◆安保法制、改憲議論を始める前に
昨年秋、安保関連法案を審議中の国会前に、大勢の人々が押しかけて、連日抗議の声を上げた。マイクを握った学生が「民主主義ってなんだ?」と叫ぶと、群衆から「これだ!」と声が上がった。
本書の冒頭「はしがき」は、こんなふうに始まる。
“今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義のほんとうの意味を知っている人がどれだけあるだろうか。その点になると、はなはだ心もとないといわなければならない。”
一読して、はっとさせられた。2016年の日本を生きる人々に向けられた言葉ではなかろうかと。
本書はサブタイトルでわかるとおり、戦後間もないころに作られた社会科の教科書だ。「はしがき」には、こうもある。
“民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。
文部省に依頼されてこれを編纂した中心人物は、東京大学教授で法哲学者の尾高朝雄、のちに東大総長となる経済学者の大河内一男など、錚々たる執筆者をそろえたという。
本書が繰り返し言及するのは、「民主主義の根本精神」について。この教科書を作った人々が生徒の頭に叩き込みたかったのは、民主主義を制度やルールの類と思い込んで、形式的に選挙をしたり、国会を開いたりしているのでは、まったく民主主義を理解したことにならない、という点だったようだ。個人が主体的に学び、考え、実践的に行動しない限り、民主主義は姿すら現さないのだと。
たとえば第四章は「多数決」を取り上げる。それが「最後の決定は多数の意見に従うという」「民主主義の規律」であることを示しながらも、「用い方によっては、多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある」と指摘する。民主主義を形骸化させないためには、いかに「目覚めた有権者」でなければならないか、いかに民主主義の精神を自分自身の心の中に引き受けなければならないかを、懇々と説いているのだ。
今日、選挙のたびに驚かされる低投票率や、政治への関心の低さを思うと、「日本人の間には、封建時代からのしきたりで、政治は自分たちの仕事ではないという考えがいまだに残っている」という記述が胸に突き刺さってきて、私たちはいったい民主主義をきちんと学んできたのかと悲痛な気持ちにもなる。
編者が指摘するとおり、いまとなっては古い記述なども散見されるが、「かつて民主主義に最も真剣に向き合わざるをえなかった時代」の知性が残してくれた「教科書」を、批判も含めて検証することは、今日の私たちに必要であると思われる。
安保法制も改憲論議も、国民一人一人がこの「教科書」の内容を頭に入れてからならば、意味のある議論になるに違いない。
【書き手】
中島 京子
1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。出版社勤務を経て渡米。帰国後の2003年『FUTON』で小説家デビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞、2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞、同年『長いお別れ』で中央公論文芸賞、2016年日本医療小説大賞を受賞した。他に『平成大家族』『パスティス』『眺望絶佳』『彼女に関する十二章』『ゴースト』等著書多数。
【初出メディア】
毎日新聞 2016年2月15日
【書誌情報】
民主主義 〈一九四八‐五三〉中学・高校社会科教科書エッセンス復刻版著者:文部省
編集:西田 亮介
出版社:幻冬舎
装丁:新書(254ページ)
発売日:2016-01-29
ISBN-10:4344984102
ISBN-13:978-4344984103