大人たちが決めたルールに基づき、上手に演技できれば優等生扱いされるのに、適応できないと「落ちこぼれ」や「浮きこぼれ」のレッテルを貼られるのはなぜ?

『謎ルール: 10代から考える 「こんな社会」を生き抜く解放論』(内田樹監修、高部大問著)は、現代人が当たり前のように受け入れ従っているルールを掘り下げる一冊。本書より一部抜粋し、現代の学校教育が抱える「負の側面」について考えます。


■自転車カゴのゴミリレー問題
大人社会における優等生は誰でしょうか。言うまでもなく、大人自身ですね。自分たちで決めたルールに基づき演技しているのですから、当然です。たとえば午前と午後という12時間ずつの便宜的区分は恣意(しい)的ですが、昼と夜という概念ならば言葉を知らなくても認識できますね。

それなのに、「午前・午後」をはじめとした人為的概念のインストールを躾や教育だと豪語し、それを難なく理解・暗記・使用できると「頭がいい」と褒め、苦戦すると「落ちこぼれ」と烙印を押す。

ただの自作自演なのに、自分たちのことは自画自賛する一方、物分かりが悪く「演技」がうまくできない子どもには自業自得だと説教する。頭がいいことと人がいいことはイコールではないのに。大人は実に手前勝手な生き物です。子どもたちからすれば、勝手なルールで生きやすくされたり生きづらくされたりするのは、生殺与奪の権を握られたに等しいといえるでしょう。

教育とは自作自演です。フロムは『自由からの逃走』でこう述べています。

「教育の社会的機能は、個人にこれから社会で果すはずになっている役割を、果しうるような資質をあたえることである。
すなわち、個人の性格を社会的性格に近づけ、かれの願望をかれの社会的役割に必要であるものと一致するように形成することである」。

ですから、一見自発的に身につけたように思われている能力も、実は社会が促してはじめて興味の対象に上るのです。なんでも自分の意志で自由自在に動き回っていると得意気な人々は、まるで、自覚的には主体的でも実はお釈迦様の掌の上で右往左往しているだけの孫悟空です。

■落ちこぼれ、浮きこぼれ、吹きこぼれ
しかし、お釈迦様や大人の自作自演にうまく適応した優等生の方が、劣等生よりも人間的価値が高いでしょうか。そうとは限りませんね。フロムは言います。「よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値についてはしばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康であるばあいもありうる」のです。なぜなら、「期待されているような人間になんとかなろうとして、その代償にかれの自己をすてている」からです。

学校教育においても同様で、「落ちこぼれ」という言い方がありますが、現体制に適応できずに落ちこぼれることよりも、現体制のモノサシから溢れてしまって、既存の度量衡では測り知れない魅力を持つ「浮きこぼれ」をケアできないことの方が問題かもしれません。

さらに、たまたまお勉強というクイズ大会のような競技が得意で途中までは優等生として評価されるものの、その後の人生航路のどこかでアイデンティティを見失い自暴自棄になってしまう「吹きこぼれ」も問題です。

果物や野菜の場合、ジャングルという自然界ならば適応できた小さくて苦い王者たちも、ビニールハウスという人間界では優等生にはなれないといいます。育ての親である人間の都合に左右され、大きくて美味しい突然変異にその座を奪われてしまいます。
なぜでしょう。野生種と栽培種では生存条件が変わるからですね。

これは、人材育成でも同じこと。学校というビニールハウスでは、その独特な学校ルールに異様なまでに適応しきった学業エリートたちが優等生です。しかし、その後、ルールが全く異なる社会に出ると、適応条件が異なり適応障害を起こす者も少なくありません。これが、「吹きこぼれ」です。ストリート・エリートとスクール・エリートは違うのです。

■吹きこぼれの「こんなはずじゃなかった」
「吹きこぼれ」は、ルールのイメージ・ギャップから生じることが少なくありません。上昇志向で頑張っていた優等生が、就職活動や就職後に燃え尽きてしまうのは、「決められたルールのなかで努力してさえおけば幸せになれる」という淡い幻想を抱いているからです。

