪での活躍が期待されていた。
長らく女子バレー界を支えてきた新鍋は、どんな競技人生を送ってきたのか。引退後のインタビューでその軌跡を辿る連載の第1回は、バレーを始めた小学校時代から親友と出会った中学時代について語った。
今年6月に引退した新鍋理沙 photo by Kimura Masashi
新鍋がバレーボールを始めたのは、地元・鹿児島県霧島市(合併前の福山町)にある小学校に通い出してから。その小学校にはバレーを指導できる人がおらず、経験者だった両親が外部スタッフとして少年団の指導をしていたため、新鍋も自然とそこでバレーを始めた。
その前から両親に連れられて体育館に行くことが多く、ボール遊びやボール拾いをしていたこともあり、小学校に入学したら「(バレーを)やるのが当然だと思っていた」と話す。
「ひとりで留守番をするのが嫌だったので(笑)。小学校に上がってからも、『お母さんもお父さんもいるし、友達もいるから』みたいな感覚でバレーを始めました」
少年団ではポジションが固定され、基本的にはアタッカーだったが、セッターの選手が急にやめた時に、1回だけセッターで試合に出たことがあるという。
「1年生の時だったと思います。本当に人が足りない緊急事態で、父か母に『理沙がセッターだよ』と言われました。バレーを始めてそんなに長くなかったですし、すごく怖かったです。ボールは全部、トスじゃなくてアンダーで上げて、相手がスパイクを打ってくる時は毎回ネットの下でしゃがんでいました(笑)」
小学6年時に初めて全国大会に出場(写真:新鍋本人からの提供)
日本代表、Vリーガー時代の新鍋といえば安定感抜群の守備が最大の武器だった。
「当時はこのプレーが得意とかは全然なかったんですけど、『負けず嫌い』ではあったと思います。対戦相手はもちろん、チームメイトや誰に対しても。4年生くらいの時だったと思うんですが、ママさんバレーをやっているお母さんたちが相手になってくれて、ゲーム形式の練習をやったことがあって。ママさんたちのほうがうまいし強いのは当然なのに、その試合に負けたのが悔しすぎて、その日は泣き明かしましたね」
負けず嫌いな性格はプレー環境に変化をもたらした。小学校5年生で、両親が指導する少年団から、少し家から離れたチームに移ったのだ。
チームを変えた理由は、新鍋自身は覚えていないらしいが、「急に『全国大会に行きたい』と両親に言ったらしいんです」。その言葉どおり、6年生の夏に全国大会に出場してベスト8まで勝ち進んだが、週末は合宿や練習試合などで埋まるなど、練習は段違いに厳しくなった。
「正直、練習が想像以上にハードでやめたくなったこともあります。それまでは合宿もなかったですし、指導も厳しくなったので『もう嫌だな』と。自分から言ったことだからやめられない、みたいな感じでした。
この時の新鍋は、まだ自分が全国的な選手になるとは考えていなかった。ただ、ここで基礎を叩き込まれたことが先につながったのだろう。
中学3年時に鹿児島県選抜としてJOC杯に出場(写真:新鍋本人からの提供)
小学校を卒業したあとは、クラブの近くにある中学校に通うことになった。中学時代は県大会のベスト4が最高成績だったものの、3年生の時に鹿児島県選抜に選ばれてJOCジュニアオリンピックカップ(JOC杯)に出場。当時の選抜チームは毎週末に合宿があったが、大変だったことはバレーとは別にあったようだ。
「合宿で夜にご飯を食べたあと、勉強の時間があってテストもあったんです。1日練習したあとだったので......すごく大変だった記憶があります(笑)」
久光スプリングスや日本代表で共に戦った、親友の岩坂名奈に初めて会ったのもこの頃だった。九州の全県から長身の選手を集めた合宿があり、新鍋と福岡県出身の岩坂もそこに選ばれていた。
岩坂の第一印象については「『大きいな』でした。そのままですけど」と笑う。その合宿は2泊3日しか日程がなくほとんど話をしなかったようだが、その何年後かにチームメイトになるとは思っていなかっただろう。
(第2回につづく)