この句集を読んで、妬心とはどのような心の動きなのだろうと考えた。仲間うちの競争心に源を持つ妬心と、愛する者の心を完全には所有していないと思う不安から生じる妬心とはかなり性質が異るはずである。
では妬心を働かすべき相手の存在感はどうなのだろう。散文的な意味ではなく、俳句の世界の素材としてのリアリティが欲しい。その空白を埋めているのは、自分は妻と呼ばれる立場ではないという意識、もう若くはないという意識、それと矛盾するようだが、こんなに綺麗で愛らしいのにとでも言いたげなひそやかな意識下の自負とのせめぎ合い。これは確かに、不幸と言っていい状況である。
“桜鯛ひと切買ひて妻ならず”
“子もり歌うたつてみたし春の宵”
こうした作品には、やはり作者のまぎれもない才能が現れている。が、それとは逆に、エロスをエロチシズムの舞台で表現しようと試みている作品のなかには、秀句もあるが意外に訴えてくる力の弱いものがある。
言うまでもないことだが、多くの場合エロチシズムとは、隠そうとする刹那に飛び散る火花のようなものだ。言いかえればエロチシズムは気品と表裏一体のものだ。その点、作者は自らを、女性でも婦人でもなく「をんな」に見せようとしていろいろ工夫をこらしているような気がするところがある。
日常生活に題材をとった技巧的でない句と比較して、男と女の交渉を意識した作品にかえってエロチシズムの香気が少ないのはおそらくこのためである。
“ 初浴衣脱がさるる肩雷光る”
“抱かれてもかのひと恋ふや夜の菊”
エロスのなかにいる時、作者は何故か菊であり、一人で考えこんだり食事の支度をしている時は屢々杏の花であり牡丹であったりするのだ。
とすれば、作者が俳句の道を選んだのは正しい選択だった。その志を現実のものとなし得る表現力はすでに身についていると言ってもいい。後、必要なのは何か。
それは意識の拘束を突破するための転機なのだ。おそらく作者自身はこのことをすでによく知っているに違いない。これはそうした予感に満ちた処女作であり、跳ぶ前の吐息に満ちている句集なのだと思われる。
【書き手】
辻井 喬
(1927-2013)詩人、作家。1955年に詩集『不確かな朝』を刊行、以来数多くの作品を発表。詩集に『異邦人』(室生犀星詩人賞)、『群青、わが黙示』(高見順賞)、『鷲がいて』(現代詩花椿賞、読売文学賞詩歌俳句賞)、『自伝詩のためのエスキース』(現代詩人賞)、『死について』など、小説に『いつもと同じ春』(平林たい子文学賞)、『虹の岬』(谷崎潤一郎賞)、『風の生涯』(芸術選奨文部科学大臣賞)、『父の肖像』(野間文芸賞)、評伝に『司馬遼太郎覚書』『私の松本清張論 タブーに挑んだ国民作家』、評論・エッセイ集に『新祖国論』、回顧録『叙情と闘争』などがある。英語をはじめ、フランス語、ロシア語、中国語、韓国語、アラビア語への翻訳作品もある。
【書誌情報】
妬心著者:谷口 桂子
出版社:KADOKAWA
装丁:単行本(182ページ)
発売日:1996-02-01
ISBN-10:4048715917
ISBN-13:978-4048715911