ルールは学校と社会で違い、ルールは変わることもあり、努力でどうにもできないルールもあります。寄らば大樹は結構ですが、大樹ごと倒れるリスクもある。豪華客船タイタニック号だって沈没する。
「こんなはずじゃなかった」とは、社会のルールを誤解していたときに吐く捨て台詞です。

日本でスクール・エリートの象徴といえば東京大学ですが、田中角栄首相退陣のきっかけをつくったジャーナリストの立花隆は、「昔から東大生はバカだった(あるいはバカに育てあげられた)のだ(中略)それはもちろん基本的な知的能力を欠くという意味のバカではなく、(中略)『教育の目的は現制度の賛美者をつくることではなく、制度を批判し改善する能力を養うことである』という言葉にてらしてバカ(そういう達成目標に到達できなかった)」と喝破しています。

また、哲学者のマイケル・サンデルは、恣意的なルールのもとで評価されていることに強者たちが思い上がるのは道徳的でも正義でもなく、分断を生む危険性があると指摘します。

曰く、「ゲームのルールによって、自分の才能から利益を得る資格を与えられているからと言って、自分の得意分野が評価してもらえる社会にいることを当然と思うのは誤りであり、思いあがりでもある」。

一般的には、「実力主義の社会ではほとんどの人が、世俗的な成功と自分の価値を同一視している」ものの、「われわれがたまたま、自分の強みを高く評価してくれる社会に生きているのも、われわれの手柄ではない。それを決めるのは運であって、個人の美徳ではない。(中略)政治家はつねに『ルールを守る働き者』こそ成功に値すると公言し、アメリカンドリームを体現している人びとに、自分の成功を自分の美徳によるものとみなすよう勧めている。このような信念は、よく言っても一長一短、度がすぎれば社会の連帯を妨げることになりかねない。成功を自分の手柄と考えるようになると、後れを取った人びとに責任を感じなくなるからだ」。

君主のあり方を説いたマキャベリは『君主論』において、「君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けること」が必要になり、そのためには、フェイクでいいと主張します。「君主たる者に必要なのは、先に列挙した資質のすべてを現実に備えていることではなくて、それらを身につけているかのように見せかけることだ」と。

■大人はルール・ブックではない
もしも、頭脳明晰なエリートや優等生たちが、悪知恵を働かせ、フェイクによって親身な指導者のふりをしたり、優秀な指導者を演じたとしたら、社会は「まずまずの安心とそこそこの満足」どころではなくなってしまいます。


エリートや優等生に限らず、大人は自分たちがルール・ブックだと思い込みがちです。そして、大人が決めたルール通りに振る舞えない子どもたちを「落ちこぼれ」と呼び、社会では自分たちの方がエリートで優等生だと開き直っているのです。

「落ちこぼれ」・「浮きこぼれ」・「吹きこぼれ」といった今の社会の負の側面は、子どもを躾ける立場の私たち大人に責任があるでしょう。少なくとも、負の状況を打破できないことについては。

監修:内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。思想家、武道家、凱風館館長、神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。

著者:高部大問(たかべ・だいもん)
1986年淡路島生まれ。教育思想家。
全員バラバラの血液型の家族、片目は失明し歯も1本だけの祖父、不登校の近親者、母子家庭の幼馴染、車椅子のクラスメイトなど、いわゆる多様性に囲まれた幼少期・青年期を経て、慶應義塾大学商学部在学中、地球2周分の海外ひとり旅、中国へのインターンシップ・留学を経験。卒業後、リーマン・ショックによる就職氷河期にリクルートに就職。人事・総務・営業を経験した後、大学事務職員にキャリア・チェンジ。入口の学生募集業務から出口の進路支援業務まで10年間従事し、現在はインクルーシブ保育・教育を実践する社会福祉法人どろんこ会に所属。1年間の育休経験も踏まえ、幼児教育から高等教育まで教育現場のリアルを執筆・講演などで幅広く発信。
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