映画監督の黒沢清はエッセイの中で、世間が「映画」として受け止めているものの内実は、「感銘を与えるドラマ」と「見せるスペクタクル」が融合したものではないかと喝破した(『映画はおそろしい』所収「人間なんかこわくない」/黒沢清/青土社/2001年)。
ここで『Chao』である。
本作は、もはや「手垢のついた」といっても否定にもならないであろう人魚姫をモチーフにしたボーイ・ミーツ・ガールである。造船会社のサラリーマン、ステファンが、ある日、人魚の王国のお姫様チャオと出会い、結婚することになる。この世紀のカップルの誕生は、世間にとって大注目のゴシップであり同時に「人類と人魚の友好関係樹立に繋がるもの」として大きな期待を寄せられることになる。しかしステファンは、なぜチャオが自分を選んだのか、その理由がよくわからなかった。そしてわからないなりに、徐々に距離を詰めていくふたり。
物語は、クライマックスの種明かしに向けて回答のピースを小出しにする、クラシックな構成で語られる。そのため前半は表層的には、ステファンへと一方的に好意を向けるチャオの空回りと、それにふりまわされるステファンの様子をコミカルに描くことで進行する。チャオがなぜステファンを選んだのかについて、前半からチラチラと匂わせてはあり、そこでチャオが一気に真相まで語ってしまえば、ステファンも観客もここまででやきもきすることはないだろう。
チャオは映画の中では、ほとんど赤くて丸っこい魚人の姿で登場する。人間の姿になるのは、重要ないくつかのシーンだけだ。魚人のチャオは涙滴型のシルエットで、尾びれでちょこちょこ歩くチャオはかわいいが、異種族であることも強調される。そこに無邪気な声である。それは「もっとはやく説明を」と道理を説くことにあまり意味がなさそうなぐらいには、ディスコミュニケーションな感じを漂わせていて「そういう人(人魚)だからしょうがないか」という気分になるのである。
このようにこの異類婚姻譚は、なかなか「感銘を与えるドラマ」のほうへは進んでいかない。映画の後半、終幕に入ったところで、さまざまなピースが組み合わさり、異類婚姻譚としてというより、「探していた真実は自分の中にあった」という形で物語は着地する。この畳み掛けは、人生というのもの綾を肯定的に浮かび上がらせて感動的だ。ただ、この展開はむしろ不意打ちに近いサプライズだからこそ効果的なものでもあった。
では『ChaO』はそこまでなにで映画を牽引するのか、というと「見せるスペクタクル」のほうなのである。
もともと黒沢がエッセイで書いた「見せるスペクタクル」というのは実写を想定し、印象に残るアクションシーン、モブシーン、破壊シーンなどが念頭にある。
まず本作の一番の見世物性は、キャラクターの頭身がバラバラだ。極端に頭の大きいキャラクター、非常に身長が低く描かれたキャラクターなどが混在している。「デフォルメ」というのは、特徴を誇張することだが、これらの人はデフォルメではなく、そういう人としてデザインされている。このあたりはチャオが「そういう人」だと納得するしかないのと地続きで、この世界はこういう人たちで満ちているのである。こういう通常のアニメの便宜的なお約束から逸脱することで、画面は「見せるスペクタクル」へと接近するのである。このほかにも、鼻の描き方(鼻梁ではなく、鼻の頂点から小鼻にかけて逆Vの字に実線をひき、鼻梁部分は色替えで表現する)、チャオに絡んだ水のエフェクト(楕円が数珠つなぎになった独特の形状)など、この作品にしかない表現があり、それは見慣れない分だけ、情報量として目に新鮮な刺激を与えてくれる。
画面の多くを占める美術のスタイルも独特だ。影の縁がピンク色に滲んでいたりと色彩も印象的でだが、一番は線の多さだろう。
このようにクライマックスになる直前までは、この映画をリードしているのは「見せるスペクタクル」で、なんならそれが異類婚姻譚以上に映画の本体といってもいいかもしれない。この映画の魅力は、ごちゃまぜから生まれる祝祭感にこそ宿っているのだから。
そう思って振り返ってみると、映画『ChaO』は、そもそもオーソドックスな語りをハズすところから始まっていることが思い出される。
初期のディズニー映画のように、映画は一冊の書籍が紐解かれるところから始まる。そこでは王子とお姫様の愛の成就がまさに語られようとするが、そのふたりをおいて、お話はその背後で海へ駆けていく少年のほうへとフォーカスする。そして、この少年の戦いが、人間と人魚が交流するきっかけになったということが語られ、その本を呼んでいる新米記者のジュノーへと切り替わる。
そしてこのジュノーが、かつて人間と人魚の関係を大きく変えた伝説の男ステファンと偶然出会い、ステファンにことの真相を取材する――という体裁で、物語は始まるのだ。
つまり「絵本をつかったパロディっぽい導入」があり、続けて「ジュノーを狂言回しに使ったステファンの回想」という形式があり、この二段構えからして、決して素直な語りの映画ではないことがわかる。そして、ステファンの語った「過去に起きたことの真相」が、最初にパロディで扱った王子と姫のように、まるで童話のようなめでたしめでたしで締めくくられるのである。
こうしてみると『Cha0』は、異類婚姻譚という「ヘン」なお話を、この映画はさらに「ヘン」なものでいっぱいくるんでもっと「ヘン」にすることで、「ヘン」を「ヘン」という意識を麻痺させようという語りで出来上がってるのだ。「ヘン」を安全にリアリティという大地に着地させようという気持ちがさらさらない。むしろ「ヘン」を「ヘン」でくるむことそのものが映画の目的のようになっており、その倒錯気味なところが、この映画の味の濃さを生んでいる。
もしかするとどこかでなにかの要素が抜けたり過剰だったりしたら、バランスが崩れて奇妙なだけの作品になっていたかもしれない。それがタイトロープをわたりきってしまったところに、映画というもののおもしろさがあるように思う。